運は天にあり

内省の記録

人間への畏れ

とあるラッパーの話で、とても共感出来る話があった。

 

このラッパーというのは、いわゆるギャングスタ系のラッパーで、ゲトーでの生活やそこからの成り上がりを歌にして歌っている人である。前科もあり、黒いつながりもあり、ラッパーにならなかったらその筋の人間になっていたという札付きの人物である。

 

平素はとても礼儀正しく、歳下の人間にも敬語で話すという。なぜかと言えば、過去に他人を侮って痛い目に遭ったことがあるから。ある時、大人しそうな人だと思って舐めてかかっていたら、あとで組の人間を連れてこられたことがあったという。しまったと、後悔した時にはもう遅かった。そういう体験をして来ているから、常に最悪の事態を想定して言動に気をつけているのだと言う。

 

さすがだなと思う。伊達に何年もストリートで生き延びてるわけじゃない。度胸が過ぎるがゆえの失敗もするが、重ねてきた失敗の分だけの知恵が身についている。かなり若いラッパーだけれど、年関係なく素直に尊敬出来る人だと思う。

 

日々、町ですれ違う様々な人々のことを思う。お互い氏素性もわからぬ者同士が、同じ空気を吸い、同じ景色を見て、同じ道を歩いている。考えてみれば、ストリートというのは壮大な場所だ。行き交う一人一人に人生があり、莫大な過去現在未来があり、それらが一つ所で何次元にも重なりあう様子は、さながら曼荼羅のようである。誰が敵で誰が味方かもわからぬ訳だから、同時に恐ろしい場所であるとも思う。

 

人間に対する恐れや畏れを知っているかどうかは、言動に如実に現れる。礼儀というのは、何より自分を守るのに必要だ。あらゆる人間の坩堝であるストリートで、他人を侮るというのは間違いなく自殺行為である。人間の怖さを知っている人ほど、下手なことはやらかさない。自然と言動も慎み深くなる。

 

一方で、小者ほど言動が「これみよがし」である。何をするにも、気取ったり、誇張したり、もったいぶったり。慎みがない。根底にあるのは自信のなさで、その自信のなさと自身で向き合えていないから、自分を大きく見せずにはいられない。そういうのがどれだけダサいか、どれだけ器が小さく見られるかという所まで、考えが及ばない。

 

小者は、強い相手には諂い、弱い相手には居丈高になる。自分が強い人間に絶対逆らえないものだから、他人もそうだろうと思い込んでいる。余りにも、人間を知らなさすぎる。どんなに弱い人間であっても、覚悟を決めた人間は恐ろしいもの。追い詰められれば人間タガが外れるもので、恨みの代償は必ず高くつくことになる。

 

こういう知恵は、知識や言葉ではなく感覚で身につけないと分からない。ラッパーならばそう、ストリートで培うストーリーが、そういう感覚を研ぎ澄ましていく。人生の序破急が、起承転結が、心を豊かにし、大きな人間を造り上げていく。

 

ところが、中途半端な人間の人生は、現状維持と事なかれの繰り返しである。成功も失敗もなく、大きな苦しみも悲しみも経験することがないまま、無為に歳を重ねてゆく。中庸と中途半端は似て非なるもの。そうして出来上がるのは、恐れも畏れも知らない、無礼で傲慢な中年である。つまらない人生の総決算が、無礼で傲慢な中年、なのである。

 

小賢しい処世術にすがり、醜いヘイトを撒き散らしながら、何の値打ちもない惰命をつないでいく人々。こうなってしまったら、あとは死以外に救いはない。