運は天にあり

内省の記録

強さ

強さとは何だろうか。色々な強さに憧れを持ちつつ、強さの裏を見て幻滅を味わううち、強さとは何なのかが分からなくなる。しかし、金を稼ぐ時にも人を評価する時にも、何かと使われがちなこの言葉は、生きていく上でどうしても避けることが出来ない。何をもって人を強いとか弱いと呼べば良いのだろう。

 

腕力の強さというのが、ひとつにはある。現実問題、結構この強さは幅を利かせている。けれども、さすがにこれをもって人を強いとか弱いとか言うのは低俗すぎる。腕力の強さに甘んじてきた人間が、長じるに及んで多面的な評価にさらされた時、さっぱりになってしまうこともよくある。

 

打たれ強さというのもある。辛い労働に耐えたり、理不尽なことを凌いだりする強さであり、これも、生きていく上で重宝されている。でも、なんか消極的だ。ただ鈍感なだけ、ただ恥を知らないだけの人間を強いとは呼びたくないな。そういうのは文字通り、ただ鈍感なだけ、ただ恥を知らないだけで、強いという言葉には相応しくない。ずうずうしいと言った方があっている。

 

気持ちの強さが、やはり「強さ」という言葉に一番しっくりくる。精神力とか、決断力とか、意志の強さとか、色々言い方がある。意志の強い人は、逞しい。決断の出来る人は、頼もしい。勝負事においても、気持ちの強さを持っている人というのは強い。

 

ところが、気持ちの強さというものの危うさを感じる出来事が最近あった。強さを感じつつも、果たしてこれは本当に強さと呼べるのだろうかと、強く疑問に思った。

 

自宅のアパートでの出来事。アパートの裏で、ゴミの不法投棄があった。壊れたテレビが捨てられていた。捨てられたまま何日も放置されていたようで、目障りだと思った周辺の住民から管理会社へ苦情が来たらしい。管理会社からアパートの住人に向けて、張り紙が貼られてあった。

 

張り紙にはこう書かれていた。ゴミの不法投棄があり、苦情を受けている。何か情報を知っていたら教えて欲しい。万が一、このアパートの住人が捨てているのだったら、すぐに辞めてもらいたい。今後もこんなことが続くようなら、共益費の値上げも検討せざるを得ない。

 

高圧的な言い方だった。犯人がアパートの住人だと決まったわけでもないのに、ひどい言い草である。共益費の値上げなどまるで脅迫みたいなものだが、ここまで言う必要があるだろうか? だいたい、不法投棄するような人間がわざわざ自分のアパートの周りに捨てるわけがなく、住人に対してこんなことを言うのはお門違いもいいところだ。

 

しかも、この張り紙は私の郵便受けの真上に貼ってあった。なぜかと言えば、ゴミが捨てられていたのが、ちょうど私の部屋の裏だったから。はじめにこの張り紙を見た時、とても驚いた。わざわざ当てつけのように、ほとんど名指しするかのように、これ見よがしに貼ってあったのである。

 

さすがにムッとする。これじゃまるで犯人扱いである。アパートの裏は隣の住居の裏側と2〜3m隔てて隣り合わせになっており、狭い路地裏とは言え公道になっている。近隣の住民や労働者が自転車を止めたりもしている。誰が歩いていても不自然ではないが、見通しが悪いので表の人通りから姿を見られることもない。外から来た人間が、こっそりモノを捨てたりするには都合のよい場所なのだ。

 

怪しいのは明らかに外部だろう、というのは置いておくとしても。私の部屋の裏にゴミがあったのは確かだが、それならそれで、心当たりがないか直接聞いてくれれば良い。そしたら、自分ではないと請け合うことも出来るのに。わざわざアパートまでやって来ておいてそれぐらいのこともせず、あえて嫌がらせのようなことをする了見が癪に触った。これでは、アパートの他の住人からの心象も悪くなってしまう。

 

管理会社に怒ってやろうかと思った。こんなことを言うのは筋違いだ。不法投棄があったのなら、まずは警察に連絡すべき。そして、管理会社が責任をもってその後の対応もすべき。張り紙の文言を読むと、とりようによっては、共益費の値上げを盾にして、住人の自己犠牲的な対応を促してるようにも見える。冗談じゃない。ゴミの処分にも金がかかるのだ。それじゃ、何のための管理会社か分からないし、不誠実も甚だしい。腹立たしい。張り紙も、当てつけにビリビリに剥がしてやろうかと思った。

 

ひとしきり怒りの言葉が頭の中を巡ったのち、ハッとする。何だか、いつもの自分でなくなったような気がする。怒りで我を忘れるとかいうことではなく、目に見えないものに取り憑かれたような感じがする。向こうがこう言って来たらこう言い返してやろうとか、徹底的に戦ってやろうとか、やけに勇ましく、自分が強くなったような感覚がした。

 

落ち着いて、どうしようか考える。まずは想像しよう。相手はなぜこんなことをしたのだろう。困っているからだ。クレームを受け、どう対処しようか窮した挙句、こんな中途半端な愚かなことをした。クレームをつけたのはなぜ。もちろん、クレームをつけた人も困っているから。そうして、巡り巡って、今また自分も困っている。見渡せば、皆んな困っている。

 

悪いのは、ゴミを捨てた犯人だけ。管理会社の人にも、近くに住んでる人にも、自分にも、争う理由は何もない。なのに、なぜか皆んながギクシャクしてしまっている。

 

たしかに管理会社は下手を打った。が、人間のすることなんてまあこんなものだ。いちいち腹を立てるのはよそう。それよりも、責任は管理者にあるからと、傍観を決め込むことの方が良くない。同じ土地に住む人間として、同じ社会に住む人間として、協力しなければいけないことがある。それぐらい広い視野で考えると、自分が何をすべきかもわかって来る。

 

一晩明けたのち、朝の始業時間を見計らってすぐに警察に連絡した。警察署が近かったので、まもなく2人の警官が来てくれた。事情を話し、現場を見てもらうと、これぐらいのゴミの量だと犯人特定が困難なので捜査は出来ないとのことだったが、行政への連絡などは代わりにやってくれた。張り紙のことを話すと、わざわざ管理会社への連絡までしてくれたのがありがたかった。

 

やるべきことはやった。あとは、自分の名誉を守るだけだ。警察官の人たちが去ったのち、張り紙をそっと剥がして捨てた。何日かのちには、ゴミも撤去されていた。

 

こんなことがあってから、自分の中に芽生える「強さ」に非常に警戒を抱くようになった。その時は、錯覚もした。我ながら言うべきことをハッキリ言えるようになったなと、愚かにも見誤った。だが、これを強さと呼んで良いのだろうか。この場合、自分の方に明らかに正論があったのだが、例えばもっと境目が曖昧な時、正論が必ずしも自分の味方になってくれない時でも、同じぐらいの気持ちで自分の正しさを主張出来ただろうか。

 

やっぱり、これは強さとは言えないと思う。言うべきことを言うのは確かに大事だが、もっと良い解決方法があるにも関わらず正論を行使するのは、ただの力の濫用だ。武器を使うのではなく使われる。知識を使うのではなく使われる。もっともらしいことを言っていたとしても、広い視野で見ればゴネているだけ、強さの証明どころか、むしろ弱さの証明になってしまっている。

 

下手に抗議をしたりしなくて良かったと思う。そんなことをしても何も解決しないし、何より自分らしくない。自分の個性とも強さとも離れた所で、空虚な正論だけが突っ走りそうになっていて危なかった。

 

仏陀は、人間の認識は相対的なものだと教えた。強さや弱さという認識も、もちろん相対的なものだ。自分より弱い相手に向かえば相対的に自分が強くなる、それは当たり前のこと。逆もそう。けれど、そんな当たり前のことがしばしば見過ごされがちになる。とりわけ、立場の強弱の違いが、人を錯覚させ知恵を失わせる。 

 

弱い人間ほど、力を手にした時に豹変する。身に余る力に呑み込まれてしまう。何度も見覚えがあるけれど、小者が権力を持ってしまうと、強い人の猿真似で偉そうな話し方をしたり、イキった尊大な態度をとったりするようになる。見苦しいことこの上ない。権力だけでなく、腕力やIQにしてもそう。それに相応しい器が備わっていない限り、力はむしろ害になってしまう。

 

立場の強さや力の強さに左右されない、内に秘めたる芯の強さこそ、真の強さだと思っている。力に頼る人間は力に負ける。自ら強いと自負する人ほど、上手の相手にあっさり食われる。自他の力に呑み込まれず、自分を保ち続けるのはとても難しいことで、多くの人が力に翻弄され、愚かなことを繰り返している。どんな時でも自分自身の弱さと向き合える人は、強いと思う。