運は天にあり

内省の記録

飲み会

先日、会社の飲み会に参加した時のこと。まだ11月ながらイルミネーションに飾られた街中の、とある焼肉屋にてその飲み会は行われた。主賓は、今月50歳の誕生日を迎えるという人。コース料理の肉を囲んで、皆でその人を祝う。肉は美味しかったし、人も多勢集まったし、終始良い雰囲気の会だったように思う。

 

一見なにごともなく終わった会だった。だが、少し気にかかることがあった。それは、問題点というほどでもない、目に見えない小さなことではある。以前からなんとなく気にかかっており、今回をきっかけにはっきりその存在に気づいたこと。

 

会社にMという人がいる。若い独身の女の人で、歳はいわゆるアラサーに入る。屈託無くハキハキしていて、輪の中心にいるのをよく見る。聞けばもともと地下アイドルをやっていたという。そんな経歴もあり、職場でもどちらかと言えばアイドル的な立ち位置にいる。

 

幹事をしたのはこの人である。自身が主賓の場合を除き、だいたいMが幹事になる。店に入った時も、まずこの人が席に座る。続いた他の人たちは、ひとまず周りの様子を見合い、着いた面子を確認しつつ、Mの差配で席が決まる。それから先も何とはなしに、Mを中心にその場が回る。良くも悪くもいつもの感じ、Mの空気に流されてしまう。

 

これが本当に、良くも悪くもという感じである。色々と気を使ってくれるのはありがたいのだけれど、中心が出来てしまうというのは、やはり不健全な気がする。話題にしろ席順にしろ、Mの価値観がその場に大きな影響を持つので、どうしても似たような雰囲気になりがちである。もう少し個人のカラーが薄まればちょうど良いのだけれど、M自身は良かれと思っての振る舞いであるがゆえに、なかなか難しいところでもある。

 

Mの話題はほぼひとつしかない。恋愛の話である。とにかく男と女の話が大好きで、若い人を集めてそういう話をしたがる。何かと言えば、出会いがどうの、別れがどうのと言う。逆に、それ以外の話をしているのを思い出せないぐらいだ。

 

Mは裏表のない人で、嫌いではないのだけれど、あまりに開けっぴろげに話しすぎて閉口することがある。ちょっと前には毎日のように合コンの話をしていた。しばらくして彼氏が出来たとかでその話がなくなったと思えば、またすぐに合コンの話が出て来るようになった。年収は何百万以上とか、顔はイケメンでないと嫌とか、そういう下衆な話もする。これはちょっと、と思うような下品な話もする。裏表がないぶん、見たくもないプライベートゾーンまでも、生々しく見せつけられてる感じがある。

 

もう少しほかに話題がないのかと、たまに思う。三十手前で、それまで歩んだ人生のことを考えるなら、きっと何かはあるだろう。ところがどうも、他のことには興味もなさげで、他人の熱弁も馬耳東風。話題が変われば、質問もせず相槌もせず、所在なさげにビールを飲む。ことによったら、人の話の腰も折る。

 

話の内容はこの際問題じゃない。問題なのは、価値観が固定されてしまうことだ。普段話せないような人と話したり、普段話さないようなことを話せるのが飲み会の良いところなのに、ひとつの価値観に支配されると、いつも同じような席の並び、同じような話題で終わってしまう。それではやはり、残念だ。

 

連句と飲み会の構造は似ていると思う。最近、そんなことを考えている。言葉と言葉の応酬で、座に集まった人たちでひとつの空気を作り上げるという所に、通じるものは多いと思う。連句の言葉に当てはめるなら、幹事と主賓は正しく主人と客の関係だ。まずは軽い挨拶から始まり、だんだん深い話題へと移っていくというのも連句の通り。各々が交互に参加して、楽しい話題を提供したり、気の利いたことを言ったり、白けないように工夫したりと、皆で協力して作り上げていく過程も似ていると思う。

 

蕉風の歌仙において、恋は極めて大切なものとされ、軽々に詠むべきではないとされた。月や花と同様、必ず詠むものではあるが、あまりに大事なテーマであるがゆえに慎重に扱われた。こういう所も似ていると思う。宴の席だからそんな話も良いのだけれど、濫用したりぞんざいに扱うと、低俗になったりセクハラになったりしてしまう。何だかんだでやはり、ここぞという時の重い話題なのだと思う。

 

ただし、やっぱりこれも一見解にすぎないと自分でも思う。周りの人は、一体どういう風に思っているのだろう。自分は気づいて懸念したけど、みんなは案外気にしてなくて、Mの話題はすんなり通る。一番乗り気になるのはMだが、周りもまんざら嫌でもなく、話題があるなら乗る模様。話の中身も大事だけれど、そんなことより楽しく酔おう。そう思ってるならそれで良いのかと、自分を信じて良いのか迷う。

 

作法はあくまで作法。歌仙でも、必ずしも毎回全ての作法が守られている訳ではなく、その場の雰囲気や流れによって、作法を崩すこともある。それもまた即興の醍醐味か。軽い話もありつつ、要所要所で大事な話も交えつつ。そんな形が理想だけれど、本分は参加者が楽しむことだから、形にとらわれるのは本末転倒かしれない。

 

周りの人と自分との間には壁がある。それを未だに取り除けないでいる。自問自答してみる。当たり障りのない会話は楽だ。多少でも波長が合えば、少なくとも楽しいような錯覚に浸れる。だが果たしてそれで良いのだろうか。所詮そんなのは技術の問題だ。深い話は不快だ。何でも話せるMのような人は、羨ましい。

 

人が多勢集まると、話し方や言葉の選び方など考えることがあまりに多く、はっきり言って下手を打たないようにするだけで精一杯。楽しいと感じことは一度もない。欠席するのも寂しいけれど終わった後にはもっと寂しい、そんなことばかり繰り返している。色々考えて行動してみても、ほとんどうまくいってない。

 

重い話であっても平気で話せて、周りを巻き込むことの出来るMはすごいと思う。自分をさらけ出すということには羞恥を伴うものだけれども、それを物ともしないスケールの大きさを感じる。はっきり言って仕事の方はいまいちだ。失敗も多い。それでもMが嫌われないのは、器の大きさゆえなのだろう。

 

どうも、形で判断しようとすると見誤る。切り分けることは簡単だが、統合するのはとても難しい。違和感の中身には、外の原因と内の原因と二つがある。目に見えないものを粘り強く言葉で解釈していかなければ、それが見えてこない。

 

自分を守りすぎているだろうか。そんな気もしてきた。生活が落ち着いてくると、やはりどこか物足りない。……次へ進んでいかなければ。