運は天にあり

内省の記録

否定形を使わない

他人の会話をよそで聞いていて、そんな言い方しなくても良いのにとか、もっとこう言えばいいのにと思うことがある。話の中身というよりも、言葉の選び方とか返事の呼吸とか、そういうちょっとした所が良く気になる。

 

気になる言い方には角がある。わざわざ摩擦を起こしてるように聞こえてくる。ほんの少しの工夫や気づかいで柔らかくなるのに、その労を惜しんでか、みすみす衝突していくのがもどかしい。クッション言葉を一個入れるとか、逆に敢えて口に出さないとか、それぐらいのことで良いのにと、いつも残念に思う。

 

またあの人たちやっている。昨日も聞いた二人の会話。呆れた様子で答える方と、すまなさそうに尋ねる方。何度も何度も繰り返され、見飽きてしまったやりとりだ。答える方は聞く方の覚えの悪さに呆れるが、よそから聞けば説明も下手でいまいち伝わらない。にもかかわらず、聞く方を詰る態度が出てるから、気後れもあり不服もあり、いきおい会話もギクシャクとした雰囲気になってしまう。

 

会話の流れを妨げる言葉使いの、最たるは否定形だと思っている。必要な時もあるけれど、単に話をややこしくさせてるだけの否定が目立つ。実際そこまで必要か。意固地になっているだけではないか。そこはひとまず飲み込んで、次へ進めば良いのにと思う所で角が立つ。「いやそうじゃない」「それはわかってる」「だから違うって」。言葉も感情ももつれ合い、組んずほぐれつになっていく。

 

何を言おうとはじめから否定する気で話を聞く、嫌な会話の仕方がある。そんな会話のやり方が、言葉と言葉の応酬を貧しいものにしてしまう。否定出来ればあげつらう。出来なかったら押し黙る。自他の創発を産むべき言葉の力が、そうしてただの暴力に変わる。

 

否定を使わず話が出来たら、どんなに会話が豊かになるか。言わずもがなの余計な言葉が、腰を折って興をそいで、会話をみるみる淀ませる。他愛もない雑談であれ、必要上のやりとりであれ、それは全く変わらない。たった二文字の「否」の言葉が、今だけでなく未来にわたって、心も言葉も腐していく。

 

文法上の否定形すら、実は必要ないかもと思う。はっきり否と言うよりも、言葉の言い換えに骨を折る。伝え方を工夫すれば、どのようにでも言えるだろう。だから、ともかく一切の否定を使わず話してみよう。そう決めて日々を過ごしてみると、実際問題話は通る。それはさながら、融通無碍に形を変える水のよう。

 

一見小さなことかも知れない。けれど、日々つみ重なったなら、小さなことでも侮れない。空気のように見えないものに、痛めつけられるのはつらい。たとえ少々わざとらしくとも、形式的に過ぎたとしても、配慮が無いよりよほど偉い。

 

否定によって傷つくのは、目の前の人ばかりじゃない。もっと多くの人たちを巻き込んでしまう場合もある。例えば、心ない誰かから悪意あるレッテルを貼られたとする。それが自分にあっているかどうかにかかわらず、否定をすると罪になる。そのレッテルの対象となる人が、必ずどこかにいるからである。レッテルを押し付ける、それを嫌がって否定する、このやりとりだけで、共犯関係が成立する。その集大成が社会となり文化となって、差別や偏見を作っていく。

 

小さなことと言うこと自体、ナンセンスだろう。言葉は一個で成り立つものにあらず、自ずと聞く人話す人、周りの人を巻き込まずにはいられない。言葉は響き、こだまする。吐き捨てるように言った言葉でも、誰かの耳には残っている。それがいつしか自分のもとに、返ってくることもあるだろう。目に見えないものというのは、恐ろしいものだといつも思う。

 

否定を使わないということは、技術の上ではそう難しくない。それよりも、相手を否定したくなる心理の方が厄介で手強い。頭を目一杯柔らかくして、決して否とは口に出すまい。そうは思っていたとしても、時折ムズムズ現れる否定の心理作用があって、憮然となってしまう時が危ない。

 

あるいは不満、あるいは功名心、あるいは慢心。相手を否定したくなる原因には、様々な心理があると思う。けれども、一番は器の問題ではないかと思う。狭い了見にとらわれて、目の前のものを否定したくなるのも器の小ささゆえ。一時の気分に左右されることのない、人格の素地にある器の大きさが、否定の心理に働きかけているように思う。それは、経験を重ねて広くすることも出来るはず。世界が相対的なものであること、多様性をもったものであることを、受け容れられる器の大きさがあって欲しいと思う。