運は天にあり

内省の記録

仕事の仕方

人を動かすのは難しい、と改めて感じる。

 

最近新たに職場に入った若い男の人がいる。まだ未成年の大学生で、ここでは仮にTと呼ぶ。Tはとても優秀で、知識も多いし仕事もでき、どこで学んだか知らないが、教えてなくても一通り、作業をうまくこなしてくれる。意識も高く、勉強会やインターンにも積極的に参加しているようである。

 

一緒に仕事をしていると、意識の高さがより感じられる。何も言わずに黙々と任せたことを仕上げてくれ、時には頼んでいないことも気を利かせてやってくれる。言葉もいらず、手間もかからず、大いに助けてもらっている。

 

とは言え、あまりTの才気を頼りすぎないよう心がけてはいた。いくら優秀とは言っても、入学したての大学生で、仕事も最近始めたばかり。形の上ではこなせても、まだ経験しなければならないことが沢山あるように思う。

 

自分の常識を押し付けないこと。そこを特に意識していた。相手のものわかりが良いと忘れそうになるが、あてにし過ぎるのはやはり危ない。すでに話が通っていることには、敢えて言わずに口を慎む。そうでないことに関しては、なるべく目線を同じに合わせる。なにごとも任せっぱなしにはせず、一から丁寧に説明するようにしていた。

 

しかし、それでも常識のズレは起きてしまうもの。こちらが何の他意もなく言っていることでも、相手が同じように受け取るとは限らない。そういうところから、すれ違いが起こってしまった。

 

ある時、私とTとを含めて数人でやっている仕事で、ちょっとした相談事が持ち上がった。今の仕組みでは解決できない問題があり、一部に手を加えて改良しなければならなかった。どう対応しようか、みんなで話し合うことになった。

 

改良が必要なのは、Tが担当している箇所だった。ここはTが一番詳しいはずなので、何とかならないかと話を向けた。もちろん、仕事の内容にケチをつけたわけではない。新しい問題が出てきたので「こういう対応は可能だろうか」と打診をしただけである。ここまでは、何の不思議もないはずだった。

 

ところが、自分が思っているような温度感では相手に伝わらなかった。Tは熱くなった。そんなことはない、これで正しいのだと主張をした。思いがけず語調が強めだったので、一同驚いた。何語か言葉を交わしてみたが、ああ言えばこう言うで、一歩も引かない様子だった。場の空気は白け、ひとまずその場は結論を出さずに終わらせることになった。

 

予期せぬタイミングの諍いに驚いた。こんな空気になるとは思わなかった。話の切り出し方とか、言葉の選び方がまずくて、否定されたように捉えられてしまったのだろうか。見直しを繰り返しつつ、手戻りも経ながら仕事を完成させていくのは普通のことなので、そこには誰も気をつけていなかった。だが、それがまだ普通ではない目線もあるということだった。

 

たまたまその時、Tの虫の居所が悪かっただけなのかも知れない。適当に理由をつけ、しばらく時間と距離を開けることにした。

 

正直、Tへの見方は変わった。なんかやりづらい人だなという印象がついてしまった。

 

同時に自分自身にもがっかりした。これぐらいのことは、予め分かっていたはずだった。年が若ければ不安定なところもあるだろうし、ましてや才気走った人ならなおさらだ。そう思って接していたつもりだったけれど、いざ直面するとまあメンドくさい。

 

どうしようかと考えた。最初は、なぜあんな文句を言われなければならないのだというモヤモヤがあった。そして逆に、普段一緒に働いている人たちの有難さを再確認することになった。器用な人はありがたいと言えばありがたいが、結局は一人で出来ることには限界があるので、多少不器用でも仕事をしやすい人の方が良い。

 

とは言え、織り込み済みのことをあれこれ言っても仕方ない。人は思い通りには動かないものだし、むしろ今までがすんなり行き過ぎたのだろう。仕事のしやすい人と仕事が出来るのは当たり前で、そうでない人とも折り合いをつけていけるのが人間力というものだと考え直す。

 

少し時間を置いたあと、Tに話しかけてみた。別の要件にかこつけて、さっきの問題に触れた。一方では、ここが能力の見せ所だと功名心を煽ったり、また一方では、これが出来ると本当に助かると頭を下げてお願いしてみたり。そういう内容のことを、ものすごく婉曲的に、かつ曖昧な形で伝えた。

 

この時ばかりは、日本語って便利だなと思った。格助詞と係助詞の使い方次第で、何か言っているようにも、何も言っていないようにも、如何様にも言えてしまうのだから。直接言うわけでもなく、かと言って遠回しに言うわけでもなく、外さずかつ当てもしない。もちろん、それまでの経緯から真意がどこにあるかは明らかなのだけれど、変に気持ちを逆撫でしたり、説教臭くなったり、あるいは気を遣わせたりしないように、腐心した。

 

その場はひとまず話を聴いてくれたみたいだった。だが、自分ではそれ以上の期待はしなかった。物事はそうすぐには変わらないので、長い目で見ていくしかない。少しでも言葉が伝わればそれで充分。件の問題については、あとで自分が何とかするか……と考えていた。

 

ところが、後日、Tが何も言わずにこの問題を解決してくれていた。しかも、ものすごく高い完成度で仕上がっていた。これを知った時には「さすが!」と、惜しみない賞賛の声をあげ、わざとらしいぐらいに周りにも喧伝した。

 

自分の行動が良かったのか、周りに助けられたのか、たまたま上手くいっただけなのか。答えはでないが、キナ臭い空気がボヤで済んでくれた安心感でほっとした。

 

結果的に良い方向に向かってくれたが、あとで色々考えた。なぜこんなことになってしまったのかとか、どう振る舞うのが良かったのかとか。人間である以上、間違いがあるのは避けられないので、問題が起きてしまうのは仕方がない。それより、問題が起きたあとの行動こそ大切だと思うので、そこは本当に色々考えた。

 

どういう選択肢がありえただろうかと考えているうち、ハッとした。例えば、Tが不平を言った時、一喝するということも出来たのではないか。あるいは、強い口調で口を塞ぐとか、理詰めで黙らせるとかいうことも出来たのではないか。つまり、暴力で解決するかどうかという場面に立たされていたことに気がついた。

 

相手の気が立っている時に力で押し付けるのは暴力だ。そんなことをすれば絶対に遺恨が残る。しかも、渋々従わせたら相手は全力が出せなくなり、仕事の質も落ちる。一度暴力を振るってしまっては、二度とそれ以前の人間関係には戻れないから、長期的に見てもマイナスだろう。また、自分が相手にしたことを、相手がまた別の人にするようになったら? それこそ、暴力の連鎖が始まってしまう。

 

理屈の上では暴力という選択肢もあるけれど、実際にはそんなこと考えもしない。色んな安全弁に遮られて、選択肢にすら上がらない。

 

恐ろしいのは、これらの安全弁を一つも備えていない人間がいるということだ。

 

確かにイラッとする気持ちはわかる。が、それをそのままストレートに表すのは頭を使わなさすぎだ。その場はそれで収まるかも知れないし、それはそれで楽だろう。だが、暴力で解決出来ないことなんで山のようにあるし、そんなやり方がずっと続くはずがない。なにより、暴力の癖がついてしまったら、絶対辞められなくなる。

 

問題なんてない方がおかしいのだ。不平を言えたり、問題を起こしたり出来る環境は、健全なのだ。それだけの遊びと余裕をもっているから、受け止めることが出来る。火薬の匂いを充満させることで、はじめから文句を出させなくすることも出来るだろう。しかし、それは臭いものに蓋をしただけで、禍根を将来に残すだけ。嘘や隠蔽の温床になる。とても、良いやり方とは思えない。

 

……結果は出てる。とにかく今は、自分のやり方を信じよう。