運は天にあり

内省の記録

言葉は無力

最近、ほとんど本を読まなくなった。音楽は聴いてる。ネットもしてる。けど、活字を本で読むことがない。機会もないし、読む気も起きない。気持ちが書物から、だいぶ遠のいてしまっている。

 

知ることは確かに大事。けど、知ることと能うことは別だし、知識と経験の乖離はとても大きい。言葉に裏切られたり、翻弄されたりすることが多くなり、言葉というものに信頼がおけなくなった。しっくりくる言葉以外は受け付けなくなった。ましてやそれが、全く違う体験、全く違う人生を経て来た他人の言葉ならなおさらだ。

 

生活は良い方向に向かっている。なぜそうなったかと言えば、環境が変わったから。それ以外にない。身もふたもない。環境を変える力になったのは自分自身の問題意識であり、他人の言うことはいつも逆だった。辞めるな、逃げるなと、現状維持を強いるようなことをずっと言われてきた。

 

ものの分かったようなことを言っていても、現実はこんなもの。その人にとってたまたま良かったことが、他人にとっても当てはまるとは限らない。あれだけ偉そうに、もっともらしく語っていた言葉は一体何だったのか。これだけはっきりと結果が出てしまうと、もはや呆れるを通り越して情けない。

 

言葉で説明できることは怪しい。綺麗に割り切れれば割り切れるほど、切り捨てられたものの中に大事なものが潜んでいるように思う。人一人の唯一無二の体験、個人史を抜きにして、言葉や論理だけで答えが出せるか。どれだけ知識を沢山仕入れようとも、その中にリアルな世界は存在するのか。

 

問題意識を共有できる人はいないだろうかと、本の中に仲間を探し求めたことがある。文学全集を一巻目から紐解き、作者のプロフィールを見て、好きになれそうな作家がいないか探した。が、見つからなかった。プロフィールがみんな似てる。みんな同じ顔をしている。この全集とやらは、帝国大学だかのエリートの、そのまたごく一部の同人がやっているものだと気づいた。

 

境遇が違いすぎたら、もう駄目だ。言葉が入ってこない。普遍的なこと?  それより、割り切れないことが山ほどあるよ。

 

色川武大の『うらおもて人生録』は面白かった。共感できる話が多かったし、影響を受けたところもあった。自身も劣等生だったという色川は、優しい語り口で、若い人に向かって人生のことを話す。博打打ちとして生きてきたこと、作家として生きてきたことなどを踏まえ、人とは違う見方で、ものの考え方や思い出話など、色々なことを話してくれた。

 

ところが、他のエッセイを読むと、全然印象が変わってしまった。ある読み物で、色川のもとに不思議な学生が訪れたときのことを書いていた。その学生は、『麻雀放浪記』を読んだとかで感銘を受けて来たらしく、何か胸に秘めたような様子だった。ただ、どうも捉えどころがなく、立ち居振る舞いに無礼なところもあったので、適当にあしらって帰したと言う。この学生について色川は、せっかく自分が会ってやっているのだから、もっと器用に振舞って人脈につなげていけばいいのにと、呆れるように書いている。また別の読み物では、ウェイトレスをしながら歌手を目指している若い女性について語り、普段の声が小さくてプロ意識がないと評していたりする。

 

誰もが器用に生きられたら苦労はないし、いつも合理的に行動できるとも限らない。そんなことはもう、大前提じゃないのか。『うらおもて人生録』では、劣等生に寄り添うようなことを言っていたけど、実際の態度が全然違う。なんか書き方が嫌らしい。若い人を槍玉にあげて、いかにもオッサンが好きそうな説教くさい話をかましてる。もちろん、言葉の全てに筋を通すことは出来ないし、何かのはずみで口が滑ってしまうこともあるだろう。けど、ここはブレるところか?と思った。

 

きっと、どこかに拠り所が欲しいと思っていた。だから、期待して色々と読んでみた。だけど、ダメだった。この人に、これ以上の魅力を感じないのが正直なところ。こういう時は直感が正しいから、さっさと突き放す。

 

「大道廃れて仁義あり」と言う。人の道が廃れてるからこそ仁義を唱えなければいけないのであり、正しい道の行われてる世の中なら仁義なんてものは必要ない。確かにそうだ。道徳家みたいな人の言ってることに、一理あるのはわかる。いいことを言っているなと思うこともある。けれど、無いに越したことのない言葉が出てくるのには、やはり裏があると見るべきだ。

 

その正論が本当に人格にまで消化されていれば、言葉すらその人から消えてゆく。実態は違う。消化出来ないから、言葉ばかりがブクブクと肥大化していってる。無ければないで済むものを、なぜわざわざ形でもとうとする。口のうまいことをいい、自分も他人も惑わし、次第に言葉と現実の区別がつかなくなり、増長が止められなくなる。言葉を使うのではなく、言葉に使われるようになる。知識、言葉、論理。危ない罠が多すぎる。