運は天にあり

内省の記録

金が尽きた

心療内科への通院と、禅寺での座禅の日々をここ数ヶ月送っていたが、貯金が尽きてしまった。このままでは家賃が払えなくなる。危機感を感じはじめたその矢先、アパートの契約更新で10万ほど入り用になり、窮地に追い込まれた。

 

毎週末の競馬で多少あぶく銭を稼ぐことは出来るが、無論あてに出来るものではない。仕方なく、バイトを探すことにした。

 

金が尽きるという現実。いずれ訪れると分かっていたものの、いざ直面してみるとショックだった。貯金の残高を確認したその夜は、不安で一睡も出来なかった。薬を飲み、せっかく眠りも落ち着いて来たところだというのに、また元通りになってしまった。

 

なにより、自分がショックを受けているということが、不甲斐なかった。別に分かっていたことなのに、どうしてこんなに動揺してしまうのだろう。苦しみを何度も乗り越えて来たはずなのに、強くなれない自分が悔しい。泰然としていられれば。今までの生は、貧窮の予行演習にすらならなかったというのか。

 

一晩経つと気持ちは鎮まったが、深い失望は残った。

 

もし、他人が自分と同じ境遇にあったなら、もっと惨めに挫折してしまっているだろうと妄想することが良くあった。他人には理解出来なくても良い。この苦しみや葛藤の重みは、自分自身が嫌というほど良く知っている。それは、他ならぬ自分にしか耐えられないものだと、密かに誇りを持っていた。

 

それは、一面では正しいのだろう。しかし、だからといって、どんな現実にも動じないほど強くなれた訳じゃない。

 

今までは収入があった。貯金もあった。金がなくなるというのは、想像上でのことでしかなかった。この現実は、初めて体験する現実。他の延長線上にあるのではない、唯一無二の現実だ。現実は想像とはまるで違い、何か別のことが出来たからこれも出来るという、単純な性質のものではなかった。

 

何かに立ち向かって行く時に、「覚悟」という言葉で自分を奮い立たせていたことがあった。今にして思えば、胡散臭い言葉だった。人は、沢山の目に見えないものに支えられている。住む家があるとか、食べるものがあるとか、命の安全があるとか、そういう無意識の前提に支えられている。前提が揺さぶられた時に、人がどう変わるかなど分かったものじゃない。前提を疑いもしない覚悟など、単なる現状肯定を美化しているに過ぎなかった。覚悟など、出来るわけがない。そんな言葉はそもそも嘘なのだ。

 

生身の体験は何ものにも換えがたい。自分の中から消えていった言葉もあり、新しく産まれた言葉も沢山あった。

 

生きることに、ゴールはないのだろう。これが出来たら一人前という、基準があるわけじゃない。傷つかずには、生きていけない。命ある限り、事前準備など出来ないその時その瞬間の初めての課題と、常に向き合い続けなければいけないのだと思った。