運は天にあり

内省の記録

言葉と人

ショックな光景を目にしてしまった。ツイッターで、社会問題についてのツイートをよく見ているのだけれど、ちょっと自分の感覚では信じられず、どうにもやるせなくなってしまうことがあった。

 

法律の知識が豊富で、弁の立つ人がいた。その人は、とある社会問題について日々精力的にツイートしていて、それなりのフォロワー数を持っていた。

 

時折タイムラインに流れてくるこの人の言葉に、私はぼんやりと違和感を感じていた。知識だけがペラペラと流れていて、この人自身の人間性が全く感じられなかったからだ。自身の素性をまるで書かない人で、なぜこの人がこの問題に取り組んでいるのか、まるで見えてこなかった。

 

ある時、この弁士がいつものように滔々と言葉をまくし立てていたところ、反発してくる人があった。プロフィールを見れば、まだ10代の子だった。一見、文面上では論理がかみ合わず、なぜ反発するのかわからなかった。しかし、この子の言葉には強い気持ちがこもっていて、何かあるな、と思わせるものがあった。両者がやりとりをしていくうち、この子は、問題の被害者だということが分かった。

 

こうなると、話は理屈ではなく気持ちの問題だ。当事者の視点から見て、部外者である弁士の言葉に引っかかるものがあったということだ。分かる。この人は、いちいち発言が鼻につく。側から見ても、知ったような口を利くな、と思うことも多かったのだ。

 

ところが、気持ちで語っているこの子に対して、弁士は気持ちで返すことが出来なかった。「自分はそんなことは言ってない」「論点が違う」など、議論で使うような言葉で返すばかり。自分のフィールドから一歩も出ようとしないのだ。若い子の方は頑張るのだけど、こういう形だと知識のある方が有利に決まっている。二人のやりとりは、片方が相手を一方的に追い詰めるような、嫌な流れになっていった。

 

自分の受けた被害について語るということが、どれほど苦しいことか。当事者には、傍観者には分からない沢山の葛藤がある。言った言わないの話、論点がどうのという話、もっともらしい正論、議論の勝ち負け。そんなことは、どうでも良いのだ。自分が正しいと主張するためだけの言葉を、明らかに不利だと分かる若い子に向かって行使する大人気なさ。しかしこの弁士は、それ以外の言語を持っていないのだった。

 

若い子の方は、話をしたことで色んなことがフラッシュバックしてしまい、苦しみの言葉を残してアカウントを消していった。弁士の方は、早速今の出来事の講釈を、取り巻きに向かってやり始めた。尊大な物言いで、被害者を甘やかすつもりはない、とでも言いたげだ。あの子も時間が経てば気付くだろうと、あくまでも自分が正しく、相手がバカだという姿勢を崩さなかった。

 

当たり前だと思っていたことが、ここまで通じないということが悲しい。当事者を置き去りにした運動に、一体何の意義があるというのだろう。この人がやって来たことは何か。反対する人を言い負かして、トロフィーを見せびらかすように自分の言葉をリツイートしていた。デモを煽りながら、本人は何かと理由をつけて参加しなかった。自分のプロフィールすら明かさずに、必要以上に問題に立ち入り、あたかも救済者かのように振る舞っていた。

 

正義のヒーローを演じることが、楽しいのだろう。法律や社会学の知識も、どこかマニアックな所がある。そして、目の前の被害者には冷淡である。

 

この手のタイプは、良く「本質」という言葉を持ち出す。自分は本質を分かっている、お前は本質を分かっていないという話にしたがる。けれど、当事者以上にその問題を分かっている人などいるはずがない。当事者が良いと言っていること、嫌だと言っていることを全て否定して、自分が相手を「教育」するつもりでいる。傲慢だ。

 

一見正しそうに見えることでも、それを積み重ねていった結果が、正しいものになるとは限らない。むしろ、逆だ。なぜなら、現実はもっと複雑で、言葉や論理できれいに割切れることばかりではないからだ。

 

模範解答を出すことに長けた優等生タイプが、人を不幸にするのを何度も見てきた。言葉や論理が悪い訳ではない。が、彼らはマウントをとるために論理を行使するくせに、都合が悪くなると驚くほどアッサリと論理を捨て、無茶苦茶な暴力を押し通そうとする。賢いぶん、言い訳もうまい。

 

やはり、人だなと思う。個人を離れたところに、正しいことも悪いことも存在しない。直感で感じた違和感には、絶対に正体がある。