運は天にあり

内省の記録

生きづらさについて

先日、街なかで見かけたチラシに惹かれ、とある講演会に行ってきた。雨宮さんという、貧困問題に取り組んでいる作家さんの講演だった。テーマは、生きづらさ。雨宮さん自身の人生のことや、生産性至上主義の息苦しさのこと、自殺のことなど、生きづらさに関する様々なお話を聴いた。

 

雨宮さんが20代を生きた時代は、バブル崩壊のころ。就職はとても困難で、フリーターとして暮らさざるを得ず、周りにも同じようなフリーターがたくさんいたそうだ。雨宮さん自身は作家としてデビュー、フリーターから脱却することが出来たが、そうでない周りの人たちは、30という年齢を節目として自殺していく人が多かったという。

 

ある人は、何百社も面接を受けたが採用されず、絶望して自死を選んだとか。社会が価値を認めているのは、生産性の高さ、そればかり。生産性至上主義が当たり前のようになり、生産性のない者は、生きる価値すら見出せない世の中となってしまっていた。

 

貧困は、自尊心の低さそのものなのだと思う。自分には価値がないと突き付けられることは、本当に辛いことだ。自尊心の低い人には、どこか影がある。他人に見つからぬよう、何とかそれを隠そうとする。けれども、どういう訳か他人は敏感にそれに勘づき、隙あらば精神論をかまそうとする。「甘えるな」「自己責任」「もっと辛い人はいくらでもいる」。貧困を知らない人や、他人に先制攻撃をかけずに居られない不安定な人は、特にそういうことを言いがちだ。そうして、自尊心の低い人は、何を言っても否定、何をしても否定の関係性を強いられてしまい、いつも不利な立場におかされてしまう。だから、ますます貧困は深まるばかりだし、ますます他人に心を開きづらくなっていく。

 

生産性至上主義というのは、難しいものだと思う。生産性という答えがあると、楽なことがあるのも確かだからだ。自尊心の低い人は、頭が弱い。頭の良し悪しとは別に、傷を負い頭が弱くなってしまっている。まともに考えることはもう出来ないから、騙されたり、馬鹿にされたりしながら、ヘラヘラしている。誰にも価値を認められず、自分ではどうしていいか分からない。そこへ来て、生産性至上主義というのはありがたい。働けば働いただけ、ただそれだけで自分の価値を認めてもらえるのだから、こんなにありがたい話はないのだ。単純に労働時間を増やすだけで、自分の居場所が出来る。ブラックかどうか、搾取されているかどうかの判断なんてしたくない。辞めて、果たして他に自分の居場所は見つかるのだろうか? その恐怖に、心身ともに縛り付けられてしまう。

 

雨宮さんの言葉に、自分に嘘をつくのがいけない、というのがあった。大いに納得した。怒るということが大事だ、というのもあった。これも大変納得した。気力が尽き、怒ることすら出来なくなってしまっている場合も多く、実際は怒るというのはとても難しい。しかし、怒りも大切な感情のうちの一つ。嫌な時にまでヘラヘラしていなくたっていい、怒りの感情を忘れてはいけないのだ。

 

講演で聴く言葉の断片と、かつて自分の中を去来した言葉の数々と、重なるところがいくつもあって、とても感慨深かった。

 

自殺は、就職難ばかりが原因ではない。家庭環境が大きな生きづらさになっている人もいる。そして、親への当てつけのために、自殺を選ぶ人もいたという。

 

メアリ・シェリー『フランケンシュタイン』を学生の頃に読んだ。これは、人工的に産み出された怪物が、その醜さゆえに誰からも愛されることなく、孤独の世界に苦しみ抜き、最後には産みの親であるフランケンシュタイン博士を殺して自分も死んでいくというお話し。当時読んだ本の中で、ほとんど唯一と言っていいぐらい共感を覚えて読んだものなのだけれど、自殺の話を聴いているうち、この物語を思い出さずにはいられなかった。

 

本当は、独りで思い詰めずに誰かに頼ってもいいし、うまくいかずどうしようもない時には、他人のせいにしても良い。個人の力になど、限界があるのだから。けれど、憂さ晴らしに弱いものに当たったり、ヘイトを撒き散らしたりする、他罰的な人間の多さを思うにつけ、自分だけを傷つけて終わろうとする自殺者の善良さに心を打たれる。

 

誰のことも恨まず、社会のせいにすることもなく、罪を独りで背負って死んでゆく。無気力と諦めの境地に至ってなお、親を意識するのはなぜだろう。哀しいけれど、あらゆるものに心を閉ざしてしまった人に残された、最後の人懐っこさのように思えてしまう。