運は天にあり

内省の記録

心に残る言葉

先日の占い師との会話を今も思い出している。占いが初めてだったので新鮮に感じる言葉もあったし、長いこと話をしていたので、印象に残る言葉もあった。中でも深く心に残るのは、自分に対する言葉よりも、その人自身の生が宿った、ふと溢れ出るような言葉だったなと思う。

 

人を動かす言葉、心に残る言葉って、どんなものなんだろうな。そんなことを考えさせられた。

 

私は、自分に対して向けられた言葉というものを信用していない。なぜなら、この人は私の何を知っているのだろう?と思わされることがほとんどだからだ。表面的に、こういう所を見てこういう事を言うのだろうな、というのは分かる。それが、あまりに浅すぎるので、聴くに耐えないのである。

 

アドバイスなんてものが役に立ったことは一度もない。それが出来れば苦労はしない、と一蹴したくなるような身もふたもない精神論だったり、既にやり尽くしてダメだったことを、こうしてみたらと軽い思いつきで言われるなど、見当外れのものばかりだった。

 

相手が自分を見ているとき、自分もまた相手を見ている。偏見に満ちた見当外れのことを言っておきながら、その後なにごとも無かったかのように接してきたり、見直した、認めてやると言わんばかりの姿勢で近づいてくる人がいる。その人の言葉に、二度と耳を傾ける気にはなれない。

 

私は、「意外」という言葉が嫌いで、この言葉を他人に対して使う人は見下げ果ててしまう。意外だと感じるのは、その人を見誤っていたと言うこと。もっと言えば、その人に対して偏見を持っていたということだ。それをわざわざ口に出すほど失礼なことはなくて、それを失礼だと思えない感覚が恐ろしい。世界の多様性を受け止める準備がないと自己申告しているようなもので、準備のない人は、都合の悪い「意外」を知った時に必ず豹変する。

 

人が他人について知れることなんて、本当に限られてると思っている。まして付き合いの浅い人なら。だから、私はどんな可能性だってあると思っているので、他人の素性や過去をあれこれ聞いたりしない。無関心だと思われようが、そっとしておく方が良いことだってある。それまで知らなかったことを知ったところで、そういう人だったのかと受け止めるだけで、驚いたり失望したりすることはない。意外なことなんて、この世の中に存在しないと思ってる。

  

言葉で無理に心を動かそうとする人。これはもう、はっきりと敵と言っていい。見え透いた人心収攬ほど汚らわしいものはないね。この人になら騙されてもいい、と思えるかどうかは、その人の魅力次第。作為は、洗脳と同じことだ。

 

作られた言葉は良くないのだろう。狙うと、外れる。何となく、が良いのだと思う。その場の流れや、お互いの関係性から、何となく溢れでた言葉が、相手に響く。そう言う言葉を持っている人はすごいなと思う。聞く人は、その人自身の問題意識に合わせて、その人なりの意味を汲み出していく。的外れな助言もどきより、どれだけ心に残るか知れない。