運は天にあり

内省の記録

怒りの感情について

Twitterで社会問題に関するツイートを見て思っていること。怒りという感情は、実はとても大事な感情なのではないかと思う。

 

同じ問題について、同じような言葉を話すにも、言う人によって全く聞こえ方が違うことがある。ある人の言葉は心に響くのに、別の人の言葉は全く響かないことがある。響かない人の言葉はどこか違和感があって、その人の実体がどこにも見えず、言葉だけがフワフワと浮かんでいるような感じがする。

 

表現の仕方が不器用だから、そう感じるわけじゃない。内容がおかしいからでもない。むしろ、違和感を感じる人ほど、ケチのつかない無難なことを言っているように見える。けれども、無難で穏当な言葉には、あらかじめ批判を交わすような細工がしかけてあるように見えて、無難であればあるほど鼻に付いたりもする。正しいけれどただそれだけ、という言葉は少なからずある。

 

善悪について語るのは、本当に難しいことだと思う。善を説くにしても悪を糾弾するにしても、どうしても自分をどこかで持ち上げることになる。だから、善悪についての言葉を聴く時には、この人はなぜこんなことを語るのだろうとよく考える。今、この言葉を吐かずには居られなくする何かが、この人にあるのだろうか。それとも、自分自身に言い聞かせているだけなのか、弱い者を叩くために語っているのか、誰かの影に向かって喋っているのか。正論を語ることには快感があるから、中にはそれが目的の人もいる気がする。けしからぬと思いつつ、大義名分の味をしめてしまってはいないかな。

 

言葉に真実が含まれているかどうかは、怒りの感情を通してみると見えやすい気がする。この人、大して怒ってないなと思う時は、大体違和感を覚える時。癇癪や我儘とは違う、その人の個人史を左右するような深い怒りの感情……そんなものは、自然と滲み出てくるような気がするな。

  

怒りを共有するのはとても難しくて、安易な共感はあっという間に白けてしまう。それを、共有出来ると思えてしまう人は、涙の意味も怒りの意味も分からないのだろう。善悪を語る時でさえ、怒りを感じることもなく、無難に穏当に済ませようとするならば、この人は何があっても処世術から離れようとしないのだなと思ってしまう。いくら外ヅラが良くても、偽善は嫌いだ。