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言葉からの自由

先日、高校の部活の同窓会を断ったことについて、後から色々と考えた。断ったのは、会うのが気まずいからという単純な理由だったのだけれど、思い返せば、誘いを受けたはじめには色々と別の言葉が浮かんでいた。

 

まず、過去の人間関係に目を向けるなんて、醜いことだと思った。聞けば、部のメンバーで卒業後も定期的にあっているらしいけど、下らないことしてるなと思った。部員の仲が良いといったって、個々人で見たら好き嫌いはあるだろうに、何故わざわざそんなことするのだろう。組織のために個を殺すみたいな、保守的で閉鎖的な感じがするし、同じメンバーでつるんでばかりじゃ、成長なんかないと思う。

 

誘い方も気に入らなかった。せっかくだからとか、この先何かあるかも知れないからとか、まるで行かなかったら損するかのような誘い方だった。昔と違って、話の進め方もすっかり営業っぽくなってしまっていた。会いたいという感情でなく、何となくおためごかしな感じが嫌だった。

 

当初はこんな批判めいたことを考えていたけれど、一晩たったら虚しくなった。こんな言葉は、全て嘘だ。本音は、自分の方に地雷が多すぎるので、会って話なんかしたくないという、それだけのはなし。末長い人間関係があるのは恵まれたことだと思うし、苦楽を共にしたメンバー同士なら、たまに顔を合わせるぐらい普通のことだろう。誘い方が気に入らないなんて、言いがかりもいい所だし。取り立てて批判することなんて何もないのだ。

 

批判して、後から後悔や罪の意識に苛まれていると、ますます自分がやるせなくなるばかり。言葉は、煩わしいな。無意識に本音を覆う言葉の数々は、自分を守る盾にもなってくれるのだけれど、下手をすると人を傷つける武器にもなってしまう。言葉に乗っ取られ、操られてしまうのは、とても危ない。

 

最近、自由ということを良く考える。精神の自由、肉体の自由、色々な自由があるけれど、言葉からの自由というのが今一番大事な気がしている。言い訳を一言もしない人がいたとしたら、素晴らしいことだろう。上手くいかないことばかりの時、救いになってくれる言葉だってあるし、自分を保つためには、どうしても必要だった言葉というのもあるけれど、必要な時が過ぎると、それらはやがて呪いとなり、自分を縛り、嘘を吐かせるようになってしまう気がする。何れは、本音に立ち還らなければならない時が来るのだと思う。