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社会貢献とは

職場の人から、採用の募集の文章を書いたから、外に出す前に感想を聞かせて欲しいと言われた。読んでみると、そこには、社会貢献が出来ることがこの仕事のやりがいだということが強調して書いてあった。

 

社会貢献……?

そんなものあったかなと疑問に思って、意識高いですねとだけ答えておいた。すると、それが意に沿わない答えだったせいか、いや、これは大事なことなんだ、ウチは他の所みたいに金儲けをしたいんじゃない、社会貢献が大事なんだという話をされた。

 

そのことがあってから、社会貢献って何なのだろうと考えた。良いことだとは思うし、自分でもそういうことが出来たらいいなと思うから、色々と挑戦してみたことはある。どうしようもない強い罪の意識に駆り立てられていた時、何とか世の中の役に立つようなことが出来ないかと考え、地元の議員さんの勉強会に参加してみたり、参院選で無所属の候補者のポスター貼りを手伝ってみたりした。けれども、自分の中に軸がないせいでどれも空回り気味で、活動の先に満足な手応えを得ることは出来なかった。形に囚われすぎてしまっていて、己の本分がどこにあるのか、見えていなかったのだと思う。今でも、社会との関わり方はいまいち分からない。

 

しかし、形の見えない漠然とした社会貢献という言葉には、もの凄い胡散臭さがある。どういうことが貢献になるのか、自分でも分からないのだけれど、これはちょっと違うなというのは何となく分かる。あまりにも綺麗で、あまりにも便利な言葉だから、嘘も多いような気がするのだ。金儲けじゃない、社会貢献なんだという言葉は、無性に引っかかった。

 

お金が欲しいのだって、人間の自然な感情だ。誰だって人並みの生活がしたいし、贅沢もしたい。金儲けを否定したら、資本主義社会を全否定するようなものだし、そういう人たちの沢山いるこの資本主義社会を否定したら、一体どこに貢献すべき社会があると言うのだろう。

 

話を終えた後にどうしても違和感が消えず、なぜこの人の言葉がこんなに心に響かないのだろうかと思ったら、自分から見て、偽君子、スノッブという奴だからだった。人間の醜い面を嫌悪し、視界から抹殺しようとしているように見えた。この人の掲げる正義は、恐ろしいと思う。

 

以前までは、善く生きることをはじめから放棄している人よりかは、偽善の方がまだマシなのではないかと思っていた。しかし最近は、マシだと思うこと自体、まんまと偽善者の思う壺だということに気付いたので、どちらも変わらないと思うようになった。

 

言葉は信用出来ないと、つくづく思う。信用出来るかどうかは、その人の言動に触れて、直観で決める。