読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ルイス・サッカー『穴』

読書

 

穴 HOLES (ユースセレクション)

穴 HOLES (ユースセレクション)

 

 

グリーン・レイク・キャンプという砂漠の矯正施設に無実の罪で放り込まれた中学生・スタンリー=イェルナッツが、過酷な労働や「ゼロ」と呼ばれる少年との出会いを通して、逞しく成長していく物語です。

 

イジメられっ子の子供が冤罪で砂漠まで送還され、悪人たちに虐待・酷使されるという、設定だけ見るとひどいものですが、のんびりした主人公・スタンリーのおかげで雰囲気は明るく、笑いもユーモアもあります。砂漠での生活は悪いことばかりでもなく、一面に冒険の楽しさもあって、焼け付く暑気とタマネギの臭いとが、気持ち良く肌に染み込んでくるような作品でした。

 

見所は、何と言ってもスタンリーとゼロの逃避行の場面です。この場面は、物語の山場でもあるのですが、同時にとても独特で楽しい所でもありました。キャンプを脱走したスタンリーとゼロの二人は、飢え死に寸前のところを謎の野生のタマネギ畑に救われて、それから生のタマネギをバリボリと貪って元気を取り戻していきます。何もない山の中では食べるものと言えばタマネギだけで、再びキャンプに戻る時のお供ももちろんタマネギだし、斜面からごろごろとこぼれ落ちて行った実も、丁寧に一つ一つ拾って食べます。これだけタマネギづくしだと、読んでいる方も条件反射で嫌でも味覚や嗅覚がピリピリとして来て、無性にタマネギが恋しくなって来ます。本書を手に取ったのは一月も終わりの寒い時期で、砂漠の暑さには遠かったけれど、タマネギへの思いはやまず、スーパーでタマネギを買って来て、生でかじってみて、生タマネギの旨さに思いがけず覚醒したりすることが出来ました。

 

グリーン・レイク・キャンプでの生活は、刺激的です。炎天下での過酷な肉体労働に従事したり、貪るように生のタマネギを食らったり、数百年前の桃のジュースで命を繋いだりと、およそ都会の生活とは正反対な、汗臭く野性味のある世界が広がっています。こういう、五感をふんだんに活用するような物語からは、迫力あるエネルギーを感じます。過酷だけれども陰気な苦しみはなく、目の前の自然との戦いに集中できるというのは、神経症的な辛さより少なくとも前向きだし、ある意味で健全に見えました。それは、不本意に収容された主人公のスタンリーにとっても同じことで、ある時から、嫌な連中のいる中学校より今の生活の方が実は結構充実していることに気付きます。閉塞感を感じ、自分の今いる場所ではないどこかを探している人にとって、例えいくらか泥臭くあっても、労働の充実感を感じられる環境が良いというのは、本当にその通りだと思います。

 

スタンリーとゼロとの友情は、結果的には良いものに育って行きましたが、気にかかることも多かったです。なぜなら、ゼロの方の負担が大きすぎるからです。ゼロの存在は、スタンリーにとっては大変に都合の良いものです。自分より不幸で、馬鹿にされていて、自分がものを教える立場にあり、辛い労働の肩代わりまでやってくれる。ゼロからすると、最初に文字を教えて欲しいと頼んだ時、すげなく断ったスタンリーは、そこそこ感じの悪い奴に映っていたのではないかと思います。X線の頼みだったら断らないくせに、という思いが頭を過っていたかもしれません。しかし、空っぽと言われ何度も何度も悔しい思いをしてきたゼロは、どうしても読み書きができるようになりたいし、スタンリーには冤罪を被せてしまった負い目があるから、そう無理は言えません。勢い、献身的になってしまいます。

 

頭の悪さを笑われることに敏感なゼロの、スタンリーの会話でも折々に見せる険しい顔つきは何とも言えませんでした。優れた資質を持っているにも関わらず、教育を受けられなかったばかりに浴びせられる嘲笑の数々に、この子が今までどれだけ傷つけられて来たことか。勿論、スタンリーが意識的に馬鹿にしにきているのではないことは分かっているでしょう。しかし、意識的ではないからこその、ナチュラルに見下されている感覚は、相手が仲良くなれそう子だけに、一層堪らなかったと思います。

 

ゼロに穴掘りをさせるスタンリーに対して、周りの子供が「白人が黒人を使役している」と揶揄して来ましたが、これはかなり鋭い指摘に見えました。教える体力を残しておく必要があるからとスタンリーはゼロに穴掘りをさせますが、無論教わる方だって体力がいるし、穴掘りが得意とは言え、スタンリーよりせいぜい数ヶ月早くこの地に来ただけのゼロにとって、二人分の穴を掘るのは決して楽ではないはずです。それでも、暴発寸前にまで追い詰められていたゼロに選択肢はないから、そうせざるを得ませんでした。施設の子供たちは、悪いことをしつつも意外とすぐに謝ったり埋め合わせをする潔さは持っていたので、頭の良さを使って主従関係をシステム化しているスタンリーのことは、本能的にさぞかし憎たらしく見えたことでしょう。あのままゼロが行方不明になってしまっていたら、スタンリーの後悔も計り知れないものになっていたと思います。

 

スタンリーは、ゼロと出会い、ゼロを救うための困難を乗り越えることで、身心ともに大きく成長してゆきました。ゼロも救われたし、それまで散々な目にあって来たスタンリーも救われたので、結末は幸せでした。しかし、スタンリー目線での救いは、こういう形でしか現れ得なかったのかなと、引っかかる気持ちもあります。「可哀想な黒人の孤児を助けてあげる」という体験は、自分を助けるためではなく、苦しんでいる他人を助けるために頑張るという面を見ると、自己犠牲的で崇高なようにも見えます。しかし、本来自分自身が救われる必要のある人が、他の人の救済に関心をもつという事には、どこか危うい感じを覚えるのです。『ライ麦畑でつかまえて』で、ボロボロに打ちのめされた主人公が、崖から落ちそうな小さい子供を助けるライ麦畑の番人になりたいと願う場面があったのを思い出します。人は、苦しみを抱えきれなくなってくると、自分よりも他人を救うことに関心が向かうことがあるようです。しかし、そういう時に、その人が本当に他人を救いたいと思っているのかどうかは疑問で、抑圧された支配欲が歪んで現れて、善の衣を纏っているだけのような、そんな危うさも感じるのです。自分自身の心の動きにも思い当たることがあるし、かつて出会った、教師でもないのに嫌に教育に関心をもっていた或る人の事を思い出すと、何か胡散臭かったなと思うのです。ゼロが白人だったとしたら、ゼロが読み書きが出来ていたとしたら、果たしてこの物語は成り立っていたのだろうか。

 

しかし、苦しみや悲しみを抱えた人が、弱い者を虐げようとする場合もあるし、多分その方が多いと思うので、他人の救済を願うことや他人を助けることで自分も救われるという体験は、少なくとも良い面があることは確かです。心の動きの正体はあまりにも複雑すぎて知ることは出来ませんが、スタンリーとゼロ、何はともあれ目の前にいる二人の苦しみが無事取り除かれたので、とても良いハッピーエンドだったと思います。