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山岸凉子『日出処の天子』

読書

 

日出処の天子 (第1巻) (白泉社文庫)

日出処の天子 (第1巻) (白泉社文庫)

 

 

訳語田大王から額田部女王の御代までに、権謀渦巻く朝廷を舞台に、物部や泊瀬部大王との闘争を経て、厩戸王子が天下の執権を手にするまでを描いた物語です。

 

白泉社文庫版で全7巻、壮大な歴史物語です。主人公の厩戸王子は才気煥発の美少年という設定であり、その天稟は超人的と言うに相応しく、立ちはだかる政敵を相手に時には智略を尽くし、また時には人智を超えた法力を発揮して、朝廷を舞台に華麗な大立ち回りを演じます。そして、幼馴染の蘇我毛人や、後に推古天皇と呼ばれる義母の額田部女王と共に、国を統べる朝廷の支配者にまで上り詰めて行きます。しかし、表向きこそ、このように王子が権力を手にするまでの栄光の物語なのですが、王子の内面はとても幸福とは言えず、結末には悲しい余韻が漂います。権力を掌握するまでの過程に苦悩はありません。超人的な能力をもって生まれた王子にとって、政治家として大成することはそれほど難しいことではなく、実は権力への野心がある訳でもありませんでした。王子を支配するのは、才気に恵まれすぎてしまったが故の、一人の人間としての苦悩です。そして、王子を取り巻く蘇我毛人や毛人の妹・刀自古らもまた、権力者としての栄耀栄華に酔いしれている暇はなく、それぞれの人間関係の苦悩と闘い続けています。物語はとても複雑で、朝廷における権力闘争もさることながら、親子の葛藤・兄弟の葛藤・男女の葛藤・公私の葛藤など、とかく不如意なことばかりが折り重なり、登場人物たちの胸中は一時も休まることがありません。そんな中でも、負けじと歴史の奔流に立ち向かい、時に逞しく、時に醜く、登場人物たちが懸命にそれぞれの生を全うしようとする所がこの物語の魅力です。

 

この物語を手にするまでは、飛鳥時代にそれほど馴染みがなく、どんなイメージかも想像出来なかったので、果たして楽しめるだろうかと期待半分不安半分でした。聖徳太子のことも、ただ何となく偉い人という固定観念があるだけで、取り立てて魅力は感じていませんでした。しかし、良い意味で裏切られました。自分の中では、『日出処の天子』で、この世界の輪郭が出来上がった感があります。聖徳太子推古天皇といった人々や物部の追討・崇峻帝暗殺といった事件など、単なる歴史的事項として頭に入っていたことが、血肉をもった生命体となり、活き活きとした物語として目に浮かぶようになったのです。勿論、フィクションが多分に含まれているのは承知ですが、物語を出発点として、それでは本当の所はどうだったのだろうと、原典にあたってみたいと思わせてくれるようなパワーがこの作品にはあります。『日出処の天子』のみならず、古くは『三國志演義』や『平家物語』、新しくは『ベルサイユのばら』等々、歴史の世界を魅力的に伝えてくれる作品があるのは大変有り難いことだと、改めて感じました。

 

この世界の特徴と言えば、何といっても血が濃いことです。政略結婚と言う言葉が生ぬるいぐらい近親間でのつながりが強く、毛人の父・馬子は王子の祖母で、後に推古天皇となる額田部女王は王子の父の兄弟と言った具合に、登場人物の中で血縁関係に無い人物を見つけ出すのが難しいぐらい、強い血のつながりが朝廷内に張り巡らされています。そのために、王子の周りの人間関係や、大王の地位を巡る利害関係は相当ややこしくなっています。例えば、額田部女王と蘇我は政治的には友好的な間柄ですが、それぞれの娘が王子に嫁いでいるため、どちらが次期大王候補を産むかで水面下の戦いがあったりします。こうした血縁関係の上に、個人個人の好悪や恋愛感情が被さってくるのですから、それはもう、ままならない不如意な出来事ばかり起きてしまうのは避けられません。

 

血と言えば、主人公の厩戸王子はとりわけ強い血の束縛を受けています。系図を辿ってみると、父方の祖父も母方の祖父も同じ欽明天皇であり、曾祖父も共通の蘇我稲目であることが分かります。競争馬に例えるなら、欽明天皇の2x2、蘇我稲目の3x3のインブリード欽明天皇の血量50%に蘇我稲目の血量25%という、同族の血が極めて濃厚な配合です。この手の配合は、洗練された血の濃度が倍増するために、優れた能力をもった子が生まれることもあるのですが、同時に弱点も倍増してしまうために、生命にとっては非常に危険な配合でもあります。こうした血統的な背景があるせいか、人間離れした力を備えた異能者という作中の厩戸王子の設定は、王子の血の濃さを踏まえると、妙なリアリティを感じさせられるのですよね。自然の摂理に逆らい産み落とされた罪の子供、厩戸王子。強力な力を授けられると同時に蒲柳の繊細さを併せ持ち、自身のもつ力ゆえに苦しむことを宿命づけられる。近親相姦を重ねる古代世界と、救いを求める純血の王子の叫び、そこに現れた仏教の教えというイメージは、背景世界と物語がとても良く合っていて、恐ろしくもあり、同時に蠱惑的でもありました。

 

主要人物の王子・毛人・刀自古はそれぞれ魅力がありました。中でもやはり、気になるのは王子ですね。およそ聖人君子とは程遠く、たびたびヒステリーを起こして周りを困惑させますが、卒のない才子などより余程人間味があります。自分自身が分からずに荒れ狂う様は年相応の少年の姿そのもので、能力も極端、美しさも極端、そして非情さも冷酷さも極端という、カミソリのような危うさが好きでした。王子の脳裏には、来目王子に似た純粋無垢な子供たちを虐殺する光景が何度も映し出されますが、己の力や冷酷さを誰よりも恐れていたのは王子自身だったはずです。この作品では、暴力的なことは柔らかい筆致であっさりと書き流されるのですが、表情に表れる感情の表現はみな力強く凄絶です。特に凄まじいのが王子の嫉妬の表情で、カッと見開いた三白眼は、まるで爬虫類のよう。あんまり険しいので、読了後しばらくは王子の癖が移って目つきが悪くなってしまうぐらいなものです。嫉妬に荒れ狂った挙句、心に嘘をつけなくなり、最後にはセリフにハートマークまで出てくるくらい毛人への想いを露わにしますが、毛人からそれは自己愛だと喝破されてしまいます。王子が恋い焦がれたのは、この世にただ二人、本当の自分を理解してくれる母と毛人だけでしたが、その想いすら自己愛と斬り捨てられてしまうとは……母のみならず毛人にまで突き放されたあの場面は、絶望的でした。

 

額田部女王と王子のコンビも好きでした。額田部女王は肝っ玉の据わった女傑といった風で、権謀術数にかけては大臣たち相手にも引けを取りません。王子と額田部女王が組んだ時の安定感と言ったら、豊日大王や泊瀬部大王とは比べものにならないですね。陰険で非情な二人ですが、それでいて、どちらも風貌が仏像そっくりというのが面白いところです。善男善女と言えば、瞳の大きな間人媛や来目王子ですが、こちらはむしろげっ歯類のように見えます。何をもって美しいとするかの基準が現代とは違うのかもしれませんが、人々を救う仏には、柔和さや穏健さよりも、抜け目ない怜悧さを感じる風貌の方がしっくり来るのかなと思いました。人を救うということ、力無くして簡単に出来ることではないので、現代の感覚からしても、それはそうなのかなと思います。

 

刀自古の半生は報われないものでした。幼少期の天真爛漫な姿の時から知っているだけに、物部との政争後のストーリーは涙無くしては受け止められません。同母兄を愛してしまったことにも悲劇がありますが、そもそも陽性で活発な刀自古が、政略結婚の道具として家庭に押し込められること自体に無理があるような気がして、ここは女性の人権問題についても考えさせられる所です。案外、性格的に王子との相性は悪く無さそうだけれど、親しくなることは無いだろうと分かるのが寂しく、刀自古の物語はまだまだ終わらないなと思いました。

 

崇峻帝の暗殺という、かなり際どい事件もあったこの時代ですが、物語は公よりも私の面での描写が多く、危険な時代を生きる人間の姿が現代の人間と変わらない姿で描かれていたのが良かったです。少年の頃の運命的な出逢いを経て、痴話喧嘩のようなことを繰り返しながら共に成長していく王子と毛人の姿は、微笑ましかった。口にこそはっきりとは出せなくても、二人はしばしば、夢の世界や幻想・幻聴の世界で逢瀬を重ねます。古語でいう「あくがる」は、魂が身体から離れて彷徨いでることを意味していますが、「憧れる」ことが「あくがる」に重なる、古代の世界観そのままの描写が良かったです。

 

とは言え、裏を返せば憧れることしか出来ないというのが、王子らの悲しさ。この物語で、幸福になった人物はいるでしょうか? 王子は言うもさらなりですが、毛人も布都姫を失ってしまったし、額田部女王も娘を幸せにしてやることが出来ませんでした。そして、罪の赤子を抱く刀自古と、王子を愛せなかった悔いに苦しむ間人媛。その他、政争で命を落としていった人々は数知れません。一応、政治的な意味では、王子や毛人は成功したように見えます。しかし、その後の毛人や王子の一族の末路を思えば必ずしもそうと言い切ることはできず、如才なく立ち回った阿部内麻呂などを除けば、生き残った人物たちも、後の政変や改新で滅びゆく人々が殆どなのです。

 

しかし、悩み、傷つきながらも情熱的に生きた王子や毛人たちの青春は、美しかった。喜びや怒り、哀しみ、悔しさなど、様々な感情と共に生きた一瞬一瞬の全てが、日いづる処の国の名に恥じぬぐらい、輝いていました。末永い幸福と呼べるようなものは無かったけれども、人間の歴史とはこんなことの繰り返しなのかなと、時代も国も超えて、人が積み重ねて来た数千年の星霜に思いを馳せさせてくれる作品でした。