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エーリッヒ・ケストナー『飛ぶ教室』

 

飛ぶ教室 (講談社青い鳥文庫)

飛ぶ教室 (講談社青い鳥文庫)

 

 ドイツの高等学校を舞台に、学校生活で起きる様々な出来事に正面からぶつかりあいながら、5人の子供たちがクリスマスを迎えるまでを描いた作品です。

 

とても楽しい、学校生活の物語でした。知恵や勇気の大事さも良くわかる本なのですが、やっぱりそれ以上に、学校生活が楽しいものなのだと教えてくれる本でしたね。主人公の5人は高等学校の1年生、年齢で言うと16歳ぐらいで、寄宿舎で共同生活を送っています。寄宿舎には沢山の生徒が生活していて、クリスマスなどの休暇の時期を除くと、ほぼ一年中一緒に暮らしています。勉強も勿論のこと、クリスマス休暇前にやる劇の練習をしたり、他の学校の生徒たちと喧嘩をしたりと、課外活動にも一丸となって取り組みます。みな活き活きとしていて、一瞬一瞬を大切に、精一杯生きている感じが伝わってきます。

 

そして、みんなが一緒に行動しつつも、決して付和雷同するようなことはなく、一人ひとりがしっかりと自分の個性・自分の時間を持っている所が健全で良かったです。悪いと思うことには、上級生相手に意見することも辞しませんし、厳しい寄宿舎の先生を相手にしても、胸襟を開いて話し合い、先生と生徒という枠を超えた信頼関係を築くことが出来ています。こういう風に楽しく健全な生活を送れるのも、一人ひとりが自立出来ており、互いの個性を尊重しようという精神があるからこそなのだと思います。

 

勿論、学校生活は楽しいばかりではありません。生徒は一人ひとり、個性をもって生きていますが、同時に弱点も抱えています。マルチンは正義感溢れる好人物で、リーダーとしてクラスの皆を率い、人一倍輝いている子供です。ところが、マルチンの家は不遇の時にあって、クリスマスになってもマルチンが家に帰ってくるだけの汽車賃を出せないという事情を抱えていました。そのために、マルチンはクリスマス休暇を寄宿舎で過ごさざるを得ず、周りがクリスマスに向かってウキウキとした気分に包まれている中、独り暗く沈み込み、クリスマスの雰囲気に耐えられなくなってしまいました。楽しい劇の時もどこか心ここにあらずで、こんな辛いことは他にないと絶望に打ちひしがれそうになったり、一方では他にも寄宿舎に残る子供は要るんだと自分に言い聞かせてみたりと、揺蕩う心に苦しんでいました。

 

それでも、さすがに自立しているなと思うのは、マルチンが周りに迷惑はかけまいと必死に努めている所です。なぜ自分だけがこんな不幸な目に、という思いを抱えていながらも、決して泣き言を漏らすようなことはしませんし、汽車賃が無いという以前に、そもそも帰るべき両親を持たないジョーニーの前では、自分はまだ恵まれている方なのだと慎もうとします。そういう殊勝な心構えは誰かが見ているもので、マルチンの様子を見て違和感を感じた「正義先生」は、マルチンに汽車賃をプレゼントします。信頼関係に助けられたマルチンは故郷に帰り、クリスマスを家族と一緒に過ごすことが出来るようになりました。

 

そして、もう一人、臆病という弱点に苦しむウリーについて。小柄で腕力に乏しく、他校との生徒との喧嘩でも活躍できないウリーは、臆病な自分をなんとかしたいと悩みます。悩んだ挙句に、自分が臆病でないことを証明するために、多くの人を集めて高いはしごの上から飛び降りるという暴挙に出ました。大怪我をしてしまったウリーでしたが、この事件以来、ウリー自身の中に変化が起き、周りのウリーを見る目も変わってゆきました。

 

そもそも、ウリーが本当に臆病だったとは思えないのですよね。肉体的な弱さから、他の生徒を相手にたじろいでしまうことは有ったものの、ウリーは決して自身の弱点をなかったことにしようとはしませんでした。自分の弱点に正面から立ち向かい、周りの友人に対して、自分は臆病を克服して見せると堂々と宣言するあたりは、そう簡単に出来ることではありません。ウリーもまた、一個の自立した人物だったのだと思います。

 

逞しく自立した精神があれば、こういう風な生活を送れたのだなと考えさせられる物語でした。私はとてもこういう学校生活は送れなかったので、ドイツの話で、学校での共同生活の話というと、どちらかと言えばヘッセの小説みたいな方が共感は出来ますけどね。けれども、良いものは良い。「飛ぶ教室」という劇を、脚本から何まで一から自分たちで作って、トラブルを乗り超えながらしっかり成功させていく所は本当に楽しいです。やっぱり、学校の行事をしっかりやるのは、健全で良いことだなと思います。日本の話だと生々しくなってしまうけれど、ドイツの寄宿舎での話というと、程よく距離感もあるので、こうであって欲しかった学校生活を夢見るにはちょうど良い物語だと思いました。

 

この作品には、長い前書きが書かれています。ケストナーがこの物語を書き始めるまでの経緯や、児童文学に対するケストナーの考えが書かれており、何でこんなことが書いてあるのだろうと思いつつ、面白いのでそのまま読んでいたのですが、解説などを読むと、実はこの前書きに大きな意味があったことが分かります。

 

飛ぶ教室』が出版されたのは1933年で、ちょうどナチスが政権を取った頃、ドイツ国内に不穏な空気が漂い始める時代でした。出版界の雲行きも怪しく、この頃には、反体制的な出版の取り締まりなども始まっていたそうです。そうした時代背景を考えると、前書きに書かれたケストナーの言葉も、違った響きをもって聞こえてきます。

 

賢さをともなわぬ勇気は野蛮であり、勇気をともなわぬ賢さなど、なんの役にもたたない。世界の歴史には、おろかな連中が勇気をもち、賢い人々が臆病だった時代がいくらもある。だが、これは正しいことではなかった。勇気のある人々が賢く、賢い人々が勇気をもつときに、はじめて人類の進歩は期待されるのだ。

 

ケストナーは世界の歴史という壮大な話に触れていますが、ここでいう世界の歴史は、かつてそうであったという歴史の話だけでなく、ケストナーの生きた時代そのものも含まれていたのです。「賢さをともなわぬ勇気は野蛮であり、勇気をともなわぬ賢さ」というのは、決して単なる過去の反省ではなく、今現在起こりつつあることに対しての、切実な問題意識から来る訴えだったのです。

 

高等学校の生徒と実業学校の生徒が喧嘩を起こした時に、マルチン達は、全員でぶつかり合うのではなく、代表を出し合って一騎討ちで勝敗を決めようとしました。このことは、ケストナーの時代だからこその特別な意味を持っていると思います。近世までは、ヨーロッパでも代表同士が戦う戦争、すなわち軍人同士が戦って勝敗を決める限定的な戦争が行われていました。ところが、近代になって、国民国家の政体が固まり、軍事技術が飛躍的に向上すると、軍人も民間人も全て巻き込んで戦う「総力戦」の時代に突入してしまいました。ケストナーは一次大戦を経験していたとのことなので、ものの数週間で終わると思われた戦争が、数年に渡って国全体を巻き込んだ殺し合いになってしまう総力戦の恐ろしさを、身を以て痛感していたことでしょう。

 

降りかかる火の粉を払うため、喧嘩はする。しかし、喧嘩をするにも、マナーと節度をもってやる。そうでないと、取り返しのつかない破滅的なことになってしまう。その後の二次大戦の惨事は周知の通りで、一次大戦よりも遥かに進んだ軍事技術の力により、近世までの戦とは比べものにならない程の犠牲者が産み出されてしまったのでした。

 

「賢さ」や「勇気」を真剣に語るのは、説教臭く、暑苦しい感じもあるかもしれません。けれども、一次大戦を経験しながらも、なお反省することなく二次大戦へ向かっていく人類の歴史を見つめていたケストナーが、次の世代を担う子供たちに対して、何とか届けようとしたメッセージだということを考えると、涙無くしては読めない物語だと思います。