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手応えの無い生活

 笑う習慣を身に着けようと思い、毎日落語を聴いています。余りにも生活に笑いが無さ過ぎたので、これは意識的に習慣化しなければダメだと思い、図書館でCDを借りてちょっとずつ聴いています。金原亭馬生や、桂文楽桂三木助、新作の三遊亭圓歌など、色々借りて聴きました。一口に笑いと言っても色々ありますが、落語のような朗笑はとても良いですね。毒にも薬にもならないような下らなさが良いです。巷間に溢れる蔑み笑いや愛想笑いなどは、毒があるので危険です。しかも、常習性があるので辞められません。

 

落語を聴きながら、なるべく声を出して笑うようにしています。最初は頭の中だけで消化している感覚でしたが、意識的に声を出すようにしていると、その内自然と声が出てくるようになってきます。また、フフッ、となるぐらいの擽りのような笑いであっても、意識的に声を出すようにしていると、本当に声を出して笑いたいぐらい面白いことのように感じられてきます。頭で感じていることが身体の反応にも現れ、身体で反応していることが頭にも伝わってくる。この感じが、とても大事だと思っています。

 

私はどうも、生きている実感が薄れてしまっているようで、生活に手応えがない状態が長く続いています。仕事で何をやっても手応えがなく、頑張っているようでいてもどこか心ここにあらずで、失敗は流石に反省するものの、成功した時にも嬉しくなく、あらゆることを他人事のように感じていました。頭の中で色々なことを考えてはいるのですが、いざ行動するとなると、頭と身体が上手く結びつかず、自分自身で何かをやっているという実感が湧かないのです。あたかも虚空を掴んでいるように、暖簾に腕押しをしているように、自分のしている作業の先に実体が感じられず、感じられないままに作業の結果だけが出来ているという状態でした。

 

「詐欺師症候群」という言葉があります。これは、どんなに成果を出しても「自分は他人を騙している」という不安にかられてしまう症状を表すらしいですが、この症状に近いのではと思っています。つまりは、自分の生活に確固たるものが感じられないのです。

 

手応えが無いことで、感情が希薄になってしまうのも問題なのですが、それ以上に、同じ間違いを何度も繰り返してしまうことが問題です。実際、仕事でも何でも、失敗をしてしまった時、反省よりも既視感を感じることが多いのですよ。この状況を自分は知っている。経験もしてる。なぜ失敗するのか原因も知っているし、解決方法も知っている。しかし、過ちを繰り返してしまう。考えている自分と、実際に動いている自分とが全く別物で、分離したままチグハグな動きをしてしまうので、同じ間違いを何度もし、同じ反省を何度も繰り返すことになってしまうのです。手応えの無いまま、ただ認識しただけの経験は、いつまで経っても身につかないようです。

 

「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」という言葉がありますが、どうもこれが本当とは思えません。確かに歴史を学ぶことは大事ですが、歴史を通して学んだことと、己の手で学んだこととは意味が違ってくると思うのです。歴史、すなわち他人の経験とは、全体の一部分だけを切り取って結論だけを知っていることであり、本質を掴むことは出来ても、環境や状況といった重要な条件が欠けているため、不安定な知識でしかありません。一方、自分の経験で学んだことというのは、出来事の全体を最初から最後まで生身で体験していることであり、渦中にいる人間の心理や思考過程まで含めて全て分かっていることなので、芯の強さが違います。類推と応用の繰り返しで、他人の経験を自分の経験に近づけることは出来ると思いますが、あくまでも近づけられるだけで、忖度の域を出ません。伝聞で全てを了解したつもりになるのは、むしろ傲慢の表れだと思います。

 

どんなに世の中の事情に詳しく、過去の歴史に精通している人であっても、その人が総理大臣になって善政を布けるかと言うと、そうとは限らないでしょう。悪手と分かっていながらも、それをやってしまうこともあると思います。なぜなら、総理大臣には総理大臣の環境があり、それは経験しないと分からないからです。いざ当事者になってみた時に、誘惑に負けて都合の良い論理をでっちあげることなどいくらでも出来ますから、どんな悪手でも、ひょっとしたら上手くいくのでは、という考えが出てきてしまうものです。普通に考えたら悪手だが、今の状況なら上手くいくのでは?とか。過去には駄目だったが、今の条件なら見込みがあるのでは?とか。平時には的確な判断が出来る人であっても、いついかなる時でも正しい判断が出来る状況にあるとは限りません。正しい判断をするのが難しい時に、頭だけで分かっていることというのは、頭の使い方次第で自在に解釈が出来てしまうから危ないのです。しかし、自分で経験したことについては、失敗の結果だけではなく、そこに至るまでの思考過程や、見たもの聞いたもの全てを経験して知っているので、危ない時は危ないと身体が警告してくれます。この違いは大きいと思います。

 

経験を自分の経験にするためには、感覚を使うことが不可欠だと思います。頭脳で認識するだけでなく、五感を使い、全身で体験してこそ本当に身につくのだと思います。認識だけでは、どんなに沢山学んだとしても、その知識は借り物で、所詮は他人事に過ぎなくなってしまうようです。だから、今の空虚な自分の生活では、得られる事がほとんどなかった。唯一、実感を感じられたのは、会社を辞めるという行為でした。自分に嘘をつかず、自分の意思でした事なので、感じる事も多かったし、学ぶことも多かったです。こういう感覚を、何事にも持てるようにならねばと思いました。手応え無しに生きるということを、一般的には、精神と肉体の分離というのだろうか……とにかく、生活に手応えが感じられるよう、今は思いついた事を色々と試しています。

 

世界を変貌させるのは決して認識なんかじゃない。世界を変貌させるのは行為なんだ。それだけしかない。

――三島由紀夫金閣寺