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ディック・フランシス『大穴』

 

大穴 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 12-2))

大穴 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 12-2))

 

 

元英国障害レースの騎手、ディック・フランシスによる競馬ミステリーの一つです。本作は経営難に苦しむ地方競馬場を巡る事件の話で、とある地方競馬場を破産に追い込もうとする陰謀を阻止するのが主人公の使命です。競馬に関する話題も沢山出てくるのだけれど、どちらかと言えば競馬場経営というビジネスよりの話で、フランシスの第一作『本命』のような厩舎の中の生活や人間模様などが描かれるシーンはありません。騎手ならではの面白い題材を期待していたので途中ちょっと興味が続くなることもありましたが、物語終盤の盛り上がりはやはり、面白かったです。智慧と勇気で困難を乗り越えていく、冒険の魅力がふんだんに盛り込まれた作品です。

 

本作の主人公シッド・ハーレーは、とにかく打たれ続ける主人公です。作者のフランシスと同様、元障害レースの騎手という設定なのですが、シッド・ハーレーの場合は事故で片手を失ってしまい、引退を余儀なくされたという経歴があります。騎手引退後に探偵として働いているのですが、この方面でも碌なことは無く、探偵になるやいなや早速銃弾を浴びて負傷し、命は助かったものの、物語開始時点で既にボロボロの状態でした。しかも、今回の事件で対戦する悪党は非常に嗜虐的な人物であり、陰謀を阻止しようとするシッドに対しては容赦ない暴力が加えられます。終盤の拷問のシーンなどは目も当てられません。おまけに、シッドは仕事だけでなく私生活においても芳しくなく、過去に一度結婚に失敗しています。物語中に新しいロマンスが芽生えかけるものの、残念ながらこちらも成就しません。事件が解決に至るまでは良いことが全く無く、振り返れば、最初から最後までシッド・ハーレーがボコボコにされる場面ばかりでした。しかし、シッドには悲壮感はなく、数多の肉体的・精神的労苦を背負ってもなお立ち続けます。

 

このような不屈の生命力が魅力のシッド・ハーレーですが、フランシスの『本命』の主人公に比べると、あまり好きなタイプではありませんでした。打たれても打たれても負けない強さは魅力だし、こういうタイプの人は報われてほしいと思うものなのだけれど、シッドについては内面があまり好きになれなかったです。特にそれを感じたのが、ザナ・マーティンという女性とのロマンスの中においてです。このザナ・マーティンというのは、容姿に傷を負った女性で、陰謀のヒントを握る人物としてシッドの前に現れます。シッドは彼女から情報を聴き取り出そうと距離を縮めようとするのですが、共通点をもった二人の間には、探偵とターゲットという関係を超えた私的な感情が芽生え始めます。シッドとザナ、傷を負った者同士が互いに惹かれ合うという話自体は、美しいものだと思います。しかし、シッドがザナに対して抱いている思いには、この女は劣等感をもった女だから自分に靡かせることは容易いだろう、という了見があるので、話がどうしても綺麗にならないのです。探偵という職業柄、他人の懐に潜り込み、重要な情報を聴き取り出さなければならないので、そういう冷徹な読みが浮かんでしまうのは仕方が無いかもしれません。しかし、シッドの内面には、そういう職業病的な考えが次第に改まっていくという感じも無く、個人的な関係においても、ただなし崩し的にザナ・マーティンと関係を持とうとした気配があったため、二人の間柄も上手くいかなかったのでした。

 

そうした人間性が気になりはするものの、職務を成し遂げるため果敢に危険に立ち向かってゆく仕事人としてのシッドに対しては、敬意を抱かざるを得ません。本作で一番精密に描き込まれているのはシッドが拷問を受ける場面ではないかと思われるのですが、フランシスは自分の産み出した主人公に対してなぜこうも嗜虐的なのだろうかと思うくらいです。勝手な想像ですが、フランシスは、勧善懲悪の物語のために犠牲者を作るのが嫌だったのではないだろうかと思います。悪を倒す喜びを得るには悪に対する怒りが無ければならず、そのためには悪人から不条理な仕打ちを受けて犠牲になる人が必要になります。勧善懲悪の物語を成り立たせるためには登場人物の誰かが犠牲にならなければならないのですが、その役割をシッドが全て担っているように見えるのです。シッドならば、自分の分身だし、不届きな了顕を少しばかり持っている人間だから、懲らしめついでに嬲られても大丈夫、という訳です。そう考えると、シッドがとても崇高な存在に思えてきました。