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木地雅映子『氷の海のガレオン』

 

氷の海のガレオン/オルタ (ポプラ文庫ピュアフル)

氷の海のガレオン/オルタ (ポプラ文庫ピュアフル)

 

 

 
学校生活に溶け込むことの出来ない女の子を描いた物語です。周りの人達と言葉が通じない苦しみが描かれてあり、自分の経験と重なる所もあって、読み終えるまでにかなり精神を消耗しました。主な読者は中学生かもしれませんが、大人が読んでも気づかされることが多いのでは無いでしょうか。目を逸らし、封印し、やり過ごしてしまったことが、過去の記憶の中に見つかるかもしれません。

孤高の天才・斉木杉子について
主人公は斉木杉子と言って、早熟で非常に頭の良い少女です。物語の冒頭に、こういう告白があります。
「自らを天才だと信じて疑わないひとりのむすめがありました。斉木杉子。十一歳。――わたしのことです。」
小学校の低学年くらいまでは、杉子は冗談を言って友達を面白がらせるような快活な生徒でした。しかし、高学年になったぐらいから、杉子の冗談は周りに通じなくなり、孤高の生徒に変わっていきました。図書室が家にあるぐらい読書家の両親の間に生まれた杉子は、知的な面で非常に早熟であったため、自分が面白いと思うものや美しいと思うものが周りに通じないことに居心地の悪さを感じ、孤独を日に日に深めていきます。この物語ではそれを、「自分の言葉をもっている」と表現しています。
 
小学校の低学年から高学年への変化の大きさは、自分の記憶を辿ってみても大きかったと思います。「おもしろい」とか「かっこいい」とかいう感覚には標準があって、集団というものはその標準を共有するように出来ていると思います。大抵は、影響力のある人や多数の人の持っている標準がその集団の標準になっていて、そこからズレた「おもしろい」や「かっこいい」は認められることがありません。大人の世界ならばまだ建前が介在する余地がありますが、子供の世界ではそんなものはなく、ズレたものは即、疎外へと繋がっていきます。低学年の頃の杉子は、父親に教えてもらったギャグで笑いをとっていました。しかし、高学年になり、周囲の標準があがっていくにつれて、それが通用しなくなりました。笑いだけでなく、可愛いと思うもの・美しいと思うものも悉く周りとは合いません。疎外されるようになった杉子は、自らを天才だと思うようになりました。
 
これも小学校高学年の頃からでしょうか、一人でいることを寂しいと思う気持ちに加えて、一人でいることを見られるのを恥ずかしいと思う気持ちが出来てくるような気がします。杉子の心理は無意識に、自分は天才だから周りと話が通じないのであって、自ら一人を選んでいるという論理に、居場所を求めていったように思います。なぜなら、孤立というのは恥ずかしいことですが、自分は決して孤立しているのではなく、自ら望んで一人でいる孤高の存在であるということにすると、自分自身を納得させられるからです。天才となった杉子は周りの目や声をシャットアウトするようになり、休み時間もずっと一人で本を読むようになりました。
 
私もかつてそうでしたし、今現在働いている会社でもそんな感じでいます。今となっては、一人でいるのが恥ずかしいという気持ちは薄れて、ここの水は自分に合わないのだという諦めと、あくまでも仕事なのだという割り切りの方が強くなっていますが、意識的に周囲から視覚と聴覚を遮断する感覚は今でもあります。単純に煩わしいという理由もありますが、周りが楽しそうにしていたら、ひとりでいる自分は嫌でも惨めになって来るものですし、孤高を自認している以上は、周囲の言動を吸収して自分を汚したくないという思いもあるからです。しかし、こうやって強引に意識を内に向けることは、かなり危険なことだと思います。
 
平素何となく感じていることなのですが、視覚的な視野の広さと、思考の視野の広さは、ほとんど直結しているのではないかと思っています。言い換えれば、外の世界との感覚的な距離感と、意識的な距離感とが結びついている、ということです。例えば、手元で本やスマートフォンをジーッと見つめている時と、道を探して辺りを見回しながら外を歩いている時とを比べるとどうでしょう。イヤホンで音楽を聴いている時と、ライブで大音量の音を聞いている時とを比べたら、あるいは小声で囁いている時と、遠くにいる人に向かって大声で呼びかけている時とを比べたらどうでしょう。後者に比べて前者の場合では、外の世界との距離感が狭く・近く・小さくなっているのですが、同時に思考の視野も縮小されているのではないでしょうか。その場その場で視野が切り替わっているだけならば良いのですが、外の世界から感覚を遮断することが常態化してしまうと、意識が自分の身体とその周辺だけに集中してしまうので、自然と思考もそこへ向かっていき、物事を広く考えることが出来なくなってしまう気がするのです。
 
視線というのは、人を脅かします。偉い人に向かって不躾に視線を投げると怒られたり、他人をジロジロ見ていると喧嘩になったりするように、視線というのは権力闘争の道具としても使われます。人目を憚るというのは、正面から視線を浴びたり合わせたりすることが出来ないということであり、権力を失ったことを意味します。読書に集中する杉子は、他の生徒に絡まれても本から目を離さずに無視しますが、これは一見抵抗しているように見えて、残念ながら相手に屈服してしまっています。元々頭の良かった杉子ですが、頑迷に孤高を求めたり、周囲を軽蔑するようになったのは、他人の視線を避け視野を狭めていった結果、その傾向が加速されていったというのも大きいと思います。神経症の一種に、視線恐怖症というのがあります。これは、マスクをしないと外に出られなかったり、人の多い所を歩けなかったりと、行動が制限される点でも厄介なのですが、それ以上に、視野が狭くなって思考力が低下してしまうことが深刻な問題だと思っています。
 
孤高を極め、周りに対して羞恥も嫌悪感も感じることなく無関心でいられたら、かえって周りと上手くやれるようになるのでしょう。しかし、そこまで到達するのは難しいことです。 

まりかについて 
まりかちゃんという、クラスのいじめられっ子が杉子に近づいてきます。杉子とまりかの2人は教室でいつもひとりぼっちなので、まりかは杉子に対して仲間意識をもち、友達になろうとしてきます。しかし、孤高を自認してる杉子にとってこれは都合の悪いことでした。頭の良い杉子は、クラスの中にある上下関係・強者と弱者の関係を意識しており、それに対して抵抗意識をもちつつも、強者の側に立てない自分を恥じる気持ちがあります。もともと、周囲と言葉が通じない所から孤独が始まった杉子ですので、まりかとも話が通じることもなく、まりかに対して魅力を感じることが出来ません。そして、孤独を避けるために結びつくということを酷く不純な動機だと考え、無意味で下らないことだと思います。あくまでも望んで一人でいるという姿勢を崩したくない杉子は、まりかを冷淡にあしらい続けます。
 
文章で何かを表現するということは、常に一方的なことです。どんな人間だって、書き様によって良い様にも悪い様にも書ける訳ですが、書く側は一方的に書くことが出来、書かれる側は反論することが出来ません。だから、表現する・描写するというのは一面で残酷な面も持っていて、誰かについて何かを書くというのは、それ自体相手を犯す行為だと私は思っています。この物語では、まりかの醜さ・惨めさが何度も描画されます。容姿の醜さを克明に描き、読者に嫌悪感を催させることもありますし、まりかの了見を分析し、ひとりでいるのが恥ずかしいから杉子に近づいてくるのであって、杉子という人間に興味がある訳ではないのだという、意地の悪い指摘も行われます。一方で、クラスのいじめっ子達・強者達の具体的な人物像は描かれません。分析も解剖も行われません。強者達は顔の無い相手・社会そのものとして存在しており、あまりにも巨大過ぎて手を出すことが出来ないのです。個人を相手にした筆誅は、ひたすらまりかに対してのみ続けられます。
 
まりかは、スケープゴートにされてしまっているのだと思います。杉子が不満を持っている相手は、決してまりかではないはずです。ところが、真の敵に対しては杉子は声を上げることが出来ないし、筆誅を加えることも出来ません。なぜならば、杉子の中では、孤高の存在である杉子は周りに対しては無関心でなければならないし、不満を持っていることを自覚することは、強者と弱者の世界で自分が弱者の側に立っており、さらにそれに対して劣等感を持っているという事実を否応なく認めなければならないからです。まりかは叩きやすい相手です。イジメられっ子という一番立場の弱い相手なので、叩いて自分が不利益を受けることは無いですし、何より「友達になろうとして自分に付きまとってきている相手」という、非難するための格好の大義名分があります。実際には、無視や嘲笑・皮肉の方が性質が悪いのですが、こういうものは形がある訳ではないので反撃もしづらいです。一方でまりかに対しては、相手が自分を求めているという強みもありますし、自分に付きまとってきているという明確な叩き材料があるから攻撃がしやすいのです。
 
もし自分が正論を振りかざして誰かを攻撃している時、本当にその誰かを攻撃することが本望なのかどうかは、よくよく考えてみた方が良いと思います。その相手をスケープゴートにしてしまってはいないだろうか? 何か不満を抱えている時、必ずしも不満の主な原因となる相手を認識出来ているとは限りません。不満を持っているという事実に目を向けられなかったり、自らの内にやる嫉妬や怒りといった醜い感情を認めるのが嫌さに、たまたま目についた、正論で叩ける相手をスケープゴートにしてしまっているだけかもしれません。多少は溜飲が下がるかもしれませんが、いくら正義の剣で相手を打ちのめした所で、本当に解決すべきことは別の所にあるから、得るものは何もないはずです。そして、正論はいつでも自分の味方になってくれるとは限りません。正論で他人を攻撃していると、いつかその刃は自分に返ってくるかもしれません。 

物語の答え
杉子が誇りとしていたのは、働いているのかどうか良くわからない高等遊民のような父親です。学校で唯一慕っていたのは、教科書通りの授業をせず、高尚なクラシックの名盤を生徒たちに聴かせてくれる音楽の先生です。しかし、杉子が慕う人々は目の前から消えていきます。父親はある日突然海外へ旅立ってしまいますし、音楽の先生は教科書を無視した授業を咎められたり、特定の生徒と親しくし過ぎることを責められたりして、杉子から離されてしまいます。杉子の好きな大人たちはこうして消えていったのですが、そもそもこんな大人など存在しなかったのではないか?とも思えます。高等遊民だとか知的で高尚な先生だとかは、杉子の世界の中だけに存在した、学校社会と別の世界に生きる理想だったのだと思います。
 
物語が進むと杉子は学校を暫く休むようになりますが、そんな杉子を心配したまりかがお見舞いに来て、イチゴを置いていってくれます。高尚でないまりかを軽蔑する杉子は、それを見て何とマズそうなイチゴだと吐き捨てるように言います。この場面、あまりにも残酷過ぎて涙が出そうになりましたが、同時に杉子もまた、こんなこと続くはずがない、と悟り始めます。
 
この物語には、解決らしい解決がありませんでした。ただ、一つの答えが、暴力です。杉子はその後再び学校に行きますが、久々に登校した杉子に対して権力を持ったクラスメイトが集団で絡んできます。杉子はこれを、殴ります。大騒ぎになった所で物語は終わりに向かっていくのですが、杉子の抱える問題が解決したのかそうでないのか、最後まで曖昧なままでした。これが最善の方法だったのかどうかは分かりません。しかし、自尊心を破壊しにかかってくる相手から自分を守るためには、他に方法が無ければ、暴力行使もやむを得ないのではと思います。少なくとも杉子の中では何かが変わったでしょうし、いじめっ子達の中にも暴力に対する恐怖が芽生え、抑止力が生まれるようになったと思うからです。