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川上未映子『ヘヴン 』

読書

 

ヘヴン (講談社文庫)

ヘヴン (講談社文庫)

 

 

『ヘヴン』は中学校でのイジメを扱った作品です。主人公の「僕」は中学2年の少年で、斜視のためにクラスでイジメを受けています。イジメは日常的に行われており、毎日ひどい暴力が繰り返されています。クラスにはもうひとり、いじめられている少女がいます。この子は「コジマ」と呼ばれています。物語は、主人公とコジマが、文通によってお互いを知る所から始まります。

 

読むのにかなりエネルギーの要る物語で、決して長い物語では無いのですが、休み休みで何とか読み通しました。イジメや暴力の内容が激しいので、夜に読んだら、眠れなくなってしまうような重さがあります。しかし、きつい内容であるだけに、その分、現実の人間を直視する力を与えてくれる物語でもあります。舞台は中学校ですが、イジメの本質は決して少年時代特有のものでは無いでしょう。人が人を支配するということの恐ろしさや、集団的な暴力の怖さ、そして、なぜそういう事が起きてしまうかなど、多くの事を考えさせてくれました。

 

以下、感想です。

物語の内容に関わることもあるため、未読の方はご注意ください。

 

「コジマ」について

一番、思い入れを持って読んだのがこのコジマというキャラクターでした。コジマは、正義と不正義を直観出来る頭の良い子だったと思います。そして、自分が正しいと感じたことをストレートに行動に移す強い信念を備えていました。コジマの両親は貧困が原因で離婚していますが、再婚して豊かになった母親よりも、文句一つ言わずに働く自己犠牲的な父親に強く惹かれています。そのため、父親を忘れないように敢えてみすぼらしい身なりを貫きます。「僕」の斜視やコジマの貧しい身なりは選ばれた強い者が持つスティグマであり、僕とコジマがイジメを受けていることには意味があるのだと考えます。 そして、あるときイジメに宗教的な意味を確信したコジマは、このイジメを乗り越えた先に素晴らしい世界があるのだと悟り、日に日に強くなっていきます。

 

「僕」が感じたように、コジマの言っていることはおかしいです。普通の感覚で言ったら、心に傷が残ることすらあれ、イジメを受け続けることでその先に何かがあるとは思えないはずです。コジマは、イジメをしている人間たちは哀れで、傍観している人間たちも哀れで、「僕」とコジマの2人だけが選ばれた強い人間なのだと話します。しかし、強さとは何なのか。「僕」が虐められている時にコジマは何も出来ないし、コジマが虐められている時にも「僕」は他人の振りをしています。傍観者という点では、この2人も同じなのです。コジマの言う強さとは、ひたすら耐え続けることであり、それをもって強いと言うのは、ただ自分たちが虐められて何も出来ない現状を肯定し美化しているに過ぎません。

 

しかし、私はコジマの精神状態がわかる気がしています。個人的な話で恐縮ですが、私は新卒で入社した会社で同じような感覚を抱いたことがあります。会社には、同期で入社した人が50人ほどいました。しかし、中学・高校・大学と、まともな人間関係を築くことが出来なかった私にとっては、同期という存在がとても苦痛でした。同期が集まると、お互いに連絡先を交換したり、飲み会を開いたり、活発に交流を進めます。50人という人数は、ちょうど学校のクラスに近い規模ですが、私はその輪の中に入ることが出来ず孤立していました。話しかけられることもないし、自分から声をかけても手応えが無い。孤独に過ごした学生時代がフラッシュバックし、ああ、ここにも自分の居場所はないのかと、会社に抱いていたわずかばかりの希望を呆気なく打ち砕かれた気持ちがしました。その後は、自分が仕事に取り組む時のモチベーションを「情」ではなく「義理」に徹底させることにしました。同期とは一切交流しない。その他の先輩や上司とも一切付き合いを求めない。ただただ、採用してくれた会社に対して自分が一生懸命働くことでお返しする。そうすることで、自然と周りも自分を認めてくれるに違いない。そう考えるようにしました。

 

コジマが強くなっていく感覚は、実体験として良く分かります。内面世界に自分の理想、それも崇高に見える理想を掲げた時には、何があっても動じない、怖いもの無しになったような感覚を覚えるのです。入社以後、私は毎日5時に起床して朝に2時間勉強し、会社では夜10時まで残業して働くという生活を続けていました。周囲と人間的な交流は一切ありませんでしたが、それでも平気でした。耐えることが喜びになっているので、耐えれば耐えるほど強くなっていくのです。上司はそれを見て、恐らく半分は意気を買って、もう半分は利用するつもりで、他の人の2倍から3倍の仕事を割り振ってきました。他のメンバーが全員定時で帰っているのに対して、私は毎日遅くまで残業です。明らかにパワーハラスメントです。しかし、私は文句も言わずに毎日楽しそうに仕事をしていましたし、休日には夜行バスに乗って全国各地を旅行するなど精力的に活動していました。

 

感情は、人工的に作ることが出来ます。カルトやブラック企業では洗脳ということが行われますが、内面世界を頑固にもつタイプの人間は、自分で自分を洗脳することが出来ます。洗脳状態にあると、何をやってもダメージを受けないし、いつでも楽しい気持ちでいられるので、一時的に驚異的なパフォーマンスを発揮できることがあります。しかし、洗脳は心を破壊することで成り立つので、そう長く続くものではありません。耐えることにも限界がありますので、心の消耗が激しくなるにつれ、人は理性を失い、独善的・狂信的になっていきます。ある時、私の身体は動かなくなりました。身体が意志の命令を拒むようになったのです。それをきっかけに、一旦立ち止まって日ごろを振り返ってみると、明らかに怒りっぽくなっており、周りから認められる所か孤立がどんどん深くなっていることに気が付きました。

 

コジマもそうです。「僕」が大切なスティグマを捨てて手術すると言い出した時、瞬間的に激しい怒りを爆発させ、その後の「僕」の言う言葉には一切耳を貸さずに絶交という極端な手段をとります。「僕」の目には強くなっていたように見えたコジマですが、実体はもう限界だったのです。外からの攻撃には頑丈になっている一方で、内面を突くような、信念を揺るがすような出来事には耐えることが出来ません。コジマは頭がおかしかったのでしょうか。安易な自己陶酔の道に逃げてしまったと言えるのでしょうか。学校だけでなく家庭にも居場所のなかったコジマは、そうしなければ生きていけなかったのだと思います。

 

ラストの仕打ちはあまりにも残酷でした。中学生の女の子にとって、あの出来事がどれほど辛いことだったか。表向き、悟り澄ましたような行為に出たコジマですが、自尊心を粉砕された記憶は、コジマの心と身体に強烈に刻み込まれたはずです。物語はそこで終わってしまいますが、どうやったらコジマが立ち直ることが出来るのかも大きなテーマになると思っています。

 

「僕 」について

嫌みがなく、思考のバランス感覚も優れていて、とても良い子です。一人称が「僕」というのも、好感が持てます。読書好きという所が強いて言えば変わっていますが、本当に、本人に原因があるとかそういう事ではなく、たまたまイジメの対象にされてしまっただけという感じがします。無鉄砲にイジメっ子に立ち向かっていくタイプではありませんが、主犯格の百瀬を前にしても自分の主張を話せるし、ラストの場面ではコジマを逃して自分だけが犠牲になろうとするなど、強い心も持っています。

 

心配なのは、物語中盤以降で不眠の症状が現れ始める点です。間違いなく、神経症の手前であり、抑鬱状態になりかけている兆しでしょう。心に後遺症が残りそうな危険な状態であり、あの辺りで中学校に行かない決断が出来て本当に良かったと思います。ただ、鬱の気が出始めると、集中力も尽きて思考も働かなくなるのですが、「僕」はあのイジメの最中にあっても勉強や読書がちゃんと出来ていました。コジマよりかは、のんびりとして図太い所があったように思います。

 

ふと、「僕」とコジマの性別が逆だったらどうなっていただろうかと思いました。「僕」が女の子になってもそれ程大きな違いは無いように思いますが、コジマが男の子だったら物語は随分変わっていたのでは無いかと思いました。百瀬の言葉を聞いた時、「僕」は憤りを感じつつもそれ以上のことはしません。しかし、コジマだったら、恐らく百瀬を刺していたのでは無いかと思います。

 

コジマと「僕」との関係について

コジマが「僕 」と仲良くなっていく物語の序盤は、本当に心が安らぎます。お互い丁寧語を使った遠慮がちな文通から始まり、日常のちょっとしたことについて感じた事を書いたり、直接あって話すようになったりと、段々距離が縮まっていく過程はとても微笑ましいものでした。夏休みに2人で美術館に出かける場面など、美しいだけでなく尊さすら感じる程です。

 

しかし、2人の関係は破綻してしまいました。

 

頭の良さや権力・地位など、社会を生きるための強みは人と人との縁を作ります。これらは損得勘定に基づく関係であり、ある意味一番自然な人間関係の在り方かもしれません。しかし、強みで結びつく人間関係がある一方で、弱みで結びつく人間関係というものもあります。コジマが「僕」に求めていたのは、弱みで結びつく人間関係です。強みで結びつく人間関係は、損得尽くというのがあまりにも見え透いており嫌な感じがしますが、弱みで結びつく人間関係には、美しさや温かみも感じられます。しかし、本質的にはどちらもそう大差はないのかも知れません。

 

純粋な愛情や敬慕による人と人との繋がりが出来たならば、それは理想的なことでしょう。しかし現実問題そうも行かず、どこかに利害関係があったり、安心できる弱いもの同士の繋がりという面があったりします。人間、そういうものだと割り切る他は無いのですが、やはり不純な動機が強すぎる場合は危険です。不幸から脱出することが出来た人がいた場合、本来ならば祝福すべきことなのですが、不幸によって結びついた人間関係にとってみると、金の切れ目が縁の切れ目と同じように、不幸の切れ目が縁の切れ目ということになります。縁が切れるどころか、不幸から脱出した人は裏切り者扱いされることもあります。

 

「僕」とコジマの文通、そして夏休みの思い出のシーンはとても美しいものでした。しかし、それが不幸を基に成り立っていたものである以上、危険な関係であることに変わりません。作中では、「僕」が斜視を治すと言い始めた時点で関係は終わってしまいますが、それがなかったとしても、早晩同じような結末をむかえていたのではないかと思います。あの美しい2人の出会いを、もっと健全な関係に育ててゆけたら、そこが「ヘヴン」だったのではないか。そう思うと、ただただ無念が残ります。

 

イジメにあった時にどうするか

この物語では、最後にイジメが明るみになり、「僕」は学校に行かない道を選びます。主犯格の百瀬のいう通り、イジメに深い意味などありません。ただ、その集団の中になんとなく生まれた雰囲気だったり、力のある者の欲求だったりでイジメが起こるのです。逃げるしかない場合がほとんどでしょう。

 

親にも言えず、教師にも言えず、一人で抱え込んでしまうというのが問題です。やはり、学校に行かないという選択肢が広く認知されることが、まずは必要なのでは無いかと思います。子供には恥の意識がある。その上、親までが体裁を気にかけていたらなお言い出し辛い。外敵の脅威にあった時、なおやはり子供にとって親の存在は大きいと思います。