運は天にあり

内省の記録

人望

新しい仕事を見つけ、半年が経ち、暮らしはいよいよ落ち着いてきた。季節も気づけば秋になる。飽きることなく今の仕事を続けられたのは、やはり人間関係が一番大きい。探り探りの時期を終え、一緒に働く時間を過ごし、職場の人たちとはほど良い距離感が出来ている。

 

環境を変えるのはとても良いことだ。今までの自分を知らない人と、新しい生活を始めることが出来る。自分はこういう人間だと決めつけてくる相手がいないと、本当にのびのび過ごすことが出来る。以前よりずっと、自由に生きられる。

 

今の自分には居場所がある。これは、幸せなことだと思う。周りが敵ばかりの時は、仕事や勉強以外のことにあまりに多くの気持ちを持っていかれた。思考も体力も、全部奪われてしまっていた。同じ状況が何度も繰り返されると、将来にも希望が持てなくなる。努力出来るということは、それだけで大いに恵まれていると思う。

 

自分に人望がないのは痛感してる。また、人望というものが、求めれば求めるほど得られないものでもあるということも知ってる。振り返れば色々な試行錯誤をしてみたけれど、どれも上手くはいかなかった。苦労せずとも産まれながらにもっている人もいるし、どんなに頑張っても得られない人もいる。結局作為ではどうにもならないものなのだと思う。

 

今の自分に人望はあるだろうか。まあ、可もなく不可もなくといった感じ。なくはないが、あるとも言えない。贔屓目に見てもそんなところだ。経験に基づくバランス感覚でなんとかマイナスを抑えてはいるが、かと言ってプラスになっている訳でもない。ようやく居場所は出来たとはいえ、そう色々なことが急に変わるわけじゃない。

 

人との関わり方や言葉の使い方にはかなり気をつけてる。他人は滅多に意識しないようなことでも、細心の注意を払っていたりする。けれども、そういうのは必ずしも人望に繋がる訳ではないし、往々にして報われないもの。下手をすると、裏目に出てしまうことさえある。

 

Kという人と一緒に仕事をしていた時のこと。やっていたのは小さな作業で、Kと私の二人だけで担当していた。Kはこの作業の経験が無かった。なぜかゆき違いでそこに割り当てられてしまっていた。途中でそれに気づいたものの、もう動き出してしまったことなのでそのまま行くしかなく、私の方にはいくらか覚えがあったので、丁寧にやり方を教えたり、また励ましたりしながら、一緒に作業を進めていった。

 

自分としては、やるべきことをいつも通りやっていたつもり。特別普段と何か違っていたわけでもない。初めての作業でKが苦労していた分、気を回すことが多かったくらいのものだったと思う。

 

しかし、二人の様子を見ていたある人が呟いた。「Kさんにうまくやらせてる」。何の他意もなくポツリともれた感想だったように思う。それが耳に届いてしまった。

 

驚いた。「やらせている」という言葉にギョッとした。まめに気を配っていたことで、かえって悪目立ちしてしまったらしい。その人の言い方からは、私がKを体良く使役しているというニュアンスが読み取れた。普段、決して仲の悪い人でもないからこそ、この呟きは一層真実らしく聞こえた。

 

さすがにこれは心外だった。Kにやらせて楽するなど、全く思いもしなかった。簡単なことをKに任せ、大変なのは自分でやった。説明するのも手間がかかるし、なんなら全部一人でやりたいぐらいのものだった。でも、そういう仕事のやり方は良くないと思うから、Kと細かくやりとりをして、一緒に出来る形を作っていた。邪推も甚だしいと思った。

 

なるべく自分も相手も気持ち良く仕事が出来るように気をつけていたつもりだったけれど、これを聞いてガックリした。どうも、気配りがわざとらしくなってしまうらしい。

 

けど、そう見られた以上はどうしようもない。悔しいが、弁解の余地はない。こういうのはむしろ、うだうだ弁解するとダサくなる。大人は何も言わないが、そう思われた時点で終わりである。

 

親切だと思ってしたことが、親切だと受け取られれば、それに越したことはない。現実はなかなかうまくいかない。気づかれないだけならまだしも、正反対の印象を持たれるのは辛い。「やらせてる」とは、ほんと嫌な言い方するなと思った。

 

どうすれば良かったのかと考えた。しかし、他に良いやり方は見つからなかった。伝えるべきことはちゃんと伝える方が良いし、ぶっきらぼうに仕事を投げるようなマネもしたくない。あまり手取り足取りでは仕事が進まないから、内容とか量を加減して作業を割り振るようにもしていた。協調してやっていくには、これが精一杯だった。

 

言葉が過剰だろうか。言葉を控えるべきだろうか。どうしても、そうは思えなかった。おだててやらせているように見えたとしても、わざとらしく見られたとしても、そういうのがないよりかはマシだと思わざるをえない。なくなったらどうなるだろう。放っておけば細かいことが面倒になり、おざなりになる。確認不足によるすれ違いが起きる。照れや羞らいが出来て、なんとなく気持ちを伝えづらくなる。そうしてどんどん溝が深まる。一旦、だらしない関係性になったら、そこから立て直すのも大変だ。

 

最善ではないかも知れない。自分の能力の限界もある。けれど、次善のやり方に過ぎなかったとしても、今の自分に出来ることを精一杯やっていくことしか出来ない。

 

自分のやっていることが、人望につながらなかったり、逆に反感を買ってしまうことについて、気にしても仕方がないと思うようになった。批判は甘んじて受け入れるしかない。思い当たる節がないではないしな。本当に心にもなく儀礼的に喋っていることもあるし、我ながらわざとらしいと思うこともある。それでも、目に見えないものを無視することは出来ないし、そこにこそ大切なものがあると思うから、やるしかないと思っている。

 

不本意なことはあるが、信じていることが一つ。長い目で見たときに、色々なことがきっと良い方向に向かうに違いないということ。目先のことばかり追うと、どんどん悪い循環に入っていってしまう。今まで、反面教師を何人も見てきたから確信してる。こうすればこうなるというのを、知ってて見過ごすことは出来ない。同じことを繰り返したくない。自分の経験してきたことを、物事がちゃんと良い方向に向かうように活かしたいと思う。それは、仕事の成果にとって良いことでもあるし、自分や相手にとっての良いことでもあるし、ひいては社会全体にとっての良いことでもあると思っている。

 

人望というものは、きっかけ次第で逆転することもある。これは、結構色んなところで見たり聞いたりしている。嫌われたり疎んじられたりすることも、それが一定の限度まで行くと、反動で一気に逆転することがある。嫌悪が罪悪感に変わり、見方が一変する。そこに至るまでは、やはり中途半端であってはいけなくて、何かしら一貫したものがないことには、そういう逆転も起きない。

 

そんなことを考えつつ、目先のことはあまり気にしないようにする。

 

仕事の仕方

人を動かすのは難しい、と改めて感じる。

 

最近新たに職場に入った若い男の人がいる。まだ未成年の大学生で、ここでは仮にTと呼ぶ。Tはとても優秀で、知識も多いし仕事もでき、どこで学んだか知らないが、教えてなくても一通り、作業をうまくこなしてくれる。意識も高く、勉強会やインターンにも積極的に参加しているようである。

 

一緒に仕事をしていると、意識の高さがより感じられる。何も言わずに黙々と任せたことを仕上げてくれ、時には頼んでいないことも気を利かせてやってくれる。言葉もいらず、手間もかからず、大いに助けてもらっている。

 

とは言え、あまりTの才気を頼りすぎないよう心がけてはいた。いくら優秀とは言っても、入学したての大学生で、仕事も最近始めたばかり。形の上ではこなせても、まだ経験しなければならないことが沢山あるように思う。

 

自分の常識を押し付けないこと。そこを特に意識していた。相手のものわかりが良いと忘れそうになるが、あてにし過ぎるのはやはり危ない。すでに話が通っていることには、敢えて言わずに口を慎む。そうでないことに関しては、なるべく目線を同じに合わせる。なにごとも任せっぱなしにはせず、一から丁寧に説明するようにしていた。

 

しかし、それでも常識のズレは起きてしまうもの。こちらが何の他意もなく言っていることでも、相手が同じように受け取るとは限らない。そういうところから、すれ違いが起こってしまった。

 

ある時、私とTとを含めて数人でやっている仕事で、ちょっとした相談事が持ち上がった。今の仕組みでは解決できない問題があり、一部に手を加えて改良しなければならなかった。どう対応しようか、みんなで話し合うことになった。

 

改良が必要なのは、Tが担当している箇所だった。ここはTが一番詳しいはずなので、何とかならないかと話を向けた。もちろん、仕事の内容にケチをつけたわけではない。新しい問題が出てきたので「こういう対応は可能だろうか」と打診をしただけである。ここまでは、何の不思議もないはずだった。

 

ところが、自分が思っているような温度感では相手に伝わらなかった。Tは熱くなった。そんなことはない、これで正しいのだと主張をした。思いがけず語調が強めだったので、一同驚いた。何語か言葉を交わしてみたが、ああ言えばこう言うで、一歩も引かない様子だった。場の空気は白け、ひとまずその場は結論を出さずに終わらせることになった。

 

予期せぬタイミングの諍いに驚いた。こんな空気になるとは思わなかった。話の切り出し方とか、言葉の選び方がまずくて、否定されたように捉えられてしまったのだろうか。見直しを繰り返しつつ、手戻りも経ながら仕事を完成させていくのは普通のことなので、そこには誰も気をつけていなかった。だが、それがまだ普通ではない目線もあるということだった。

 

たまたまその時、Tの虫の居所が悪かっただけなのかも知れない。適当に理由をつけ、しばらく時間と距離を開けることにした。

 

正直、Tへの見方は変わった。なんかやりづらい人だなという印象がついてしまった。

 

同時に自分自身にもがっかりした。これぐらいのことは、予め分かっていたはずだった。年が若ければ不安定なところもあるだろうし、ましてや才気走った人ならなおさらだ。そう思って接していたつもりだったけれど、いざ直面するとまあメンドくさい。

 

どうしようかと考えた。最初は、なぜあんな文句を言われなければならないのだというモヤモヤがあった。そして逆に、普段一緒に働いている人たちの有難さを再確認することになった。器用な人はありがたいと言えばありがたいが、結局は一人で出来ることには限界があるので、多少不器用でも仕事をしやすい人の方が良い。

 

とは言え、織り込み済みのことをあれこれ言っても仕方ない。人は思い通りには動かないものだし、むしろ今までがすんなり行き過ぎたのだろう。仕事のしやすい人と仕事が出来るのは当たり前で、そうでない人とも折り合いをつけていけるのが人間力というものだと考え直す。

 

少し時間を置いたあと、Tに話しかけてみた。別の要件にかこつけて、さっきの問題に触れた。一方では、ここが能力の見せ所だと功名心を煽ったり、また一方では、これが出来ると本当に助かると頭を下げてお願いしてみたり。そういう内容のことを、ものすごく婉曲的に、かつ曖昧な形で伝えた。

 

この時ばかりは、日本語って便利だなと思った。格助詞と係助詞の使い方次第で、何か言っているようにも、何も言っていないようにも、如何様にも言えてしまうのだから。直接言うわけでもなく、かと言って遠回しに言うわけでもなく、外さずかつ当てもしない。もちろん、それまでの経緯から真意がどこにあるかは明らかなのだけれど、変に気持ちを逆撫でしたり、説教臭くなったり、あるいは気を遣わせたりしないように、腐心した。

 

その場はひとまず話を聴いてくれたみたいだった。だが、自分ではそれ以上の期待はしなかった。物事はそうすぐには変わらないので、長い目で見ていくしかない。少しでも言葉が伝わればそれで充分。件の問題については、あとで自分が何とかするか……と考えていた。

 

ところが、後日、Tが何も言わずにこの問題を解決してくれていた。しかも、ものすごく高い完成度で仕上がっていた。これを知った時には「さすが!」と、惜しみない賞賛の声をあげ、わざとらしいぐらいに周りにも喧伝した。

 

自分の行動が良かったのか、周りに助けられたのか、たまたま上手くいっただけなのか。答えはでないが、キナ臭い空気がボヤで済んでくれた安心感でほっとした。

 

結果的に良い方向に向かってくれたが、あとで色々考えた。なぜこんなことになってしまったのかとか、どう振る舞うのが良かったのかとか。人間である以上、間違いがあるのは避けられないので、問題が起きてしまうのは仕方がない。それより、問題が起きたあとの行動こそ大切だと思うので、そこは本当に色々考えた。

 

どういう選択肢がありえただろうかと考えているうち、ハッとした。例えば、Tが不平を言った時、一喝するということも出来たのではないか。あるいは、強い口調で口を塞ぐとか、理詰めで黙らせるとかいうことも出来たのではないか。つまり、暴力で解決するかどうかという場面に立たされていたことに気がついた。

 

相手の気が立っている時に力で押し付けるのは暴力だ。そんなことをすれば絶対に遺恨が残る。しかも、渋々従わせたら相手は全力が出せなくなり、仕事の質も落ちる。一度暴力を振るってしまっては、二度とそれ以前の人間関係には戻れないから、長期的に見てもマイナスだろう。また、自分が相手にしたことを、相手がまた別の人にするようになったら? それこそ、暴力の連鎖が始まってしまう。

 

理屈の上では暴力という選択肢もあるけれど、実際にはそんなこと考えもしない。色んな安全弁に遮られて、選択肢にすら上がらない。

 

恐ろしいのは、これらの安全弁を一つも備えていない人間がいるということだ。

 

確かにイラッとする気持ちはわかる。が、それをそのままストレートに表すのは頭を使わなさすぎだ。その場はそれで収まるかも知れないし、それはそれで楽だろう。だが、暴力で解決出来ないことなんで山のようにあるし、そんなやり方がずっと続くはずがない。なにより、暴力の癖がついてしまったら、絶対辞められなくなる。

 

問題なんてない方がおかしいのだ。不平を言えたり、問題を起こしたり出来る環境は、健全なのだ。それだけの遊びと余裕をもっているから、受け止めることが出来る。火薬の匂いを充満させることで、はじめから文句を出させなくすることも出来るだろう。しかし、それは臭いものに蓋をしただけで、禍根を将来に残すだけ。嘘や隠蔽の温床になる。とても、良いやり方とは思えない。

 

……結果は出てる。とにかく今は、自分のやり方を信じよう。

 

人との付き合い方

他人の生々しい自意識に直面したとき、どのように振る舞えば良いのだろう。

 

最近、他人と話す機会が増えた。飲み会で話したりとか、仕事の合間に世間話をしたりとか、そういう時間が多くなった。前は仕事のこと以外全く話さなかったけれど、今はもっと違うことも喋っている。そうすると、何気ない会話を通して普段とは違う相手の一面を知ることも増えてくる。

 

嫌な面もある。というか、打ち解けて油断がなくなった頃に出てくるのは、たいてい嫌な面だ。でも、なるべくそういうのはスルーする。もとより完璧は求めてないので、良い面悪い面含めて消化して、その人を知ることにつとめる。

 

しかし、スルーしづらく、どう反応すれば良いか戸惑うことも多い。失礼だが、この人何言ってんだろと、一瞬引くこともある。そこで常識の差を認める。どう受け止めれば良いのか、どういう距離感が良いのかを、そろそろ考えはじめる。

 

七つの大罪」のうち、一番良く目にするのは「高慢」だと思う。貪食、貪欲、怠惰、色欲あたりはあまり気にならない。というか、大罪とは言い過ぎな気がする。好きなものを好きなだけ食おうが、そんなの本人の勝手だろって感じ。そのほか、嫉妬は内でメラメラと燃えるものだし、怒りはあまりに目立ち過ぎる。高慢は、嫌らしく表に滲み出てくる。

 

自分自身の自意識を恥じる方ではあったけど、よくよく周りを見ていると、誰もが多かれ少なかれイタさがあるのに気がつく。確かに、器用か不器用かの違いはある。けれど、接する時間が多くなると、高慢は自ずと明らかになってくる。やはり、気づく人は気づくもの。本音はいつかバレるもの。罪というのは、そうそう隠しおおせるものじゃない。

 

他人の高慢な自意識に触れてしまったとき、どうすれば良いか。沈黙も返事の仕方のひとつだけれど、事なかれ過ぎるので出来ればしたくない。別に否定する気もないし、笑う気もない。むしろ、自分が相手を認めてないような空気を発しているから、そういうモノが出てしまうのかと考えたりする。だから、見て見ぬ振りをするのではなく、なんとか良い向き合い方が出来ないかと思う。

 

いつもは、心にもないことを平気で言う。たとえば、会話の流れの中で、誰かの手柄や良い部分が取り沙汰された時には、すぐにその人を持ち上げる。内容がどうかとか、実際に良いと思っているかとかは関係ない。何も考えずに「すごい」とか「さすが」とか言う。

 

それは、別に相手をおだてようと思っている訳ではなく、何も考えないことが良いと思っているのでそうしている。その人が活きる流れがあるなら、そこに自然に乗って行く。会話のテンポを大事にして、すぐに言葉を繋いでいく。認めるところは素直に認めれば良い。見たいのはその先だ。感心する気持ちが少しでもあれば、それで十分だと思っている。

 

言うはやすしだが、行うのはなかなか難しい。思い通りには、言葉がスラリと出てこないことがある。相手に対するわだかまりがあると、否定の言葉しか出てこなくなるし、相手を侮っていると、何かしらカンに触る余計な一言が出てくる。咄嗟に出てくる言葉ほど、そういうのが如実だ。反対に、媚びや下心があると、お世辞が過剰になる。これも白ける。結局、余計な心など無い方が良いのだと思う。

 

しかし、流れを逸脱した自慢話となると話は変わってくる。自然な流れの中ならともかく、不自然ならば言葉も吃る。心にもないことは、さすがに言えない。人づてに聞けば感心することでも、自分の口から言われると台無しだ。

 

そういうことを言わずには居られない理由があるのか、高慢に酔ってバカになっているだけなのか。自慢話をされた時、内容にはもう興味をなくすが、その理由は知りたいと思う。ただ、それをストレートに言うわけにもいかないので、微妙な間を作ってしまう。そして、しらじらしく的外れな質問をしたりして、その場をウヤムヤにしてしまう。ちょっとこれでは駄目だな、と思う。

 

思い切って、真剣に問いかけてみようかな。自慢話なんかする人は、適当な社交辞令を浴びすぎて、感覚が狂っているのかも知れない。自分の問題意識と、その人の自慢話との間に繋がるものがあれば、真っ向から話をしてもいいかも知れない。それで、お互いに何か気づいたり、考えるきっかけになれば良いと思う。何もなければ離れるだけ。そんな感じの習慣を身につけていきたいな。

 

責務

バイト先に新しく、人が二人やってきた。ともに若く、一人はスーパーの仕事もしてる二十代の女性で、もう一人はまだ未成年の大学生だ。こないだ面接に来てたあの人かと、思えば今はもう机を並べて働いている。職場の空気も若返り、変化で人も活気づく。

 

年長者の醜態を散々見てきたので、若い人と接するのは特に気を遣う。年上のことはいい。その人が敬意を持たれるかどうかは自己責任だし、魅力がないと思えばこちらから距離をとるだけだ。若い人の場合は違う。その人の未来に多かれ少なかれ自分も影響を及ぼすことになるから、今の自分に何が出来るのかを考える。

 

伝えたいことが伝われば、それは嬉しいことだ。けれど、そればかりではないだろう。日常の言動はいつも見られているし、一緒に過ごす時間が長いほど、素の自分がさらけ出される。嫌な部分も含めて、全人格が評価される。それは、良い意味でも悪い意味でも他人に影響を与えずにはおかないし、年長者や地位のある人なら、なおさらだ。

 

若い人と接していて、ハッとしたことがある。職場で以前からよく話をすることのあった人が、ある時、私の受け売りで話しをしているのを聞いてしまった。驚いた。どこかで聞いたことがあると思えば、他ならぬ自分の言葉である。吹き込むでも何でもなく、何気なく発した言葉が相手に乗り移ってしまった。これは、普段の言動に相当気をつけないといけないぞと思った。

 

作られたものには、限界がある。自分をどれだけ良く見せようとも、中身がなければすぐにバレる。言葉はいくらでも飾れるが、言葉に偽善が多ければ、相手もそのまま偽善者になってしまう。

 

昔、会社を辞めた時のことを思い出す。「なぜ俺に相談しなかった」と言ってきたオッサン上司に、心底から呆れたことがある。なぜも何も、そこに「信頼していない」以外の理由がある訳がない。メシに連れて行き、おだてて自尊心をくすぐれば相手がなびくと思ってるのか。それで人心収攬成功と、一人で勝手に勘違いしてるのか。作られた人望に、作られた信頼。それを本気で信じてることこそ噴飯ものだ。下手の考え休むに似たり。他人を作為で操ろうとする、考え自体がおこがましい。

 

年をとって経験が増える。地位が上がる。それを、自分の魅力や人望と勘違いしている人間が多すぎる。実態はどうだ。頭が固くなったり、傲慢になったり、下品になったり。そんなのばかりだ。でかくなるのは態度と声ばかり、器の大きさはちっとも変わりゃしない。

 

振り返れば、今まで困った時に助けてくれた大人がいなかった。こういう言葉をかけて欲しいと思ったことの、一つとして叶えられたことはなかった。力を持ったら持った分だけ濫用する。弱い相手を搾取したり、支配欲を満たすのに利用したりする。今、自分より若い人に接していて、とても同じことは出来ない。あの時、こういう人がいて欲しかったという思いを、自分自身で果たそうとしている。

反省

色んな悪いことが重なり、大人気ないことをしてしまった。

 

人に気を遣わせるより自分が気を遣う方が楽だから、普段はちょっと嫌なことでもスルーできる。

 

ただ、何だかんだ消化は出来ていなくて、余裕がなくなると積み重ねが一気に来る。

 

それだけ見れば些細なことでも、それまでの時間軸の厚みで束になってやってくるから、ムカつきの度合いが半端じゃない。

 

我を忘れることはないけれど、身体が言うことを聞かなかったり声が出なかったりする。無気力になる。

 

休もう。距離をとろう。こういう時は自重するしかない。

 

あと、普段の振る舞いも少し見直そう。最近、また色々と思う所がでてきたので、良いきっかけだったかもしれない。

 

言葉は無力

最近、ほとんど本を読まなくなった。音楽は聴いてる。ネットもしてる。けど、活字を本で読むことがない。機会もないし、読む気も起きない。気持ちが書物から、だいぶ遠のいてしまっている。

 

知ることは確かに大事。けど、知ることと能うことは別だし、知識と経験の乖離はとても大きい。言葉に裏切られたり、翻弄されたりすることが多くなり、言葉というものに信頼がおけなくなった。しっくりくる言葉以外は受け付けなくなった。ましてやそれが、全く違う体験、全く違う人生を経て来た他人の言葉ならなおさらだ。

 

生活は良い方向に向かっている。なぜそうなったかと言えば、環境が変わったから。それ以外にない。身もふたもない。環境を変える力になったのは自分自身の問題意識であり、他人の言うことはいつも逆だった。辞めるな、逃げるなと、現状維持を強いるようなことをずっと言われてきた。

 

ものの分かったようなことを言っていても、現実はこんなもの。その人にとってたまたま良かったことが、他人にとっても当てはまるとは限らない。あれだけ偉そうに、もっともらしく語っていた言葉は一体何だったのか。これだけはっきりと結果が出てしまうと、もはや呆れるを通り越して情けない。

 

言葉で説明できることは怪しい。綺麗に割り切れれば割り切れるほど、切り捨てられたものの中に大事なものが潜んでいるように思う。人一人の唯一無二の体験、個人史を抜きにして、言葉や論理だけで答えが出せるか。どれだけ知識を沢山仕入れようとも、その中にリアルな世界は存在するのか。

 

問題意識を共有できる人はいないだろうかと、本の中に仲間を探し求めたことがある。文学全集を一巻目から紐解き、作者のプロフィールを見て、好きになれそうな作家がいないか探した。が、見つからなかった。プロフィールがみんな似てる。みんな同じ顔をしている。この全集とやらは、帝国大学だかのエリートの、そのまたごく一部の同人がやっているものだと気づいた。

 

境遇が違いすぎたら、もう駄目だ。言葉が入ってこない。普遍的なこと?  それより、割り切れないことが山ほどあるよ。

 

色川武大の『うらおもて人生録』は面白かった。共感できる話が多かったし、影響を受けたところもあった。自身も劣等生だったという色川は、優しい語り口で、若い人に向かって人生のことを話す。博打打ちとして生きてきたこと、作家として生きてきたことなどを踏まえ、人とは違う見方で、ものの考え方や思い出話など、色々なことを話してくれた。

 

ところが、他のエッセイを読むと、全然印象が変わってしまった。ある読み物で、色川のもとに不思議な学生が訪れたときのことを書いていた。その学生は、『麻雀放浪記』を読んだとかで感銘を受けて来たらしく、何か胸に秘めたような様子だった。ただ、どうも捉えどころがなく、立ち居振る舞いに無礼なところもあったので、適当にあしらって帰したと言う。この学生について色川は、せっかく自分が会ってやっているのだから、もっと器用に振舞って人脈につなげていけばいいのにと、呆れるように書いている。また別の読み物では、ウェイトレスをしながら歌手を目指している若い女性について語り、普段の声が小さくてプロ意識がないと評していたりする。

 

誰もが器用に生きられたら苦労はないし、いつも合理的に行動できるとも限らない。そんなことはもう、大前提じゃないのか。『うらおもて人生録』では、劣等生に寄り添うようなことを言っていたけど、実際の態度が全然違う。なんか書き方が嫌らしい。若い人を槍玉にあげて、いかにもオッサンが好きそうな説教くさい話をかましてる。もちろん、言葉の全てに筋を通すことは出来ないし、何かのはずみで口が滑ってしまうこともあるだろう。けど、ここはブレるところか?と思った。

 

きっと、どこかに拠り所が欲しいと思っていた。だから、期待して色々と読んでみた。だけど、ダメだった。この人に、これ以上の魅力を感じないのが正直なところ。こういう時は直感が正しいから、さっさと突き放す。

 

「大道廃れて仁義あり」と言う。人の道が廃れてるからこそ仁義を唱えなければいけないのであり、正しい道の行われてる世の中なら仁義なんてものは必要ない。確かにそうだ。道徳家みたいな人の言ってることに、一理あるのはわかる。いいことを言っているなと思うこともある。けれど、無いに越したことのない言葉が出てくるのには、やはり裏があると見るべきだ。

 

その正論が本当に人格にまで消化されていれば、言葉すらその人から消えてゆく。実態は違う。消化出来ないから、言葉ばかりがブクブクと肥大化していってる。無ければないで済むものを、なぜわざわざ形でもとうとする。口のうまいことをいい、自分も他人も惑わし、次第に言葉と現実の区別がつかなくなり、増長が止められなくなる。言葉を使うのではなく、言葉に使われるようになる。知識、言葉、論理。危ない罠が多すぎる。

人を知る

この前の飲み会で、色んな人と話しをした。初めて話しをする人も沢山いた。話してみて、この人はこんな人だったのかと新しく知ることもあり、色々と思うことがあった。人を知るということについて、考えていることをまとめたいと思った。

 

私自身が良くも悪くも異色の人間なので、自分のことを知られるうちに、よく「意外」という言葉を使われたりする。この「意外」という言葉を人に対して使うのが、とにかく嫌い。こういう感想は聞きたくない。人との関わりの中で、絶対に使うまいとしている言葉だ。

 

凝り固まった頭でものを見るから、意外に感じる。世の中に意外なことなんてありはしない。現実はずっと前からただそこにあって、その人の無知や偏見で見えなくなっていただけ。たかだか人ひとりの一生、人ひとりの知なんて限界がある。世界の広さや深さを前にして出来ることは、虚心に自分の認識を磨き、ありのままを受け入れていくことだけだ。

 

特に、人間に関することはわからないことばかり。これは、色川武大の言葉の中にもあって、大いに共感したところ。賭け事にはセオリーがある。仕事にもセオリーがある。だが、人間を相手にするときには、セオリーは通用しない。例外ばかりだから、無理に当てはめようとすると必ず失敗する。勝負の名人は、そう戒めている。

 

小才のきく奴ほど、方程式で人間を分析しようとする。しゃらくさい。こういうのが、まったく的外れなことを自信満々に吹かしてるの、何度も見たよ。IQ型の才子は人間に関してびっくりするぐらい無知で、自分自身の浅さと同じレベルでしか他人を測ることが出来ない。そのくせ、万能感に溺れている。方程式が外れると、嘘をついたり、言い訳をしたり、ヒステリックに怒り始めたりする。結局のところ、人を舐めているんだよな。

 

人を理解するときには、常に足し算でいきたい。

 

出来る限り個を見る。属性や先入観にはとらわれたくない。もし、その人の知らない一面を見たとしても、驚く必要はない。そういう人だったのだと、ただ認識を変えるだけで良い。後からバレる外ヅラの良さは、むしろマイナスになる。良いことも悪いことも全て足して、その人を理解していく。

 

その上で、これ以上なにもないと分かれば、その人から離れてゆく。欠点は誰にでもあるけれど、それを上回る魅力や期待がなければそれまでだ。怒りも失望もなく、二度とその人と関わらないという選択をするだけ。それが縁。変わることの出来る人は貴重だが、現実にはそんな人ほとんどいないだろうし。