運は天にあり

内省の記録

悪童日記』という物語を読んでから、登場人物たちの真似をして自分も感覚を殺そうと思い立ち、最近、手のひらを火で炙ったりしている。

 

物語を読んだのは半年ぐらい前のこと。戦争の最中に育つ幼い双子が、虐待に耐えるため、互いを殴ったりナイフを突き刺したりして、痛みを感じなくする訓練をするという話があり、大いに感じ入るところがあった。それで、その時は冬の寒い時期だったから、寒いという感覚を殺そうと、冷水を頭から被る習慣をつけ始めた。最初はかなり恐怖があったのだけれど、慣れると平気になり、冷水を浴びないと逆に落ち着かないぐらいになった。しかし、この頃はすっかり気温も暖かくなり、もはやただの水浴びになってしまったので、他のことをやろうと思った。それで、思いついたのが炎だ。

 

スーパーで線香を買って来た。「青雲」の徳用型だ。香炉も灰もないので、コップに重曹を敷き詰め、線香を立てる。火をつけて、すぐには燻らせず、そのまま炎を燃え上がらせておく。その炎の真上から、10センチぐらい間をとり、覆いかぶせるように手のひらを翳す。炎の位置はだんだん下がってくるので、それよりちょっと速いぐらいのペースで手のひらを下げ、皮膚と炎をジワジワと近づけてゆく。危ない、と思った所でちょうど炎が消えるような頃合いを測っているのだけれど、炎がしぶとく消えないこともあり、そういう時は手が近づきすぎて、熱さで絶叫しそうになる。手のひらには、微かに香の匂いが染み込む。

 

炎で色々遊んでいるうち、こんなことが出来るのか!とビックリしたのが、指で炎を消すこと。線香につけた炎を、指でつまむと消えるのだ。なぜだか分からないけれど、熱くない。芯を摘むと指が焼けるので、芯には触れないようそっと摘むようにすると、何事もない。炎に触れる恐怖を克服さえすれば、訓練も何も必要なく、火は素手で消せるのである。不思議だなあと思った。

言葉からの自由

先日、高校の部活の同窓会を断ったことについて、後から色々と考えた。断ったのは、会うのが気まずいからという単純な理由だったのだけれど、思い返せば、誘いを受けたはじめには色々と別の言葉が浮かんでいた。

 

まず、過去の人間関係に目を向けるなんて、醜いことだと思った。聞けば、部のメンバーで卒業後も定期的にあっているらしいけど、下らないことしてるなと思った。部員の仲が良いといったって、個々人で見たら好き嫌いはあるだろうに、何故わざわざそんなことするのだろう。組織のために個を殺すみたいな、保守的で閉鎖的な感じがするし、同じメンバーでつるんでばかりじゃ、成長なんかないと思う。

 

誘い方も気に入らなかった。せっかくだからとか、この先何かあるかも知れないからとか、まるで行かなかったら損するかのような誘い方だった。昔と違って、話の進め方もすっかり営業っぽくなってしまっていた。会いたいという感情でなく、何となくおためごかしな感じが嫌だった。

 

当初はこんな批判めいたことを考えていたけれど、一晩たったら虚しくなった。こんな言葉は、全て嘘だ。本音は、自分の方に地雷が多すぎるので、会って話なんかしたくないという、それだけのはなし。末長い人間関係があるのは恵まれたことだと思うし、苦楽を共にしたメンバー同士なら、たまに顔を合わせるぐらい普通のことだろう。誘い方が気に入らないなんて、言いがかりもいい所だし。取り立てて批判することなんて何もないのだ。

 

批判して、後から後悔や罪の意識に苛まれていると、ますます自分がやるせなくなるばかり。言葉は、煩わしいな。無意識に本音を覆う言葉の数々は、自分を守る盾にもなってくれるのだけれど、下手をすると人を傷つける武器にもなってしまう。言葉に乗っ取られ、操られてしまうのは、とても危ない。

 

最近、自由ということを良く考える。精神の自由、肉体の自由、色々な自由があるけれど、言葉からの自由というのが今一番大事な気がしている。言い訳を一言もしない人がいたとしたら、素晴らしいことだろう。上手くいかないことばかりの時、救いになってくれる言葉だってあるし、自分を保つためには、どうしても必要だった言葉というのもあるけれど、必要な時が過ぎると、それらはやがて呪いとなり、自分を縛り、嘘を吐かせるようになってしまう気がする。何れは、本音に立ち還らなければならない時が来るのだと思う。

 

同窓会の誘い

高校時代、同じ部活動をやっていた同級生から連絡が来た。同じ部のメンバーで同窓会みたいなことをやるので、来てみないかという誘いだった。

 

唐突だったので、驚いた。もう10年近く連絡をとっていないので、連絡を受けた時、まず第一に宗教かマルチを疑った。同窓会と聞いて一安心したが、今度は別の意味で戸惑った。

 

私は、例によって人間関係を苦にしてその部を辞めている。はっきり言って、良い思い出はない。何年も連絡をとっていないと言ったけれど、私以外のメンバー同士のつながりは深く、卒業後も定期的にあっていたりしたらしい。なので、同窓会といっても、他のメンバーにとっては定例会のようなもので、今回はどういう風の吹きまわしか、私にも連絡が回って来たということだった。

 

なぜ今さら、と思った。会いたくないという気持ちが先立った。嫌な記憶に苦しめられている間は、歩み寄りが前進のきっかけになったり、救いになったりすることもあるかも知れない。しかし、今では高校時代のことなど、ほとんど意識することも無くなっている。わざわざ、思い出したくないことなのだ。

 

部員の一人が亡くなったという話も聞いた。しかし、何年間もつながりがなかった訳だし、もとより人間関係が原因で辞めたのだから、聞いて素直に悲しむことは出来なかった。むしろ、知ったこっちゃないというのが本音かもしれない。正直に言って、そいつの人生など私にとってどうでも良いことだし、もっと正直に言えば、死……やめようか。こんな感情しか出てこないのだから、今さら会える訳がない。

 

強い者や多数派にとってみれば、過去を消費するのは楽しいことだろう。弱い者や少数派にとっては、必ずしもそうではない。消費するより前に、呑み込まなければならない感情がある。良い思い出はないけれど、決して悪い人たちではないのは分かっているし、むしろ自分の方が悪いのだということも分かっている。今会ったら、以前とは違った接し方も出来るのだろう。ただ、今はとても、全てを呑み込んで忘れられる心境には、届いていなかった。

 

こういうつながりは、とても貴重だと思うし、楽しいだろうなと思う。悔しいけれど、同窓会の誘いを受けたとき、本音のもっと奥の方では、懐かしい気持ちや嬉しい気持ちがあった。しかし、それをきっかけに昔のことを思い出しているうち、余計なことも沢山思い出し、苦しんだ。過去の自分、今の自分、色々考えた。そうしていると、あっという間に食欲がなくなり、仕事の集中力もなくなり、生活がままならなくなってしまった。ずっと封印していた、タブーだったのだ。会いたい気持ちがあったとしても、もう心や身体がついて行かなくなっている。それぐらい、持つ者と持たざる者との断絶は深い。

 

人間関係は全て捨てて来たので、何も残っていない。改めて、貧しい人生だと思う。

 

社会貢献とは

職場の人から、採用の募集の文章を書いたから、外に出す前に感想を聞かせて欲しいと言われた。読んでみると、そこには、社会貢献が出来ることがこの仕事のやりがいだということが強調して書いてあった。

 

社会貢献……?

そんなものあったかなと疑問に思って、意識高いですねとだけ答えておいた。すると、それが意に沿わない答えだったせいか、いや、これは大事なことなんだ、ウチは他の所みたいに金儲けをしたいんじゃない、社会貢献が大事なんだという話をされた。

 

そのことがあってから、社会貢献って何なのだろうと考えた。良いことだとは思うし、自分でもそういうことが出来たらいいなと思うから、色々と挑戦してみたことはある。どうしようもない強い罪の意識に駆り立てられていた時、何とか世の中の役に立つようなことが出来ないかと考え、地元の議員さんの勉強会に参加してみたり、参院選で無所属の候補者のポスター貼りを手伝ってみたりした。けれども、自分の中に軸がないせいでどれも空回り気味で、活動の先に満足な手応えを得ることは出来なかった。形に囚われすぎてしまっていて、己の本分がどこにあるのか、見えていなかったのだと思う。今でも、社会との関わり方はいまいち分からない。

 

しかし、形の見えない漠然とした社会貢献という言葉には、もの凄い胡散臭さがある。どういうことが貢献になるのか、自分でも分からないのだけれど、これはちょっと違うなというのは何となく分かる。あまりにも綺麗で、あまりにも便利な言葉だから、嘘も多いような気がするのだ。金儲けじゃない、社会貢献なんだという言葉は、無性に引っかかった。

 

お金が欲しいのだって、人間の自然な感情だ。誰だって人並みの生活がしたいし、贅沢もしたい。金儲けを否定したら、資本主義社会を全否定するようなものだし、そういう人たちの沢山いるこの資本主義社会を否定したら、一体どこに貢献すべき社会があると言うのだろう。

 

話を終えた後にどうしても違和感が消えず、なぜこの人の言葉がこんなに心に響かないのだろうかと思ったら、自分から見て、偽君子、スノッブという奴だからだった。人間の醜い面を嫌悪し、視界から抹殺しようとしているように見えた。この人の掲げる正義は、恐ろしいと思う。

 

以前までは、善く生きることをはじめから放棄している人よりかは、偽善の方がまだマシなのではないかと思っていた。しかし最近は、マシだと思うこと自体、まんまと偽善者の思う壺だということに気付いたので、どちらも変わらないと思うようになった。

 

言葉は信用出来ないと、つくづく思う。信用出来るかどうかは、その人の言動に触れて、直観で決める。

 

働くことの虚しさ

 

転職して半年ぐらいが経ち、生活も安定して来た。この頃は、労働とは虚しいものだとつくづく思うようになった。

 

一日の労働を終え、充実感みたいなものが込み上げてくる度に、罪悪感を感じる。自分の性格が、どんどん悪くなってきている気がする。交感神経の働きに騙されて、勘違いした自信をつけてしまいそうなのが、とても怖い。

 

働けるということは、大変恵まれていることだ。身体がちゃんと動いて、頭をしっかり働かせられるというのは、当たり前ではない、有難いことなのだ。自分は今、たまたまこうして働くことが出来ているというに過ぎない。努力出来るということ自体恵まれているのに、それにことさら充実感を感じたり、偉いと思ったりするのは、罪深いことだと思う。

 

数年前、抑鬱状態がひどかった時には、とても今のようには行かなかった。8時間机に向かって勉強して、教科書が1ページしか進まなかったこともあった。しかも、その1ページの内容だってまるで頭に入っていない。何とかしなきゃという焦りは募るのだけれど、どうにもならない。そういう状態の時は、他人との関わりもままならなくて、何か言葉を発しようとしても、トンチンカンな言葉しか出てこず、とにかく怒りや嘲笑を浴びるばかりだった。

 

労働の大変さなんて、鬱やいじめ、人権がないことのストレスとは比較にならない。功名心のある時の労働なんて、ほとんど自己満足と変わらないし。本人がやりたくてやってるのだから、偉くもなんともなくて、それを他人に誇ることなんて以ての外だと思う。自分が今、本当の辛さから少し離れた所にいて、ふつうの社会人然として働いているのが気持ち悪くて仕方がない。でも、こうしている方が、人から褒められるんだよな。

 

過ぎていく時間の中で ピーターパンにもなれずに

ひとりぼっちが怖いから ハンパに成長してきた

何だかとても苦しいよ ひとりぼっちで構わない

キリストを殺したものは そんな僕の罪のせいだ

ーーTHE BLUE HEARTS「チェインギャング」

 

ただ働くだけなのが、本当に虚しくなってきた。何か、理想を持っていないとダメになってしまう。理想は空虚に見えることもあるけど、理想がないことの方がもっと空虚だ。

 

年を重ねるということが、放っておくと、言い訳がうまくなったり、狡猾になっていくばかりになりそうだ。だから、個人史を殺さずに、どうやって年を重ねていけるだろうか、考えなきゃいけないと思う。

 

ミホノブルボンの死

少し前の話だけれど、ミホノブルボンが死んだというニュースがあった。享年28歳、人間にすると100歳近くだから、大往生だ。

 

大好きな馬だった。平成はじめの頃の馬だから、もちろん現役時代は知らないのだけれど、とにかく異色の馬だから興味深くて、ブルボンを育てた戸山為夫調教師の本を読んだりしていた。そして、この馬のキャラクターに強く惹かれた。

 

当時つけられたキャッチコピーが「スパルタの風」。血統は良くなかったのだけれど、スパルタトレーニングによって強くなったから、こう呼ばれた。人工的に作られた馬なので、「サイボーグ」などとも言われていた。小さい頃から古馬と同じレベルの調教をこなしていたというのだから、それはもうブルボンに課された調教は過酷なもので、普通の馬の2倍3倍の量は当たり前だったらしい。本来はスプリンターなのに、3000mの菊花賞まで走っていたというのだから、今の競馬を考えるとすごいことだ。

 

スパルタ調教には賛否両論あって、ミホノブルボンの陰には過酷な調教に耐えられず潰れていってしまった馬が沢山いた。そして、ブルボン自身もボロボロだったのか、菊花賞を終えた後にはもう走ることが出来ず、四歳で引退に追い込まれてしまった。

 

それでも、「鍛えて名馬を作る」という思想は魅力的だった。血統が全てと言われるサラブレッドの世界だからこそ、かつてこんな馬がいたんだ、ということが希望に思えた。人工的に強くなった名馬だから、ブルボンは種牡馬になっても結果を出せず、血統を後世に残すことは出来なかった。だが、ブルボン一代においては、日本ダービー制覇という全ての競争馬の頂点に立つ偉業を成し遂げる事が出来た。

 

生き物は自身の血統から逃れることが出来ないし、生まれ持った才能の問題はどこへ行ってもつきまとう。「生まれ変わったらディープインパクトの子供になりたい」と言いながら自殺していった中学生の話は、あまりにも強烈で忘れられない。実際、ディープの子供は強くて、数字を見ると他の種牡馬との差は歴然としている。強いディープには強い牝馬が宛がわれるのだから、その差はますます広がってゆくばかり。血統は、残酷だ。

 

血にまつわる呪いを、個人の力、意志の力で乗り超えられるとブルボンは教えてくれた。乗り超えられないことの方が圧倒的に多いけれども、一縷の望みを示してくれた。現実問題、良血馬は確かに強いし、勝負ではそちらに賭けざるを得ない、というのはある。しかし、何億円もかけて良血馬を買って、一流の調教師・一流の騎手をつけて、レースではラビットをつけて勝ってと、そればかりが現実の姿だったら、あまりにも現実が空虚すぎる。現実を認識することと、理想を信じることとは別の話。涙を流しながら調教に耐え、「名馬は作れる」という、一つの理想を実現してくれたミホノブルボンのことは、これからも語り継いでいきたい。

 

ルイス・サッカー『穴』

 

穴 HOLES (ユースセレクション)

穴 HOLES (ユースセレクション)

 

 

グリーン・レイク・キャンプという砂漠の矯正施設に無実の罪で放り込まれた中学生・スタンリー=イェルナッツが、過酷な労働や「ゼロ」と呼ばれる少年との出会いを通して、逞しく成長していく物語です。

 

イジメられっ子の子供が冤罪で砂漠まで送還され、悪人たちに虐待・酷使されるという、設定だけ見るとひどいものですが、のんびりした主人公・スタンリーのおかげで雰囲気は明るく、笑いもユーモアもあります。砂漠での生活は悪いことばかりでもなく、一面に冒険の楽しさもあって、焼け付く暑気とタマネギの臭いとが、気持ち良く肌に染み込んでくるような作品でした。

 

見所は、何と言ってもスタンリーとゼロの逃避行の場面です。この場面は、物語の山場でもあるのですが、同時にとても独特で楽しい所でもありました。キャンプを脱走したスタンリーとゼロの二人は、飢え死に寸前のところを謎の野生のタマネギ畑に救われて、それから生のタマネギをバリボリと貪って元気を取り戻していきます。何もない山の中では食べるものと言えばタマネギだけで、再びキャンプに戻る時のお供ももちろんタマネギだし、斜面からごろごろとこぼれ落ちて行った実も、丁寧に一つ一つ拾って食べます。これだけタマネギづくしだと、読んでいる方も条件反射で嫌でも味覚や嗅覚がピリピリとして来て、無性にタマネギが恋しくなって来ます。本書を手に取ったのは一月も終わりの寒い時期で、砂漠の暑さには遠かったけれど、タマネギへの思いはやまず、スーパーでタマネギを買って来て、生でかじってみて、生タマネギの旨さに思いがけず覚醒したりすることが出来ました。

 

グリーン・レイク・キャンプでの生活は、刺激的です。炎天下での過酷な肉体労働に従事したり、貪るように生のタマネギを食らったり、数百年前の桃のジュースで命を繋いだりと、およそ都会の生活とは正反対な、汗臭く野性味のある世界が広がっています。こういう、五感をふんだんに活用するような物語からは、迫力あるエネルギーを感じます。過酷だけれども陰気な苦しみはなく、目の前の自然との戦いに集中できるというのは、神経症的な辛さより少なくとも前向きだし、ある意味で健全に見えました。それは、不本意に収容された主人公のスタンリーにとっても同じことで、ある時から、嫌な連中のいる中学校より今の生活の方が実は結構充実していることに気付きます。閉塞感を感じ、自分の今いる場所ではないどこかを探している人にとって、例えいくらか泥臭くあっても、労働の充実感を感じられる環境が良いというのは、本当にその通りだと思います。

 

スタンリーとゼロとの友情は、結果的には良いものに育って行きましたが、気にかかることも多かったです。なぜなら、ゼロの方の負担が大きすぎるからです。ゼロの存在は、スタンリーにとっては大変に都合の良いものです。自分より不幸で、馬鹿にされていて、自分がものを教える立場にあり、辛い労働の肩代わりまでやってくれる。ゼロからすると、最初に文字を教えて欲しいと頼んだ時、すげなく断ったスタンリーは、そこそこ感じの悪い奴に映っていたのではないかと思います。X線の頼みだったら断らないくせに、という思いが頭を過っていたかもしれません。しかし、空っぽと言われ何度も何度も悔しい思いをしてきたゼロは、どうしても読み書きができるようになりたいし、スタンリーには冤罪を被せてしまった負い目があるから、そう無理は言えません。勢い、献身的になってしまいます。

 

頭の悪さを笑われることに敏感なゼロの、スタンリーの会話でも折々に見せる険しい顔つきは何とも言えませんでした。優れた資質を持っているにも関わらず、教育を受けられなかったばかりに浴びせられる嘲笑の数々に、この子が今までどれだけ傷つけられて来たことか。勿論、スタンリーが意識的に馬鹿にしにきているのではないことは分かっているでしょう。しかし、意識的ではないからこその、ナチュラルに見下されている感覚は、相手が仲良くなれそう子だけに、一層堪らなかったと思います。

 

ゼロに穴掘りをさせるスタンリーに対して、周りの子供が「白人が黒人を使役している」と揶揄して来ましたが、これはかなり鋭い指摘に見えました。教える体力を残しておく必要があるからとスタンリーはゼロに穴掘りをさせますが、無論教わる方だって体力がいるし、穴掘りが得意とは言え、スタンリーよりせいぜい数ヶ月早くこの地に来ただけのゼロにとって、二人分の穴を掘るのは決して楽ではないはずです。それでも、暴発寸前にまで追い詰められていたゼロに選択肢はないから、そうせざるを得ませんでした。施設の子供たちは、悪いことをしつつも意外とすぐに謝ったり埋め合わせをする潔さは持っていたので、頭の良さを使って主従関係をシステム化しているスタンリーのことは、本能的にさぞかし憎たらしく見えたことでしょう。あのままゼロが行方不明になってしまっていたら、スタンリーの後悔も計り知れないものになっていたと思います。

 

スタンリーは、ゼロと出会い、ゼロを救うための困難を乗り越えることで、身心ともに大きく成長してゆきました。ゼロも救われたし、それまで散々な目にあって来たスタンリーも救われたので、結末は幸せでした。しかし、スタンリー目線での救いは、こういう形でしか現れ得なかったのかなと、引っかかる気持ちもあります。「可哀想な黒人の孤児を助けてあげる」という体験は、自分を助けるためではなく、苦しんでいる他人を助けるために頑張るという面を見ると、自己犠牲的で崇高なようにも見えます。しかし、本来自分自身が救われる必要のある人が、他の人の救済に関心をもつという事には、どこか危うい感じを覚えるのです。『ライ麦畑でつかまえて』で、ボロボロに打ちのめされた主人公が、崖から落ちそうな小さい子供を助けるライ麦畑の番人になりたいと願う場面があったのを思い出します。人は、苦しみを抱えきれなくなってくると、自分よりも他人を救うことに関心が向かうことがあるようです。しかし、そういう時に、その人が本当に他人を救いたいと思っているのかどうかは疑問で、抑圧された支配欲が歪んで現れて、善の衣を纏っているだけのような、そんな危うさも感じるのです。自分自身の心の動きにも思い当たることがあるし、かつて出会った、教師でもないのに嫌に教育に関心をもっていた或る人の事を思い出すと、何か胡散臭かったなと思うのです。ゼロが白人だったとしたら、ゼロが読み書きが出来ていたとしたら、果たしてこの物語は成り立っていたのだろうか。

 

しかし、苦しみや悲しみを抱えた人が、弱い者を虐げようとする場合もあるし、多分その方が多いと思うので、他人の救済を願うことや他人を助けることで自分も救われるという体験は、少なくとも良い面があることは確かです。心の動きの正体はあまりにも複雑すぎて知ることは出来ませんが、スタンリーとゼロ、何はともあれ目の前にいる二人の苦しみが無事取り除かれたので、とても良いハッピーエンドだったと思います。