運は天にあり

内省の記録

ミホノブルボンの死

少し前の話だけれど、ミホノブルボンが死んだというニュースがあった。享年28歳、人間にすると100歳近くだから、大往生だ。

 

大好きな馬だった。平成はじめの頃の馬だから、もちろん現役時代は知らないのだけれど、とにかく異色の馬だから興味深くて、ブルボンを育てた戸山為夫調教師の本を読んだりしていた。そして、この馬のキャラクターに強く惹かれた。

 

当時つけられたキャッチコピーが「スパルタの風」。血統は良くなかったのだけれど、スパルタトレーニングによって強くなったから、こう呼ばれた。人工的に作られた馬なので、「サイボーグ」などとも言われていた。小さい頃から古馬と同じレベルの調教をこなしていたというのだから、それはもうブルボンに課された調教は過酷なもので、普通の馬の2倍3倍の量は当たり前だったらしい。本来はスプリンターなのに、3000mの菊花賞まで走っていたというのだから、今の競馬を考えるとすごいことだ。

 

スパルタ調教には賛否両論あって、ミホノブルボンの陰には過酷な調教に耐えられず潰れていってしまった馬が沢山いた。そして、ブルボン自身もボロボロだったのか、菊花賞を終えた後にはもう走ることが出来ず、四歳で引退に追い込まれてしまった。

 

それでも、「鍛えて名馬を作る」という思想は魅力的だった。血統が全てと言われるサラブレッドの世界だからこそ、かつてこんな馬がいたんだ、ということが希望に思えた。人工的に強くなった名馬だから、ブルボンは種牡馬になっても結果を出せず、血統を後世に残すことは出来なかった。だが、ブルボン一代においては、日本ダービー制覇という全ての競争馬の頂点に立つ偉業を成し遂げる事が出来た。

 

生き物は自身の血統から逃れることが出来ないし、生まれ持った才能の問題はどこへ行ってもつきまとう。「生まれ変わったらディープインパクトの子供になりたい」と言いながら自殺していった中学生の話は、あまりにも強烈で忘れられない。実際、ディープの子供は強くて、数字を見ると他の種牡馬との差は歴然としている。強いディープには強い牝馬が宛がわれるのだから、その差はますます広がってゆくばかり。血統は、残酷だ。

 

血にまつわる呪いを、個人の力、意志の力で乗り超えられるとブルボンは教えてくれた。乗り超えられないことの方が圧倒的に多いけれども、一縷の望みを示してくれた。現実問題、良血馬は確かに強いし、勝負ではそちらに賭けざるを得ない、というのはある。しかし、何億円もかけて良血馬を買って、一流の調教師・一流の騎手をつけて、レースではラビットをつけて勝ってと、そればかりが現実の姿だったら、あまりにも現実が空虚すぎる。現実を認識することと、理想を信じることとは別の話。涙を流しながら調教に耐え、「名馬は作れる」という、一つの理想を実現してくれたミホノブルボンのことは、これからも語り継いでいきたい。

 

栄光と転落は紙一重

2/25(土) 総武ステークス・アーリントンカップ

中山のメインレースはダートのオープン戦・総武ステークス。

 

ダートは重賞の数が少ない分、単なるオープン戦であってもレベルの高い馬が揃うのは珍しくないのだが、このレースにはピオネロ・モンドクラッセセンチュリオン・バスタータイプと、いつにも増して強力なメンバーが集った。

 

このレースでは、異常に勘が冴えた。

これしかない!という買い方が見えた。

かなり強気に買ったら、狙い通り正確に的中。

何と、12万円の払い戻しがあった。

しかも、阪神のメインレース・アーリントンカップでも、本命ペルシアンナイトが圧勝した。

払い戻し金のあまりの額面の大きさに、頭がクラクラした。

 

 

2/26(日) 中山記念阪急杯

武豊の弟・武幸四郎の引退レースの日だった。こういう、何か特別なことのある日は、決まって変わったことが起こるので警戒が必要なのだが、この日は前日の大勝利ですっかり呆けてしまっていた。

 

中山のメインレースは、準GIとも言うべきスーパーGII・中山記念で、昨年度ドゥラメンテと競り合ったアンビシャスとリアルスティールが人気を二分、これに対抗するのが、秋華賞馬のヴィヴロスと中山巧者のツクバアズマオーという構図だった。人気馬が強く、手堅く決まるレース……のはずだった。

 

しかし、このレースの鍵を握ったのは、大物食いで悪名高いネオリアリズムロゴタイプだった。モーリスを討ち取ったダークホース2頭がここでも「らしさ」を発揮し、開幕初週の綺麗な馬場をするすると走り抜け、人気馬たちを尻目にネオリアリズムが1着、ロゴタイプが3着を奪っていった。

 

さらに、サクラアンプルールという謎の上がり馬がまさかの大激走で2着につけたことから、何とリアルスティールとアンビシャス両方ともが圏外に飛ぶという異常事態になってしまった。現地の中山競馬場は、さぞかし阿鼻叫喚の地獄絵図だっただろう。

 

阪神のメインレース・阪急杯でも、ひとり勝ちかと思われた単勝1倍台のシュウジがまさかの大敗。シュウジよ、お前もか……。特に理由らしい理由もない、謎の大敗であった。幸四郎が勝ったのならまだ納得もゆくが、幸四郎も大敗した、奇妙なレースだった。

 

中山の本命をリアルスティール阪神の本命をシュウジとしていたので、この日は大負けだった。

 

ダメだ。安田記念ジャパンカップも、リアルスティールは何度買っても勝てない。

 

手堅いレースと踏んで結構強気に賭けていたものだから、前日の勝ちは全て溶けてしまった。かろうじて前日の勝ち以上には負けなかったが、この週末は、プラマイゼロで終わっていった。

 

 

……夢を見たような週末だったが、不思議と負けた後悔はなかった。

むしろ、これこそが競馬なんだと思った。

十数万の勝ちをふいにしてしまったのは、どうでも良いさ。どうせ泡銭だから、身につかない。

 

けれど、もっと貴重な体験をしたような気がする。或る日突然、大勝ちしたと思ったら、翌日には大負けして全てを失う。ここまで有為転変の真理をストレートに突き付けられることは、ふつう無いと思う。安定などどこにもなくて、栄光と悲惨は紙一重の所にあることを、競馬は嫌という程わからせてくれる。

 

世界のGIで優勝したリアルスティールが、ついこの間条件戦を突破したばかりのサクラアンプルールに敗れてしまう。勝つ馬、負ける馬、それぞれいるけれど、勝負はその時々の水もので、例えその場で勝敗がついたとしても、見た目に見えているほど、力の差は実はなかったりする。どんなに強そうな馬でも負ける時は負けるし、成績不振の馬にもチャンスはある。

 

こういうレースを見ていると、人間には測り知ることの出来ない、もっと大きな運命の存在を感じる。

  

そうして、また少し、成功にも失敗にも寛容になれるようになった気がするのだった。

勝つのも楽しいけれど、しみじみと競馬の良さをかみしめられるのは、実はこういう時かも知れない。

ルイス・サッカー『穴』

 

穴 HOLES (ユースセレクション)

穴 HOLES (ユースセレクション)

 

 

グリーン・レイク・キャンプという砂漠の矯正施設に無実の罪で放り込まれた中学生・スタンリー=イェルナッツが、過酷な労働や「ゼロ」と呼ばれる少年との出会いを通して、逞しく成長していく物語です。

 

イジメられっ子の子供が冤罪で砂漠まで送還され、悪人たちに虐待・酷使されるという、設定だけ見るとひどいものですが、のんびりした主人公・スタンリーのおかげで雰囲気は明るく、笑いもユーモアもあります。砂漠での生活は悪いことばかりでもなく、一面に冒険の楽しさもあって、焼け付く暑気とタマネギの臭いとが、気持ち良く肌に染み込んでくるような作品でした。

 

見所は、何と言ってもスタンリーとゼロの逃避行の場面です。この場面は、物語の山場でもあるのですが、同時にとても独特で楽しい所でもありました。キャンプを脱走したスタンリーとゼロの二人は、飢え死に寸前のところを謎の野生のタマネギ畑に救われて、それから生のタマネギをバリボリと貪って元気を取り戻していきます。何もない山の中では食べるものと言えばタマネギだけで、再びキャンプに戻る時のお供ももちろんタマネギだし、斜面からごろごろとこぼれ落ちて行った実も、丁寧に一つ一つ拾って食べます。これだけタマネギづくしだと、読んでいる方も条件反射で嫌でも味覚や嗅覚がピリピリとして来て、無性にタマネギが恋しくなって来ます。本書を手に取ったのは一月も終わりの寒い時期で、砂漠の暑さには遠かったけれど、タマネギへの思いはやまず、スーパーでタマネギを買って来て、生でかじってみて、生タマネギの旨さに思いがけず覚醒したりすることが出来ました。

 

グリーン・レイク・キャンプでの生活は、刺激的です。炎天下での過酷な肉体労働に従事したり、貪るように生のタマネギを食らったり、数百年前の桃のジュースで命を繋いだりと、およそ都会の生活とは正反対な、汗臭く野性味のある世界が広がっています。こういう、五感をふんだんに活用するような物語からは、迫力あるエネルギーを感じます。過酷だけれども陰気な苦しみはなく、目の前の自然との戦いに集中できるというのは、神経症的な辛さより少なくとも前向きだし、ある意味で健全に見えました。それは、不本意に収容された主人公のスタンリーにとっても同じことで、ある時から、嫌な連中のいる中学校より今の生活の方が実は結構充実していることに気付きます。閉塞感を感じ、自分の今いる場所ではないどこかを探している人にとって、例えいくらか泥臭くあっても、労働の充実感を感じられる環境が良いというのは、本当にその通りだと思います。

 

スタンリーとゼロとの友情は、結果的には良いものに育って行きましたが、気にかかることも多かったです。なぜなら、ゼロの方の負担が大きすぎるからです。ゼロの存在は、スタンリーにとっては大変に都合の良いものです。自分より不幸で、馬鹿にされていて、自分がものを教える立場にあり、辛い労働の肩代わりまでやってくれる。ゼロからすると、最初に文字を教えて欲しいと頼んだ時、すげなく断ったスタンリーは、そこそこ感じの悪い奴に映っていたのではないかと思います。X線の頼みだったら断らないくせに、という思いが頭を過っていたかもしれません。しかし、空っぽと言われ何度も何度も悔しい思いをしてきたゼロは、どうしても読み書きができるようになりたいし、スタンリーには冤罪を被せてしまった負い目があるから、そう無理は言えません。勢い、献身的になってしまいます。

 

頭の悪さを笑われることに敏感なゼロの、スタンリーの会話でも折々に見せる険しい顔つきは何とも言えませんでした。優れた資質を持っているにも関わらず、教育を受けられなかったばかりに浴びせられる嘲笑の数々に、この子が今までどれだけ傷つけられて来たことか。勿論、スタンリーが意識的に馬鹿にしにきているのではないことは分かっているでしょう。しかし、意識的ではないからこその、ナチュラルに見下されている感覚は、相手が仲良くなれそう子だけに、一層堪らなかったと思います。

 

ゼロに穴掘りをさせるスタンリーに対して、周りの子供が「白人が黒人を使役している」と揶揄して来ましたが、これはかなり鋭い指摘に見えました。教える体力を残しておく必要があるからとスタンリーはゼロに穴掘りをさせますが、無論教わる方だって体力がいるし、穴掘りが得意とは言え、スタンリーよりせいぜい数ヶ月早くこの地に来ただけのゼロにとって、二人分の穴を掘るのは決して楽ではないはずです。それでも、暴発寸前にまで追い詰められていたゼロに選択肢はないから、そうせざるを得ませんでした。施設の子供たちは、悪いことをしつつも意外とすぐに謝ったり埋め合わせをする潔さは持っていたので、頭の良さを使って主従関係をシステム化しているスタンリーのことは、本能的にさぞかし憎たらしく見えたことでしょう。あのままゼロが行方不明になってしまっていたら、スタンリーの後悔も計り知れないものになっていたと思います。

 

スタンリーは、ゼロと出会い、ゼロを救うための困難を乗り越えることで、身心ともに大きく成長してゆきました。ゼロも救われたし、それまで散々な目にあって来たスタンリーも救われたので、結末は幸せでした。しかし、スタンリー目線での救いは、こういう形でしか現れ得なかったのかなと、引っかかる気持ちもあります。「可哀想な黒人の孤児を助けてあげる」という体験は、自分を助けるためではなく、苦しんでいる他人を助けるために頑張るという面を見ると、自己犠牲的で崇高なようにも見えます。しかし、本来自分自身が救われる必要のある人が、他の人の救済に関心をもつという事には、どこか危うい感じを覚えるのです。『ライ麦畑でつかまえて』で、ボロボロに打ちのめされた主人公が、崖から落ちそうな小さい子供を助けるライ麦畑の番人になりたいと願う場面があったのを思い出します。人は、苦しみを抱えきれなくなってくると、自分よりも他人を救うことに関心が向かうことがあるようです。しかし、そういう時に、その人が本当に他人を救いたいと思っているのかどうかは疑問で、抑圧された支配欲が歪んで現れて、善の衣を纏っているだけのような、そんな危うさも感じるのです。自分自身の心の動きにも思い当たることがあるし、かつて出会った、教師でもないのに嫌に教育に関心をもっていた或る人の事を思い出すと、何か胡散臭かったなと思うのです。ゼロが白人だったとしたら、ゼロが読み書きが出来ていたとしたら、果たしてこの物語は成り立っていたのだろうか。

 

しかし、苦しみや悲しみを抱えた人が、弱い者を虐げようとする場合もあるし、多分その方が多いと思うので、他人の救済を願うことや他人を助けることで自分も救われるという体験は、少なくとも良い面があることは確かです。心の動きの正体はあまりにも複雑すぎて知ることは出来ませんが、スタンリーとゼロ、何はともあれ目の前にいる二人の苦しみが無事取り除かれたので、とても良いハッピーエンドだったと思います。

 

生きることは痛みを知ること

コッペリアの鼓動 生きることは痛みを知ること

脱ぎ捨てた靴を もう一度踏み鳴らし迷わず歩きだす

――ALI PROJECTコッペリアの柩」より

 

 『悪童日記』に触発され、身体を鍛えようと朝晩に冷水を浴びる訓練をここの所ずっと続けていたが、最近になって身体に変化が見え始めた。

 

はじめの内は、身体の方が強い拒絶反応を示していた。冷水を浴びた後に温かい風呂に入ったりすると、全身が異常にかゆくなり、たまらずガリガリと身体を搔きまわしていたが、これは急な寒暖差によって起きる一種の蕁麻疹らしく、慣れない冷水を浴びて血管がボロボロになっているせいで、掻いた箇所では派手に内出血が起こり、一週間ぐらい真っ赤な掻き跡が消えず、特に二の腕や太ももの荒れ様はひどいものだった。それが、最近は痒みも感じなくなって来て、冷水と温水を交互に浴びていても、平気になった。

 

それから、皮脂が出にくくなった。これは、スーパーで買い物をしていた時に、たまたま気が付いたことだ。ある日、会計を済ませてレジ袋に商品を詰めようとすると、指がすべって袋が全く開かず、最初はそういう時もあるよなと気にも留めなかったのだが、それ以降毎回毎回指がすべって袋が開けないので、なにかおかしいと異変に気が付き始めた。冬で肌が乾燥しているとは言え、例年こんなことは無かった訳だし、改めて自分の手のひらを検めてみると、自分の身体の一部にもかかわらず、こんなものだったろうかと首を傾げたくなるぐらい、意外にサラサラしていて冷たい。ネットで調べると、皮脂を出にくくするというのは、冷水の効果の一つらしい。皮脂が少なくなることで、体臭が抑えられるとか、髪の毛に優しいとか、良いことづくめらしいが、どこまで本当かは分からない。けど、自分でも、ベトベトしているよりかはこの方が気持ちが良いと思う。

 

自分の身体に対して、透明感を感じるようにもなった。毎回毎回、冷水を浴びる直前は勇気が必要で、こればかりはまだ全然慣れないのだけれど、 浴びてしまえばひんやりと心地よく、身体の濁りが洗い流されてゆくような充実感がある。そして、毎日続けていると、冷水を浴びないと居心地が悪いぐらいの感覚になって来る。外に出かけても、暖房の利いた建物の中よりかは、寒風が身体を突き抜けていくような青空の下が気持ちよく、自分の身体が透き通って、冬という季節に溶け込んでいくような感覚が自然と好ましく感じられるようになって来た。やっぱり、冬は寒くなくちゃいけない。冷水を浴びている時、北風に吹かれている時、洗い物をしている時、雑巾がけをしている時など、濁りや淀みのない生命の実感が、身体の芯から湧いてくる。

 

こんな感じで、冷たい水を浴びることには気持ちも身体もだいぶ慣れて来たので、今は、頭から冷水シャワーをかぶり、何秒耐えられるかに挑戦している。脳細胞が死んでいく痛みなのか、しばらく浴びていると頭にキリキリした激痛が走り、まだ30秒ぐらいしか耐えられない。でも、考えてみれば、滝行などやっている人はもっと長い間浴びているはずだから、これも慣れれば耐えられるようになるのだと思う。

 

私は自律神経が弱く、長らく心療内科に通っていたりしていたので、こういう風に修行の真似事をしてみたり、坐禅をしてみたりと、肉体を鍛えることが一番ストレートに自分の成長を感じられて良いです。 

 

ラブリーデイ引退

ラブリーデイが引退したらしい。突然の知らせでびっくりした。まだ6歳、老いたとは言えタフな馬だったから、まだまだ現役で活躍してくれるものと思っていた。今年に入ってからはあまり成績が振るわず、大敗はしないものの4着ばかりという、なんとも馬券購入者泣かせの成績であった。それでも、宝塚記念天皇賞秋と、GIを2勝もしているので、めでたく種牡馬入りが決まったようだ。

 

私が競馬を始めたのは去年の7月ごろのこと。夏競馬で色々と勉強が出来たので、秋のGIのシーズンにはすっかり競馬に夢中になっていた。2015年の秋のGI戦線と言えば、主役は何といってもラブリーデイだった。一応、このときはゴールドシップも現役だったのだけれど、すでに力を使い果たしてしまっていた感があったので、ラブリーデイが現役最強の名を恣にしていた。世代のレベルが低いとか、ラブリーデイはそれ程強くないとか、色々言われていたけれども、自分にとっては初の王道古馬GIで目にしたラブリーデイの存在は圧倒的で、1番人気で出走した天皇賞秋での、堂々たる先行策と直線での着実な抜け出し方は、あれほど安心して見ていられるレースは無かったと今でも思うほどだ。馬券的にも、京都大賞典天皇賞秋・ジャパンカップと、大変お世話になった。

 

それにしても、競馬の世界の移り変わりは速く、激しい。去年の今頃なんて、まさかキタサンブラックが現役最強馬になっているとは思わなかったものなあ。母父サクラバクシンオーだから菊花賞は無理だと言われていたし、勝った後もフロック視されていて人気は低かった。それが今や、オールスターのそろう有馬記念で押しも押されぬ1番人気、ファン投票でも1番人気だ。2015年のクラシック世代と言えばドゥラメンテだったけれど、引退してしまった。それを思えば来年の今頃は、サトノダイヤモンドマカヒキが引退して、レインボーラインマウントロブソンが最強馬と言われていたとしても全くおかしくない。

 

去年の秋に活躍していた馬と言えば、ラブリーデイだけでなく、ショウナンパンドラも引退した。ストレイトガールも引退した。モーリスも引退するし、リオンディーズも、ホッコータルマエも引退だ。1年前はこれだけ綺羅星のように輝いていた名馬たちも、あっという間にいなくなってしまうのだなあ。明後日の有馬記念キタサンブラックマリアライトゴールドアクターなど、豪華なメンバーが出てくるが、このメンバーが一斉に走るのを見られる機会は二度とないと思って、真剣に見よう。

 

戦慄の子供たち

悪童日記』三部作の余韻に浸かるこの頃、個人的クラウス&リュカのテーマソングとしてアリプロの「戦慄の子供たち」をずっと聴いている。

 

光る眼で闇を読む

恐るべき子供達

 

生まれてきた時からずっと

愛とは凶器で

真っ赤に濡れた胸を掴んで

傷口に埋めた

 

生きるため、感情を殺し、傷つけあい、凶暴に育っていった双子の姿が思い浮かぶよう。

 

番って求め弄って

涙にならない痛みを

さあ口移しで分け合おう

 

眠る眼で闇を抱く

哀しみの子供たち

 

歌詞の中に”恐るべき子供達”というのがあるが、適当に検索していたら、同名の小説があるらしいことが分かった。「戦争と平和」とか「地獄の季節」とか、アリプロは文学作品からの引用が多いので、恐らくこれも意識的に引用してきた言葉なのだと思う。ジャン・コクトー恐るべき子供たち』、自分は知らなかったけれど結構有名な作品らしく、岩波文庫ほか複数の翻訳が出ていた。あらすじを見ると、『悪童日記』と雰囲気が近くて面白そうなので、年末に読んでみようと思った。

 

それにしても、改めて振り返って『悪童日記』は面白かった。三部作としても面白かったけれど、単体としても絶品だった。精神状態に余り良い作用を及ぼさないことが多かったので、この手の悪漢小説にはあまり触れないようにしていたのだけれど、やっぱり自分はこういう物語が好きだ。以前はともかく、今読んでみるとそう悪い影響ばかりでも無さそうなので、敢えて読まないようにしていた色川武大とか新橋遊吉とかも、読んでも大丈夫かもしれない。

 

アゴタ・クリストフ『第三の嘘』

 

第三の嘘 (ハヤカワepi文庫)

第三の嘘 (ハヤカワepi文庫)

 

 

悪童日記』『ふたりの証拠』に続く、双子の物語。年老いたリュカとクラウスが、かつてあった出来事の真実を語ります。

 

一作目・二作目と続き、一気呵成に読みました。完結編のこの物語、これまでの作品と比べてあまりにも切なくて、読了後、やるせ無い思いに沈められました。今までの物語は、全てリュカの嘘だったらしいです。しかも、『第三の嘘』というタイトルから、この物語自体も本当かどうか分からない含みがあります。どこまでが嘘でどこまでが真なのかというカラクリについては、複雑過ぎるので深く考えるのは諦めました。何と言われようと、一作一作を真実として信じるしかありません。しかし、今までのことが全て、そうであって欲しかった理想なのだと言われると、理想と現実という新たな重みや、理想にすがらざるを得なかったリュカの無力さも思いやられ、前作までの哀しみが、一方では喪失感に変わり、また一方では再び違う形で込み上げてくるようでした。『悪童日記』には、悪の魅力がありました。『ふたりの証拠』には、激しい憎しみや苦しみがありました。現在進行形の前作・前々作には若さがあり、良くも悪くも熱い血潮が流れていましたが、回想の形になってしまう本作にあるのは、全てを終えた後の虚しさだけです。回想なので、痛みも少ない代わりに激情もありません。そして、取り返しのつかないことになることが分かっているので、回想の中の双子に希望を持つことも出来ませんでした。

 

真相はより現実的なもので、双子の意思が介在する余地は全くなく、ただただ運命に流されるばかりでした。悲劇の始まりは、父親の不倫です。不倫発覚で逆上した母は父を射殺し、自身も物狂いとなってしまいます。修羅場に居合わせたリュカは流れ弾を受けて障害を負ってしまい、病院送りになり、独り残されたクラウスは、父の不倫相手のもとで暮らすことになります。そこへ折悪しくも戦争という大波が押し寄せたものだから、リュカとクラウスはお互いの手がかりを全く失ってしまいました。その後、リュカは外国へ逃亡し、クラウスは物狂いの母と暮らします。リュカは離れ離れになったクラウスのことを慕いますが、クラウスはリュカだけを想う母に苦しめられ、三人の想いはすれ違ったまま無情に時が流れます。数十年後、リュカは故郷を訪れますが、そこに再会の喜びはなく、クラウスはリュカを冷たく突き放すのでした。

 

子供の頃というのは、人生にとって本当に重要な時間なのだなと思います。『悪童日記』と『ふたりの証拠』で語られたのは、主に双子が10代から20代の頃の話でしたが、今作でのリュカとクラウスはもう老人です。少年時代・青年時代から死までの道のりは、あっという間なのです。本当は、物語で描かれている以上の年数を、それぞれの人生の中で過ごしているはずなのに、死の間際まで二人を縛っていたのは、子供の頃の出来事でした。誰かを愛するということを知らずに育ってしまった二人は、たとえ何十年の時間があろうとも、失ったものを二度と再び得ることは出来ない定めだったのか。ふと、色川武大の言葉を思い出しました。阿佐田哲也ペンネームで悪漢小説を物した無頼のこの作家は、とある随筆でそれまで歩んできた人生を振り返り、作家としての成功や自身の資質については謙遜するのですが、ただ一点、小さい頃に誰かを好きになる経験が出来たのは自分の人生にとって幸いだったと書いていました。人を好きになることは、その後の人生を大きく左右する大事なことなのだけれど、その小さい頃の一時期を逃してしまうと、なかなか体験出来なくなってしまうとのことです。しかし、これ程重いことであるにもかかわらず、子供自身はそれを選ぶことが出来ない。子供を育む社会や、大人たちに課された責任の重さを感じます。

 

リュカの思い、クラウスの思い、そして母の思いは、どれも報われることなく終わってゆきました。悪漢小説らしいと言えばそうかも知れません。クラウスは母のために自己犠牲的な生き方を貫いていましたが、リュカの方は荒れていて、病院で度々人の嫌がることを繰り返していました。そして、因果なことに、自由の国に渡ってからのリュカは、どうやらクララと不倫していた形跡があります。根は善良で禁欲的なのだけれど、かと言って宗教に救われることも無かった二人は、「書く」という行為に救いを見出します。そうして出来上がった作品は、辛うじて二人をつなぐ縁となり、『第三の嘘』となって結実しました。本書の解説によると、作者のアゴタ・クリストフ自身が、書くという行為に非常に強い思い入れがあったと言います。書かれたことの真偽は分からないままでしたが、それゆえに、リュカとクラウスにとってある意味唯一の真実であった書くという行為について、アゴタの言葉をもっと聴いてみたいと思いました。