運は天にあり

内省の記録

生きることは痛みを知ること

コッペリアの鼓動 生きることは痛みを知ること

脱ぎ捨てた靴を もう一度踏み鳴らし迷わず歩きだす

――ALI PROJECTコッペリアの柩」より

 

 『悪童日記』に触発され、身体を鍛えようと朝晩に冷水を浴びる訓練をここの所ずっと続けていたが、最近になって身体に変化が見え始めた。

 

はじめの内は、身体の方が強い拒絶反応を示していた。冷水を浴びた後に温かい風呂に入ったりすると、全身が異常にかゆくなり、たまらずガリガリと身体を搔きまわしていたが、これは急な寒暖差によって起きる一種の蕁麻疹らしく、慣れない冷水を浴びて血管がボロボロになっているせいで、掻いた箇所では派手に内出血が起こり、一週間ぐらい真っ赤な掻き跡が消えず、特に二の腕や太ももの荒れ様はひどいものだった。それが、最近は痒みも感じなくなって来て、冷水と温水を交互に浴びていても、平気になった。

 

それから、皮脂が出にくくなった。これは、スーパーで買い物をしていた時に、たまたま気が付いたことだ。ある日、会計を済ませてレジ袋に商品を詰めようとすると、指がすべって袋が全く開かず、最初はそういう時もあるよなと気にも留めなかったのだが、それ以降毎回毎回指がすべって袋が開けないので、なにかおかしいと異変に気が付き始めた。冬で肌が乾燥しているとは言え、例年こんなことは無かった訳だし、改めて自分の手のひらを検めてみると、自分の身体の一部にもかかわらず、こんなものだったろうかと首を傾げたくなるぐらい、意外にサラサラしていて冷たい。ネットで調べると、皮脂を出にくくするというのは、冷水の効果の一つらしい。皮脂が少なくなることで、体臭が抑えられるとか、髪の毛に優しいとか、良いことづくめらしいが、どこまで本当かは分からない。けど、自分でも、ベトベトしているよりかはこの方が気持ちが良いと思う。

 

自分の身体に対して、透明感を感じるようにもなった。毎回毎回、冷水を浴びる直前は勇気が必要で、こればかりはまだ全然慣れないのだけれど、 浴びてしまえばひんやりと心地よく、身体の濁りが洗い流されてゆくような充実感がある。そして、毎日続けていると、冷水を浴びないと居心地が悪いぐらいの感覚になって来る。外に出かけても、暖房の利いた建物の中よりかは、寒風が身体を突き抜けていくような青空の下が気持ちよく、自分の身体が透き通って、冬という季節に溶け込んでいくような感覚が自然と好ましく感じられるようになって来た。やっぱり、冬は寒くなくちゃいけない。冷水を浴びている時、北風に吹かれている時、洗い物をしている時、雑巾がけをしている時など、濁りや淀みのない生命の実感が、身体の芯から湧いてくる。

 

こんな感じで、冷たい水を浴びることには気持ちも身体もだいぶ慣れて来たので、今は、頭から冷水シャワーをかぶり、何秒耐えられるかに挑戦している。脳細胞が死んでいく痛みなのか、しばらく浴びていると頭にキリキリした激痛が走り、まだ30秒ぐらいしか耐えられない。でも、考えてみれば、滝行などやっている人はもっと長い間浴びているはずだから、これも慣れれば耐えられるようになるのだと思う。

 

私は自律神経が弱く、長らく心療内科に通っていたりしていたので、こういう風に修行の真似事をしてみたり、坐禅をしてみたりと、肉体を鍛えることが一番ストレートに自分の成長を感じられて良いです。 

 

ラブリーデイ引退

ラブリーデイが引退したらしい。突然の知らせでびっくりした。まだ6歳、老いたとは言えタフな馬だったから、まだまだ現役で活躍してくれるものと思っていた。今年に入ってからはあまり成績が振るわず、大敗はしないものの4着ばかりという、なんとも馬券購入者泣かせの成績であった。それでも、宝塚記念天皇賞秋と、GIを2勝もしているので、めでたく種牡馬入りが決まったようだ。

 

私が競馬を始めたのは去年の7月ごろのこと。夏競馬で色々と勉強が出来たので、秋のGIのシーズンにはすっかり競馬に夢中になっていた。2015年の秋のGI戦線と言えば、主役は何といってもラブリーデイだった。一応、このときはゴールドシップも現役だったのだけれど、すでに力を使い果たしてしまっていた感があったので、ラブリーデイが現役最強の名を恣にしていた。世代のレベルが低いとか、ラブリーデイはそれ程強くないとか、色々言われていたけれども、自分にとっては初の王道古馬GIで目にしたラブリーデイの存在は圧倒的で、1番人気で出走した天皇賞秋での、堂々たる先行策と直線での着実な抜け出し方は、あれほど安心して見ていられるレースは無かったと今でも思うほどだ。馬券的にも、京都大賞典天皇賞秋・ジャパンカップと、大変お世話になった。

 

それにしても、競馬の世界の移り変わりは速く、激しい。去年の今頃なんて、まさかキタサンブラックが現役最強馬になっているとは思わなかったものなあ。母父サクラバクシンオーだから菊花賞は無理だと言われていたし、勝った後もフロック視されていて人気は低かった。それが今や、オールスターのそろう有馬記念で押しも押されぬ1番人気、ファン投票でも1番人気だ。2015年のクラシック世代と言えばドゥラメンテだったけれど、引退してしまった。それを思えば来年の今頃は、サトノダイヤモンドマカヒキが引退して、レインボーラインマウントロブソンが最強馬と言われていたとしても全くおかしくない。

 

去年の秋に活躍していた馬と言えば、ラブリーデイだけでなく、ショウナンパンドラも引退した。ストレイトガールも引退した。モーリスも引退するし、リオンディーズも、ホッコータルマエも引退だ。1年前はこれだけ綺羅星のように輝いていた名馬たちも、あっという間にいなくなってしまうのだなあ。明後日の有馬記念キタサンブラックマリアライトゴールドアクターなど、豪華なメンバーが出てくるが、このメンバーが一斉に走るのを見られる機会は二度とないと思って、真剣に見よう。

 

戦慄の子供たち

悪童日記』三部作の余韻に浸かるこの頃、個人的クラウス&リュカのテーマソングとしてアリプロの「戦慄の子供たち」をずっと聴いている。

 

光る眼で闇を読む

恐るべき子供達

 

生まれてきた時からずっと

愛とは凶器で

真っ赤に濡れた胸を掴んで

傷口に埋めた

 

生きるため、感情を殺し、傷つけあい、凶暴に育っていった双子の姿が思い浮かぶよう。

 

番って求め弄って

涙にならない痛みを

さあ口移しで分け合おう

 

眠る眼で闇を抱く

哀しみの子供たち

 

歌詞の中に”恐るべき子供達”というのがあるが、適当に検索していたら、同名の小説があるらしいことが分かった。「戦争と平和」とか「地獄の季節」とか、アリプロは文学作品からの引用が多いので、恐らくこれも意識的に引用してきた言葉なのだと思う。ジャン・コクトー恐るべき子供たち』、自分は知らなかったけれど結構有名な作品らしく、岩波文庫ほか複数の翻訳が出ていた。あらすじを見ると、『悪童日記』と雰囲気が近くて面白そうなので、年末に読んでみようと思った。

 

それにしても、改めて振り返って『悪童日記』は面白かった。三部作としても面白かったけれど、単体としても絶品だった。精神状態に余り良い作用を及ぼさないことが多かったので、この手の悪漢小説にはあまり触れないようにしていたのだけれど、やっぱり自分はこういう物語が好きだ。以前はともかく、今読んでみるとそう悪い影響ばかりでも無さそうなので、敢えて読まないようにしていた色川武大とか新橋遊吉とかも、読んでも大丈夫かもしれない。

 

アゴタ・クリストフ『第三の嘘』

 

第三の嘘 (ハヤカワepi文庫)

第三の嘘 (ハヤカワepi文庫)

 

 

悪童日記』『ふたりの証拠』に続く、双子の物語。年老いたリュカとクラウスが、かつてあった出来事の真実を語ります。

 

一作目・二作目と続き、一気呵成に読みました。完結編のこの物語、これまでの作品と比べてあまりにも切なくて、読了後、やるせ無い思いに沈められました。今までの物語は、全てリュカの嘘だったらしいです。しかも、『第三の嘘』というタイトルから、この物語自体も本当かどうか分からない含みがあります。どこまでが嘘でどこまでが真なのかというカラクリについては、複雑過ぎるので深く考えるのは諦めました。何と言われようと、一作一作を真実として信じるしかありません。しかし、今までのことが全て、そうであって欲しかった理想なのだと言われると、理想と現実という新たな重みや、理想にすがらざるを得なかったリュカの無力さも思いやられ、前作までの哀しみが、一方では喪失感に変わり、また一方では再び違う形で込み上げてくるようでした。『悪童日記』には、悪の魅力がありました。『ふたりの証拠』には、激しい憎しみや苦しみがありました。現在進行形の前作・前々作には若さがあり、良くも悪くも熱い血潮が流れていましたが、回想の形になってしまう本作にあるのは、全てを終えた後の虚しさだけです。回想なので、痛みも少ない代わりに激情もありません。そして、取り返しのつかないことになることが分かっているので、回想の中の双子に希望を持つことも出来ませんでした。

 

真相はより現実的なもので、双子の意思が介在する余地は全くなく、ただただ運命に流されるばかりでした。悲劇の始まりは、父親の不倫です。不倫発覚で逆上した母は父を射殺し、自身も物狂いとなってしまいます。修羅場に居合わせたリュカは流れ弾を受けて障害を負ってしまい、病院送りになり、独り残されたクラウスは、父の不倫相手のもとで暮らすことになります。そこへ折悪しくも戦争という大波が押し寄せたものだから、リュカとクラウスはお互いの手がかりを全く失ってしまいました。その後、リュカは外国へ逃亡し、クラウスは物狂いの母と暮らします。リュカは離れ離れになったクラウスのことを慕いますが、クラウスはリュカだけを想う母に苦しめられ、三人の想いはすれ違ったまま無情に時が流れます。数十年後、リュカは故郷を訪れますが、そこに再会の喜びはなく、クラウスはリュカを冷たく突き放すのでした。

 

子供の頃というのは、人生にとって本当に重要な時間なのだなと思います。『悪童日記』と『ふたりの証拠』で語られたのは、主に双子が10代から20代の頃の話でしたが、今作でのリュカとクラウスはもう老人です。少年時代・青年時代から死までの道のりは、あっという間なのです。本当は、物語で描かれている以上の年数を、それぞれの人生の中で過ごしているはずなのに、死の間際まで二人を縛っていたのは、子供の頃の出来事でした。誰かを愛するということを知らずに育ってしまった二人は、たとえ何十年の時間があろうとも、失ったものを二度と再び得ることは出来ない定めだったのか。ふと、色川武大の言葉を思い出しました。阿佐田哲也ペンネームで悪漢小説を物した無頼のこの作家は、とある随筆でそれまで歩んできた人生を振り返り、作家としての成功や自身の資質については謙遜するのですが、ただ一点、小さい頃に誰かを好きになる経験が出来たのは自分の人生にとって幸いだったと書いていました。人を好きになることは、その後の人生を大きく左右する大事なことなのだけれど、その小さい頃の一時期を逃してしまうと、なかなか体験出来なくなってしまうとのことです。しかし、これ程重いことであるにもかかわらず、子供自身はそれを選ぶことが出来ない。子供を育む社会や、大人たちに課された責任の重さを感じます。

 

リュカの思い、クラウスの思い、そして母の思いは、どれも報われることなく終わってゆきました。悪漢小説らしいと言えばそうかも知れません。クラウスは母のために自己犠牲的な生き方を貫いていましたが、リュカの方は荒れていて、病院で度々人の嫌がることを繰り返していました。そして、因果なことに、自由の国に渡ってからのリュカは、どうやらクララと不倫していた形跡があります。根は善良で禁欲的なのだけれど、かと言って宗教に救われることも無かった二人は、「書く」という行為に救いを見出します。そうして出来上がった作品は、辛うじて二人をつなぐ縁となり、『第三の嘘』となって結実しました。本書の解説によると、作者のアゴタ・クリストフ自身が、書くという行為に非常に強い思い入れがあったと言います。書かれたことの真偽は分からないままでしたが、それゆえに、リュカとクラウスにとってある意味唯一の真実であった書くという行為について、アゴタの言葉をもっと聴いてみたいと思いました。

 

 

アゴタ・クリストフ『ふたりの証拠』

 

ふたりの証拠 (ハヤカワepi文庫)

ふたりの証拠 (ハヤカワepi文庫)

 

 

悪童日記』の続編。残された双子の一人・リュカをはじめ、人心の荒んだ戦後の「小さな町」に住む孤独な人達が、誰かを求めながらも誰も得られず、心の傷を深めていく物語です。

 

前作の最後を見て恐れていたことが、果たして本当に起こってしまった……。目の前にある深淵を予感しつつ、それをどうすることも出来ないもどかしさを感じながら、この続編を読みました。今までずっと一緒にいた二人が離れ離れになったのだから、経験したことのない苦しみに二人は戸惑うはず。しかも、戦時中の略奪や戦後の圧制のために疲れ果ていた町には、とても主人公を受け止める余裕はありません。一人になった主人公はきっと誰かを求めるだろうし、それが恋愛なのか友情なのかはともかく、今までの生き方を想えばその誰かを傷つけずにはいられないだろう。常人には真似のできない悪事をやってのける双子が魅力的に映った前作から、一転して内面の脆さと破滅を描く今作との落差を受けて、悪漢小説という繋がりから『ゴッドファーザー』とその続編のことを思い出しました。

 

今作では文章の体裁も変わり、一人称での語りから三人称での描写に変わります。町に残った双子の一人はリュカと呼ばれていることが分かりましたが、前作とはかなり印象が違うので一人称と三人称との違いはこれ程大きいのかと驚かされます。前作の印象だと双子は才気煥発で商売も上手くて、哀しみを帯びつつも強かに世の中を渡り歩いているようでした。ところが、今作のリュカは町の人から「狂人」呼ばわりされていて、なおかつそれを気にしてはいけないと自分に言い聞かせているような所もあって、一見すると今まで通りの抜け目ない悪童なのだけれど、人生への疲れが所々に見え隠れしているように思えました。三人称から受けるそんな印象は、作中の町の人の視線とも重なっていて、司祭や党書記のペテールなど心ある何人かの人はリュカのことを強く心配しています。思えば前作でも、双子が巧妙にやってのけた女中殺しのことを司祭はちゃんと知っていました。今作でもリュカの悪童ぶりは健在で、物語終盤に読者をあっと驚かせるような事実も明らかにされるのですが、そういうことも町の人は大体わかっていたのではないかと思うのです。アリバイ作りみたいなことが得意なリュカは、罪に問われるようなヘマはしません。けれども周りの大人たちは、リュカのことをリュカ自身以上にちゃんと分かっていたのだと思います。

 

今作では年齢も境遇も様々なキャラクターが登場しますが、一番強く印象に残ったのは孤児のマティアスでした。相方を失ったリュカが次に自分の支えとして求めたのがこのマティアスでしたが、一方ではクララの元へ通ったり放蕩を繰り返したりと、リュカの愛情の焦点は定まりませんでした。マティアスは、良い意味でも悪い意味でも普通の子です。それゆえに、リュカが見ることの出来なかったことや見なくても済んだことを、子供ながらも見通していました。かつての自分を救うような気持ちからか、リュカはマティアスのことを慈しみ、スパルタ式の教育で生きる知恵を叩き込もうとします。醜いマティアスは学校で虐められてしまいますが、凶器をもって相手に立ち向かわせようとするリュカに対して自分はそんなことは出来ないと抗議します。そして、双子のクラウスと一緒だったために一人では無かったこと、美貌のために周りの大人たちから度々可愛がられていたことなど、リュカだからこそ出来たことをマティアスは喝破します。確かに、リュカと同じようなことをしろと言われてもそう簡単に出来るものではありません。前作『悪童日記』で、物語序盤で早くもリュカは生き物を殺す術を身につけてしまいますが、普通の人間にはそれが出来ないものなのです。その点、マティアスは読者の視点に近くて、私にとっては、リュカのことを魅力に感じつつもどこか好きになり切れない理由をマティアスが説明してくれたように思えました。

 

未亡人のクララや、同性愛を隠すペテール、父を愛したヤスミーヌなど、物語には孤独を抱えた人が沢山登場します。そんな登場人物たちの間で、色々な人間関係がありました。独りでは駄目だし、三人でも駄目、二人が一番安定する関係なのだけれど、相思相愛でない二人が繋がったり嘘が混じっていたりすると、却って破滅的な結果になってしまう。前作では、気に入らない人間は殺せばそれで済んでいたリュカですが、今作ではそうした悪事が祟って一番失いたくないマティアスを失うという結果を招いてしまいました。形は違えども、姉を愛していると自分に言い聞かせ、姉との同居生活を決意した結果、姉を殺すに至ってしまったヴィクトールの運命は、リュカの運命と似ています。生きるために仕方なかったとは言え、幼い頃に人工的に人間性を作り上げてしまったツケは大きく、マティアスの死を反省をする暇すらリュカに与えないまま、あっという間に20年30年の歳月が過ぎていく所には、運命の残酷さを感じました。一作目と比べると、謎の仕込み方が巧妙で、推理小説のように理知的になりすぎた感じは受けましたが、人間関係の難しさや心の傷の深刻さについて深く考えさせてくれる物語でした。

 

アゴタ・クリストフ『悪童日記』

 

悪童日記 (Hayakawa Novels)

悪童日記 (Hayakawa Novels)

 

 

 

戦争中、疎開先のとある「小さな町」でおばあちゃんと暮らす風変わりな双子の少年が、暴力・犯罪・貧困・虐め・強制収容・略奪など、ありとあらゆる社会の闇に晒されながらも、強く静かに生きていく物語です。

 

無力感や怒り、哀しみなど、様々な感情を沸き起こす物語でした。満足に食事も出来ず風呂にも入れない子供たちや、誰にも愛されず自分を傷つけてしまう女の子、そして毎日空襲に脅える町の人達などの姿を見ていると、自然と気持ちが引き締まります。人によって感受性は違うものだから、必ずしも外から見えることが人の幸不幸を左右するとは思いません。しかし、戦争や搾取には、絶対的な悲しみがあると思うので、それに比べて今自分の身の回りにある世界がどれだけ恵まれているかと、改めて気付かされました。この物語のモデルになっているのは二次大戦だけれど、今だって世界から戦争が無くなった訳ではない。派手な戦争以外にも、社会には様々な暗部がある。それを思うと、自ずと意識が外へ向かっていきます。

 

主人公の双子の少年ですが、率直に言うと、この二人には少し複雑な感情を覚えました。好きとも言えないし嫌いとも言えません。体を鍛えたり心を鍛えたり、時には生き物を殺す訓練などもして何ものにも動じなくなったこの二人に対して、それが可愛げが無いとか言う意味ではなしに、怖さを感じるのです。内向的な人間が黙々と鍛錬に励むというのは良くあることなので、それ自体には何も思いません。躊躇いなく人を殺すような、非人間的な能力を訓練によって身につけるというのも、対人恐怖症の本や小説の中でそういう症例をいくらも見たので、無力な人間が生きていくためにはむしろ必要なことだと思います。例えば三島由紀夫の『仮面の告白』でも、視線恐怖に打ち克つために、主人公が電車の中で赤の他人の眼をジッと見つめるという訓練をしていたりしたので、そこには違和感はありませんでした。

 

しかし、この双子には、強くなっていく過程の中に葛藤がありませんでした。ある日、おばあちゃんの所に預けられたかと思うと、苛酷な環境の中あっという間に訓練で強くなっていきました。苦しみや悲しみは、少なくとも描かれてはいません。強くなった後にもそれは同じでした。隣人の「兎っ子」が図体のでかいガキに虐められている時も、すぐには助けず、その子がどんな風に振る舞うのか「観察していた」と言います。助けない訳では無いけれど、一面では自分たちの見識を増やすために「兎っ子」を利用している。そのことに、双子が何を感じているのか分からないのが怖いのです。感じてる余裕など無い、というのが実際かもしれません。しかし、自分達は傷つく素ぶりもなく、ひたすら労働と自己鍛錬に励み、大人も凌ぐ賢さで強かに勝ち続けるというのが、小さな子供にしてはあまりにも強すぎるために、不気味に感じるのです。タイトルは悪童日記と付けられており、確かにその通り盗みも殺しもやるのですが、よくよく見れば双子の行為は全て筋が通っており、大悪とも大善ともどちらともつかない、底知れぬ闇の深さも感じました。

 

傍観者で居られるというのは、それだけの力があるか、そういう恵まれた身分にある時だけです。そうでない人間は、争いや憎しみの渦中で必死に生きなければいけません。ただ、渦中で生きることにどうしても耐えられない状況もあって、そういう時には、感情に振り回されるのを辞めて、感情を殺したり、心理的に傍観者に徹してしまうしかありません。そういう意味では、この双子のような人生に対する態度が、今を必死に生き延びざるを得ない読者にとって、生き方の規範になるかも知れないと思いました。双子は生き物を殺すことに慣れており、死を直視することが出来ます。哀しいことですが、一つ上の現実を生きる人間は、誰にも負けないものだと思います。

 

考え方や感じ方が分からなさすぎるのが双子に対する不安の原因ですが、とは言え、双子はただ分かりづらいというだけで、人間みな、他人の考えなど分からないし、もっと言えば自分の考えだって分からないものです。最初はあれだけ仲の悪かったおばあちゃんと双子ですが、いつの間にか双子がおばあちゃんの側を離れたがらないようになっていたり、あまり双子と打ち解けず、しばしば悪態までついていた従姉が別れ際には涙を流すなど、人間の単純ではない色々な側面が見られたのは救いでした。

 

物語の終わり、薄情な父親を騙し討ちにして殺した後、双子のうちの一人は国境を越えて逃走し、これまでずっと人生を共にしていた二人は、離れ離れになります。振り返って見れば、ずっと冷静で賢く見えた双子が唯一弱い面を見せたのが、学校で離れ離れにされてしまった時でした。おばあちゃんの所に疎開してきた後も、二人は知恵を使って学校へ行かなくても良いように計っています。そんな二人が、なぜ自分達から離れ離れになる道を選んだのかは分かりませんでしたが、賢明な二人のことなので、いつか引き離されてしまう時のために、今の内に別々に生きる訓練が必要だと考えたのではないかと思います。

 

これまで、とても強く生きていた二人ですが、忘れてはならないのが、二人はいつも二人であり、決して一人になったことは無かったということです。虐められ、屈辱的な仕打ちを受けていた兎っ子は、なぜ自分で身を守らなかったとでも言いたげな双子に対し、三人の大きな男の子を相手に自分に何が出来ただろうと言いました。一人というのはあまりにも無力です。二人と三人、三人と四人の違いに比べて、一人と二人の違いは圧倒的に重いのです。二人一緒にいることで強く生きて来られた二人が、別々に離れてしまった後にどうなってしまうのだろうか、多分違った成長があるのだろうと思いつつも、その先に何が待っているか分からない怖さも感じました。

 

アーサー・ランサム『ツバメ号とアマゾン号』

 

ツバメ号とアマゾン号 (アーサー・ランサム全集 (1))

ツバメ号とアマゾン号 (アーサー・ランサム全集 (1))

 

 

とある湖畔のキャンプを舞台に、ヨットの帆船で湖の大海原を駆け巡る、小さな船乗りたちの夏休みを描いた物語です。

 

季節外れの秋の終わり、この物語を読みました。ちょうど『ムーミン谷の十一月』を読んだばかりだったのですが、奇遇にもヨットが出てくる話だったので、そう言えばと、覚悟を抱いて冬の湖にヨットで繰り出すヘムレンさんの姿を思い出したりしていました。こちらはうって変わり、ヨットに慣れた子供たちの陽気な船遊びの物語です。この物語の舞台は英国の湖水地方ですが、湖がある土地というのは実に優雅なものです。夏休みというと卑近なイメージがありますが、英国の湖水地方なんていったら、もはやムーミン谷と同じくファンタジーの世界なので、寂しい秋の夜長、空想世界に浸かるような気持ちで物語を読むことができました。

 

この物語はとても悠長で、時間の流れがゆったりとしています。例えば、子供たちが海賊船を見つけ、悪のフリント船長と戦おうということに決まっても、戦いはなかなか始まらず、途中で割り込みがあったり、すれ違いがあったり、他の出来事で上書きされてしまったりで、自然と時間は流れてゆきます。決して物語の先を急がず、何かあれば立ち止まるし、湖が凪いでいれば無理はしません。物語全体に、余裕があるのです。子供たちの遊びの数々は一つも捨象されることなく、丁寧に描かれていきます。こういう、せかせかしない優雅さがこの物語の魅力で、いつまでもこの時間が終わらないで欲しいと願いつつ、のんびりとたっぷりと読めるところが良かったです。

 

物語の始めから終わりまで、子供たちは船乗りになりきって、キャンプでの生活を過ごします。途中でナンシイとペギイに出会うとすぐに仲良くなり、呼吸ぴったりに2人ともども船乗りごっこに興じます。ごっこ遊びの楽しさというのは、灯した火を消さないように、興を冷まさないことが大事だと思っているのですが、実はそれは結構難しいことだと思っています。遊びをするにも無秩序ではいけなくて、楽しむためにはセンスやユーモアがなければいけません。そういう意味で、ウォーカー家の兄弟もアマゾン号のナンシイとペギイも、とてもしっかりしていると思うのですよね。働く喜び、知恵を働かせる喜び、遊びの喜びなど、多くのことを身体で学びとっていて、それをスマートに活かす術を身につけているようです。だから、これだけ楽しく遊べるのだと思います。この物語を読むと、名状しがたい遊びのセンスみたいなものを学びとれる気がします。