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戦慄の子供たち

日記

悪童日記』三部作の余韻に浸かるこの頃、個人的クラウス&リュカのテーマソングとしてアリプロの「戦慄の子供たち」をずっと聴いている。

 

光る眼で闇を読む

恐るべき子供達

 

生まれてきた時からずっと

愛とは凶器で

真っ赤に濡れた胸を掴んで

傷口に埋めた

 

生きるため、感情を殺し、傷つけあい、凶暴に育っていった双子の姿が思い浮かぶよう。

 

番って求め弄って

涙にならない痛みを

さあ口移しで分け合おう

 

眠る眼で闇を抱く

哀しみの子供たち

 

歌詞の中に”恐るべき子供達”というのがあるが、適当に検索していたら、同名の小説があるらしいことが分かった。「戦争と平和」とか「地獄の季節」とか、アリプロは文学作品からの引用が多いので、恐らくこれも意識的に引用してきた言葉なのだと思う。ジャン・コクトー恐るべき子供たち』、自分は知らなかったけれど結構有名な作品らしく、岩波文庫ほか複数の翻訳が出ていた。あらすじを見ると、『悪童日記』と雰囲気が近くて面白そうなので、年末に読んでみようと思った。

 

それにしても、改めて振り返って『悪童日記』は面白かった。三部作としても面白かったけれど、単体としても絶品だった。精神状態に余り良い作用を及ぼさないことが多かったので、この手の悪漢小説にはあまり触れないようにしていたのだけれど、やっぱり自分はこういう物語が好きだ。以前はともかく、今読んでみるとそう悪い影響ばかりでも無さそうなので、敢えて読まないようにしていた色川武大とか新橋遊吉とかも、読んでも大丈夫かもしれない。

 

アゴタ・クリストフ『第三の嘘』

読書

 

第三の嘘 (ハヤカワepi文庫)

第三の嘘 (ハヤカワepi文庫)

 

 

悪童日記』『ふたりの証拠』に続く、双子の物語。年老いたリュカとクラウスが、かつてあった出来事の真実を語ります。

 

一作目・二作目と続き、一気呵成に読みました。完結編のこの物語、これまでの作品と比べてあまりにも切なくて、読了後、やるせ無い思いに沈められました。今までの物語は、全てリュカの嘘だったらしいです。しかも、『第三の嘘』というタイトルから、この物語自体も本当かどうか分からない含みがあります。どこまでが嘘でどこまでが真なのかというカラクリについては、複雑過ぎるので深く考えるのは諦めました。何と言われようと、一作一作を真実として信じるしかありません。しかし、今までのことが全て、そうであって欲しかった理想なのだと言われると、理想と現実という新たな重みや、理想にすがらざるを得なかったリュカの無力さも思いやられ、前作までの哀しみが、一方では喪失感に変わり、また一方では再び違う形で込み上げてくるようでした。『悪童日記』には、悪の魅力がありました。『ふたりの証拠』には、激しい憎しみや苦しみがありました。現在進行形の前作・前々作には若さがあり、良くも悪くも熱い血潮が流れていましたが、回想の形になってしまう本作にあるのは、全てを終えた後の虚しさだけです。回想なので、痛みも少ない代わりに激情もありません。そして、取り返しのつかないことになることが分かっているので、回想の中の双子に希望を持つことも出来ませんでした。

 

真相はより現実的なもので、双子の意思が介在する余地は全くなく、ただただ運命に流されるばかりでした。悲劇の始まりは、父親の不倫です。不倫発覚で逆上した母は父を射殺し、自身も物狂いとなってしまいます。修羅場に居合わせたリュカは流れ弾を受けて障害を負ってしまい、病院送りになり、独り残されたクラウスは、父の不倫相手のもとで暮らすことになります。そこへ折悪しくも戦争という大波が押し寄せたものだから、リュカとクラウスはお互いの手がかりを全く失ってしまいました。その後、リュカは外国へ逃亡し、クラウスは物狂いの母と暮らします。リュカは離れ離れになったクラウスのことを慕いますが、クラウスはリュカだけを想う母に苦しめられ、三人の想いはすれ違ったまま無情に時が流れます。数十年後、リュカは故郷を訪れますが、そこに再会の喜びはなく、クラウスはリュカを冷たく突き放すのでした。

 

子供の頃というのは、人生にとって本当に重要な時間なのだなと思います。『悪童日記』と『ふたりの証拠』で語られたのは、主に双子が10代から20代の頃の話でしたが、今作でのリュカとクラウスはもう老人です。少年時代・青年時代から死までの道のりは、あっという間なのです。本当は、物語で描かれている以上の年数を、それぞれの人生の中で過ごしているはずなのに、死の間際まで二人を縛っていたのは、子供の頃の出来事でした。誰かを愛するということを知らずに育ってしまった二人は、たとえ何十年の時間があろうとも、失ったものを二度と再び得ることは出来ない定めだったのか。ふと、色川武大の言葉を思い出しました。阿佐田哲也ペンネームで悪漢小説を物した無頼のこの作家は、とある随筆でそれまで歩んできた人生を振り返り、作家としての成功や自身の資質については謙遜するのですが、ただ一点、小さい頃に誰かを好きになる経験が出来たのは自分の人生にとって幸いだったと書いていました。人を好きになることは、その後の人生を大きく左右する大事なことなのだけれど、その小さい頃の一時期を逃してしまうと、なかなか体験出来なくなってしまうとのことです。しかし、これ程重いことであるにもかかわらず、子供自身はそれを選ぶことが出来ない。子供を育む社会や、大人たちに課された責任の重さを感じます。

 

リュカの思い、クラウスの思い、そして母の思いは、どれも報われることなく終わってゆきました。悪漢小説らしいと言えばそうかも知れません。クラウスは母のために自己犠牲的な生き方を貫いていましたが、リュカの方は荒れていて、病院で度々人の嫌がることを繰り返していました。そして、因果なことに、自由の国に渡ってからのリュカは、どうやらクララと不倫していた形跡があります。根は善良で禁欲的なのだけれど、かと言って宗教に救われることも無かった二人は、「書く」という行為に救いを見出します。そうして出来上がった作品は、辛うじて二人をつなぐ縁となり、『第三の嘘』となって結実しました。本書の解説によると、作者のアゴタ・クリストフ自身が、書くという行為に非常に強い思い入れがあったと言います。書かれたことの真偽は分からないままでしたが、それゆえに、リュカとクラウスにとってある意味唯一の真実であった書くという行為について、アゴタの言葉をもっと聴いてみたいと思いました。

 

 

久々にイベントへ

日記

日出処の天子』に感銘を受けていた所、ちょうど展覧会をやっているのを知って、弥生美術館の山岸凉子の展覧会に行ってきた。学芸員による解説がある日に合わせていったので、1時間ぐらい色々なお話しを有り難く聞いた。『日出処の天子』も『アラベスク』も当時は編集から大反対されたそうで、それでも強く訴えて発表した結果、大人気になったという。エピソードには何かと事欠かないみたいで、熟語を一つ聞いただけでその熟語をもとにしたストーリーをすぐに作り上げることが出来たとか、そんな話も聞けた。

 

山岸凉子自ら選んだ絵のベスト10があって、その中には見慣れた『日出処の天子』と『天人唐草』の絵もあった。日出処の天子の表紙は、月と桜を背景にして王子が描かれている。文庫本の表紙になっている絵で、作品のタイトルは日出るなのに、背景は月だ。冷たい月の生涯を歩んだ王子のことが、改めて思い起こされた。

 

今現在、連載している漫画があると聞いたので、その場で買ってしまった。『レベレーション』、ジャンヌダルクの話らしく、今から楽しみ。

レベレーション(啓示)(1) (モーニング KC)

レベレーション(啓示)(1) (モーニング KC)

 

 

 

同じ日の夜、ALIPROJECTの「A級戒厳令」のライブに行ってきた。会場はお台場のDiverCityという施設にあって、ここは複合施設なので広くて迷いそうになるのだけれど、アリプロの場合、衣装を見て間違いなくそれと分かる人が近くにいるので、一目瞭然で有り難い。アルバムの内容に合わせて、軍服を着ている人も見たっけ。

 

メインの「永久戒厳令」は、「あの空に楔撃たん」という一番高い音になる歌詞の所が好きで、この部分の絶唱を聴いた時には鳥肌が立った。ものすごい声量と高音。生の歌声は本当に感動する。

 

アルバムの曲以外だと、「リュウコウセカイ」が聴けたのが良かった。その他、ローゼンメイデンの曲をまとめて歌ってくれたが、これはアリプロの転機になった曲なので大事にしていきたいのだとか。年末も近いので、クリスマスソングを歌ってくれて、最後は「愛と誠」でお開きに。普段イベントみたいなものには行かないので、久々にこういう機会を得られて楽しかった。

 

アゴタ・クリストフ『ふたりの証拠』

読書

 

ふたりの証拠 (ハヤカワepi文庫)

ふたりの証拠 (ハヤカワepi文庫)

 

 

悪童日記』の続編。残された双子の一人・リュカをはじめ、人心の荒んだ戦後の「小さな町」に住む孤独な人達が、誰かを求めながらも誰も得られず、心の傷を深めていく物語です。

 

前作の最後を見て恐れていたことが、果たして本当に起こってしまった……。目の前にある深淵を予感しつつ、それをどうすることも出来ないもどかしさを感じながら、この続編を読みました。今までずっと一緒にいた二人が離れ離れになったのだから、経験したことのない苦しみに二人は戸惑うはず。しかも、戦時中の略奪や戦後の圧制のために疲れ果ていた町には、とても主人公を受け止める余裕はありません。一人になった主人公はきっと誰かを求めるだろうし、それが恋愛なのか友情なのかはともかく、今までの生き方を想えばその誰かを傷つけずにはいられないだろう。常人には真似のできない悪事をやってのける双子が魅力的に映った前作から、一転して内面の脆さと破滅を描く今作との落差を受けて、悪漢小説という繋がりから『ゴッドファーザー』とその続編のことを思い出しました。

 

今作では文章の体裁も変わり、一人称での語りから三人称での描写に変わります。町に残った双子の一人はリュカと呼ばれていることが分かりましたが、前作とはかなり印象が違うので一人称と三人称との違いはこれ程大きいのかと驚かされます。前作の印象だと双子は才気煥発で商売も上手くて、哀しみを帯びつつも強かに世の中を渡り歩いているようでした。ところが、今作のリュカは町の人から「狂人」呼ばわりされていて、なおかつそれを気にしてはいけないと自分に言い聞かせているような所もあって、一見すると今まで通りの抜け目ない悪童なのだけれど、人生への疲れが所々に見え隠れしているように思えました。三人称から受けるそんな印象は、作中の町の人の視線とも重なっていて、司祭や党書記のペテールなど心ある何人かの人はリュカのことを強く心配しています。思えば前作でも、双子が巧妙にやってのけた女中殺しのことを司祭はちゃんと知っていました。今作でもリュカの悪童ぶりは健在で、物語終盤に読者をあっと驚かせるような事実も明らかにされるのですが、そういうことも町の人は大体わかっていたのではないかと思うのです。アリバイ作りみたいなことが得意なリュカは、罪に問われるようなヘマはしません。けれども周りの大人たちは、リュカのことをリュカ自身以上にちゃんと分かっていたのだと思います。

 

今作では年齢も境遇も様々なキャラクターが登場しますが、一番強く印象に残ったのは孤児のマティアスでした。相方を失ったリュカが次に自分の支えとして求めたのがこのマティアスでしたが、一方ではクララの元へ通ったり放蕩を繰り返したりと、リュカの愛情の焦点は定まりませんでした。マティアスは、良い意味でも悪い意味でも普通の子です。それゆえに、リュカが見ることの出来なかったことや見なくても済んだことを、子供ながらも見通していました。かつての自分を救うような気持ちからか、リュカはマティアスのことを慈しみ、スパルタ式の教育で生きる知恵を叩き込もうとします。醜いマティアスは学校で虐められてしまいますが、凶器をもって相手に立ち向かわせようとするリュカに対して自分はそんなことは出来ないと抗議します。そして、双子のクラウスと一緒だったために一人では無かったこと、美貌のために周りの大人たちから度々可愛がられていたことなど、リュカだからこそ出来たことをマティアスは喝破します。確かに、リュカと同じようなことをしろと言われてもそう簡単に出来るものではありません。前作『悪童日記』で、物語序盤で早くもリュカは生き物を殺す術を身につけてしまいますが、普通の人間にはそれが出来ないものなのです。その点、マティアスは読者の視点に近くて、私にとっては、リュカのことを魅力に感じつつもどこか好きになり切れない理由をマティアスが説明してくれたように思えました。

 

未亡人のクララや、同性愛を隠すペテール、父を愛したヤスミーヌなど、物語には孤独を抱えた人が沢山登場します。そんな登場人物たちの間で、色々な人間関係がありました。独りでは駄目だし、三人でも駄目、二人が一番安定する関係なのだけれど、相思相愛でない二人が繋がったり嘘が混じっていたりすると、却って破滅的な結果になってしまう。前作では、気に入らない人間は殺せばそれで済んでいたリュカですが、今作ではそうした悪事が祟って一番失いたくないマティアスを失うという結果を招いてしまいました。形は違えども、姉を愛していると自分に言い聞かせ、姉との同居生活を決意した結果、姉を殺すに至ってしまったヴィクトールの運命は、リュカの運命と似ています。生きるために仕方なかったとは言え、幼い頃に人工的に人間性を作り上げてしまったツケは大きく、マティアスの死を反省をする暇すらリュカに与えないまま、あっという間に20年30年の歳月が過ぎていく所には、運命の残酷さを感じました。一作目と比べると、謎の仕込み方が巧妙で、推理小説のように理知的になりすぎた感じは受けましたが、人間関係の難しさや心の傷の深刻さについて深く考えさせてくれる物語でした。

 

アゴタ・クリストフ『悪童日記』

読書

 

悪童日記 (Hayakawa Novels)

悪童日記 (Hayakawa Novels)

 

 

 

戦争中、疎開先のとある「小さな町」でおばあちゃんと暮らす風変わりな双子の少年が、暴力・犯罪・貧困・虐め・強制収容・略奪など、ありとあらゆる社会の闇に晒されながらも、強く静かに生きていく物語です。

 

無力感や怒り、哀しみなど、様々な感情を沸き起こす物語でした。満足に食事も出来ず風呂にも入れない子供たちや、誰にも愛されず自分を傷つけてしまう女の子、そして毎日空襲に脅える町の人達などの姿を見ていると、自然と気持ちが引き締まります。人によって感受性は違うものだから、必ずしも外から見えることが人の幸不幸を左右するとは思いません。しかし、戦争や搾取には、絶対的な悲しみがあると思うので、それに比べて今自分の身の回りにある世界がどれだけ恵まれているかと、改めて気付かされました。この物語のモデルになっているのは二次大戦だけれど、今だって世界から戦争が無くなった訳ではない。派手な戦争以外にも、社会には様々な暗部がある。それを思うと、自ずと意識が外へ向かっていきます。

 

主人公の双子の少年ですが、率直に言うと、この二人には少し複雑な感情を覚えました。好きとも言えないし嫌いとも言えません。体を鍛えたり心を鍛えたり、時には生き物を殺す訓練などもして何ものにも動じなくなったこの二人に対して、それが可愛げが無いとか言う意味ではなしに、怖さを感じるのです。内向的な人間が黙々と鍛錬に励むというのは良くあることなので、それ自体には何も思いません。躊躇いなく人を殺すような、非人間的な能力を訓練によって身につけるというのも、対人恐怖症の本や小説の中でそういう症例をいくらも見たので、無力な人間が生きていくためにはむしろ必要なことだと思います。例えば三島由紀夫の『仮面の告白』でも、視線恐怖に打ち克つために、主人公が電車の中で赤の他人の眼をジッと見つめるという訓練をしていたりしたので、そこには違和感はありませんでした。

 

しかし、この双子には、強くなっていく過程の中に葛藤がありませんでした。ある日、おばあちゃんの所に預けられたかと思うと、苛酷な環境の中あっという間に訓練で強くなっていきました。苦しみや悲しみは、少なくとも描かれてはいません。強くなった後にもそれは同じでした。隣人の「兎っ子」が図体のでかいガキに虐められている時も、すぐには助けず、その子がどんな風に振る舞うのか「観察していた」と言います。助けない訳では無いけれど、一面では自分たちの見識を増やすために「兎っ子」を利用している。そのことに、双子が何を感じているのか分からないのが怖いのです。感じてる余裕など無い、というのが実際かもしれません。しかし、自分達は傷つく素ぶりもなく、ひたすら労働と自己鍛錬に励み、大人も凌ぐ賢さで強かに勝ち続けるというのが、小さな子供にしてはあまりにも強すぎるために、不気味に感じるのです。タイトルは悪童日記と付けられており、確かにその通り盗みも殺しもやるのですが、よくよく見れば双子の行為は全て筋が通っており、大悪とも大善ともどちらともつかない、底知れぬ闇の深さも感じました。

 

傍観者で居られるというのは、それだけの力があるか、そういう恵まれた身分にある時だけです。そうでない人間は、争いや憎しみの渦中で必死に生きなければいけません。ただ、渦中で生きることにどうしても耐えられない状況もあって、そういう時には、感情に振り回されるのを辞めて、感情を殺したり、心理的に傍観者に徹してしまうしかありません。そういう意味では、この双子のような人生に対する態度が、今を必死に生き延びざるを得ない読者にとって、生き方の規範になるかも知れないと思いました。双子は生き物を殺すことに慣れており、死を直視することが出来ます。哀しいことですが、一つ上の現実を生きる人間は、誰にも負けないものだと思います。

 

考え方や感じ方が分からなさすぎるのが双子に対する不安の原因ですが、とは言え、双子はただ分かりづらいというだけで、人間みな、他人の考えなど分からないし、もっと言えば自分の考えだって分からないものです。最初はあれだけ仲の悪かったおばあちゃんと双子ですが、いつの間にか双子がおばあちゃんの側を離れたがらないようになっていたり、あまり双子と打ち解けず、しばしば悪態までついていた従姉が別れ際には涙を流すなど、人間の単純ではない色々な側面が見られたのは救いでした。

 

物語の終わり、薄情な父親を騙し討ちにして殺した後、双子のうちの一人は国境を越えて逃走し、これまでずっと人生を共にしていた二人は、離れ離れになります。振り返って見れば、ずっと冷静で賢く見えた双子が唯一弱い面を見せたのが、学校で離れ離れにされてしまった時でした。おばあちゃんの所に疎開してきた後も、二人は知恵を使って学校へ行かなくても良いように計っています。そんな二人が、なぜ自分達から離れ離れになる道を選んだのかは分かりませんでしたが、賢明な二人のことなので、いつか引き離されてしまう時のために、今の内に別々に生きる訓練が必要だと考えたのではないかと思います。

 

これまで、とても強く生きていた二人ですが、忘れてはならないのが、二人はいつも二人であり、決して一人になったことは無かったということです。虐められ、屈辱的な仕打ちを受けていた兎っ子は、なぜ自分で身を守らなかったとでも言いたげな双子に対し、三人の大きな男の子を相手に自分に何が出来ただろうと言いました。一人というのはあまりにも無力です。二人と三人、三人と四人の違いに比べて、一人と二人の違いは圧倒的に重いのです。二人一緒にいることで強く生きて来られた二人が、別々に離れてしまった後にどうなってしまうのだろうか、多分違った成長があるのだろうと思いつつも、その先に何が待っているか分からない怖さも感じました。

 

斉藤洋『ジークII ゴルドニア戦記』

読書

 

ジーク〈2〉ゴルドニア戦記 (偕成社ワンダーランド)

ジーク〈2〉ゴルドニア戦記 (偕成社ワンダーランド)

 

 

竜を操る女王・カリョービカ率いるブラウニア軍の侵攻を受けたゴルドニア。かつての敵国を救うため、ジークはジルバニア軍を率いて援軍に駆けつけます。戦に破れて主従数騎になりながらも、流浪の果てにカリョービカを倒す、英雄ジークの活躍を描いた物語の一篇です。

 

『ジーク 月のしずく日のしずく』の続編です。イラストが追加され、ジークやバルの顔がよく分かるようになりました。国王の座を辞退して悠々自適な暮らしをしていたジークですが、またしてもバルから厄介ごとが持ち込まれ、冒険の世界へと駆り出されて行きました。今回の舞台はゴルドニアです。前作までは仇敵として互いに憎み合って来た国ですが、ジークの手柄で和解が成立した今、この国を助けるためジルバニアは援軍を派遣しようとします。その総大将に選ばれたのが、王族であるジークだったのでした。

 

先がどうなるのか全く読めず、意表を突かれることが多くて面白かったです。もう序盤の展開からして、早くも目まぐるしく進んでいきます。ジルバニアを出発した早々、いきなりジルバニア水軍とゴルドニア水軍との派手な戦いが始まり、ジルバニアは見事勝利します。しかし、その後の上陸戦で敗れて軍勢は全滅、ジークは単身、命からがらゴルドニア本土へ逃げ込みます。援軍の総大将としてジークが華々しく戦うのかと思いきや、あっという間に負けて落武者になってしまったので、この時点で、想像していた戦記とは全く違うのだなと思わされました。そこからは、スパイとして働く「銀のサソリ」の兵士たちと共にゴルドニアを放浪しますが、サランとは違い癖のあるメンバー達だし、いかんせん敵地に孤立しているため、どうしたらゴルドニアを救えるのか見当もつきません。敵の竜の力があまりにも強いので、孤立するジークに逆転の目はあるのか絶望的に見えましたが、最後は急転直下、ゴルドニア解放へと収束していきました。最初こそ随分偉くなったように見えましたが、ことが始まってみれば、相変わらずかつての狼猟師のように戦っているジークだったのでした。

 

しかし、意外な展開に面白さはあったものの、戦記と言うからには、大規模な戦の場面をもっと見たかったです。まともに戦ったのは最初の海戦ぐらいで、その後はジルバニア軍があっさり壊滅してしまったため、前作と同じような放浪の旅になってしまいました。せっかく将軍になったバルも、今回は早々と捕虜になってほとんど出番がないという体たらくで、サランやロッカなど他のキャラも同様に見せ場がありません。もともとジークたちは戦が初めてでしたし、その上竜が相手とあっては、あまりにも分が悪すぎました。

 

ゴルドニアを逃げ回っている時、関所を突破するために、銀のサソリのケンブランがわざと主君のジークを殴る場面がありますが、これは勧進帳の趣向そのままですね。言われてみれば、ジークは義経と幾分似ている所があるかも知れない。貴種なのだけれど山育ちで、フットワークが軽く、武勇に長けている。船戦にも強かったですし、国王の代わりに遠征に向かう王族というのもそれっぽいですね。眼帯をつけている所は伊達政宗のようだけれど、オッドアイになるとジークだけのユニークさ。日出処の天子もそうで、異様な特徴を持った貴公子というのには、限りないロマンを感じます。

 

それにしても、今回の敵は非常に厄介な相手でした。前作の敵は大魔アーギスという化物で、今回も一応竜という化物が出て来るのですが、竜は操られているだけなので、真の敵は生身の人間です。しかもそれは、竜を操る一方で、自身は嫉妬と憎しみの感情に操られている女王なのです。前作は、言って見れば人ではない何か悪い化物を退治すれば良かったのですが、今回は人間のもつ嫉妬の感情と戦わねばなりませんでした。女王の側近は、女王と同じように憎しみを抱えた女たちで固められていましたが、憎しみで結びついた者同士に絆が生まれることは無いので、失敗をしでかした側近のパーミュラを女王が冷酷に葬ってしまう場面もありました。死ぬこともなく権力の座を追われたカリョービカは、その後どうなってしまうのだろう。今回のジークの冒険は、前作と比べるとかなり生臭かったと思います。

 

銀のサソリの混血の兵士たちや、ゴルドニアでの出会った人々との交流を経て、ジークは外国語を学ぶことを決意します。知らず知らずのうちに、国王になるための資質や意識を身につけていっている感じがしました。実際に国王になるかどうかはともかくとしても、前作の終わり方とは、確かにジークの意識は変わっています。政治的な理由やら何やら背景には色々ありつつも、山奥から世の中に出てきて、多くの人と関わり、結果的にジークが一人の人間として成長していっているのが良かったです。

 

本質よりも本音

日記

ツイッターを眺めていて思うのだけれど、人と人とのやり取りは、理屈じゃないなとつくづく思う。理屈を駆使して話そうとすると大概話にならなくて、相手を言い負かすことに力が入ってしまうし、お互いに歩み寄ることも無いから、ただの罵り合いになってる。本質的っぽいことを議論したがる人もいるけれど、そんなこと話さなくて良いと思う。どうせ本質なんて誰にも分からないんだし、理屈なんてものは結局は言葉で、言葉は使い方次第でいくらでも正義を作れてしまうものだから、これほど当てにならないものもない。人間、自分の発言や行動にもっともらしい理屈を付けたがるものだけれど、理屈を通したからといって何かが変わる訳でもない、その下にある本音と向き合わないと何も変わらないと思う。

 

ツイッターには変な人間が沢山いる。恋愛工学とかいう訳のわからない連中がいるらしく、呟きを見てみると詐欺師のような発言ばかりで嫌になる。しかも、その連中が競馬をやり始めたとか何とかいう話があって、競馬にとってはとんだ風評被害だ。競馬はそう簡単には行かないので、せいぜい負けて、農林水産省に山のように税金を払って欲しい。どうせすぐに飽きて辞めるだろうけど。