運は天にあり

内省の記録

会社辞めた

退職。一年ほど勤めた今の会社を辞めた。もともと自分のやりたいことではなかったので、やることやって義理を済ませて、さっさと縁を切ってきた。これ以上、ここの人たちと関わってられない。

 

辞めると言い出したとき、上司が色々と言い訳をしてきた。同じチームに4月に新卒で入った後輩がいたのだが、この後輩を散々いびり、挙句に左遷させたことの言い訳をし始めたのだ。聞いてもいないのに喋り始めたのは、やはり、うしろめたいと思いつつやっていたということだろう。

 

こういう事情があったらしい。この後輩、会社に入るにあたって、結構な待遇を要求していたとか。なんでも、ほかの会社の内定ももらっていて、それなりの待遇を約束されていたので、もっといい額をくれるならこの会社に来ると、条件を出していたという。新卒だと言うのに、実に強気である。

 

無茶なことをするなと思った。無茶は無茶でも、なんか不思議だ。こういうことをやらせてくれ!という無茶なら、わかる。若さゆえの蛮勇だ。これだけの待遇をよこせ!というのは、全くわからない。自信があるのなら、待遇なんて後からいくらでもついてくるだろう。初めから高待遇ありきというのが、特権意識全開で嫌な感じだ。

 

しかし、後輩はあまり仕事が出来なかった。しばらく様子を見ていても、芽が出そうになかった。それで、給料分は働けという意味で厳しくしていたという。ただし、それは建前の話。本当は、高い給料がもったいないので「居心地を悪くして」辞めさせようとしていたらしい。左遷先は、追い出し部屋だ。

 

この後輩のことは、私も大嫌いだった。一見、目端が効くように見えて、実はあんまりモノを考えていない。慇懃なようでいて、人を舐めている。不器用で粗相をしてしまうという感じじゃなく、スマートな風で、性根で人を見下しているタイプだ。事情を聞いて、高慢なこの男らしいなと思った。

 

とは言え、採用の判断をしたのは上司だ。「彼は自分を大きく見せるのがうまかった」と、まるで自分が被害者かのような言い訳していたが、この後輩は面接で採用をした訳ではない。もともとバイトとして働いていたのである。ある程度一緒に働く期間があって、その上で採用を決めたのだから、仕事が出来ないのは採用者の判断ミス以外のなにものでもない。

 

採用に失敗したうえ、指導して育てるということも出来なかった。会社の業績が悪かったので、後輩への高い給料はなかなか負担だったらしい。で、急に待遇を下げるわけにもいかないから、パワハラで辞めさせる、という発想である。

 

これが、言い訳として成立すると思うかね。無能な上に卑劣という、最悪の印象。日頃の言動で人間性は分かっていたから、別に驚きもしなかったけれど。これを話せば弁解になると思うあたり、この人の人間関係は、共犯関係だけで造られているのだろうなと思う。

 

精神論とかキレイごとが大好きな人だったな。社会貢献とか言い出したこともあったが、いざとなればこの通り。自分の失敗を隠すため、責任を立場の弱い方に押し付ける。雇用を確保するのも、社会貢献のひとつなのだけれどね。身の回りで出来ることはやらず、バレなけれはどんな悪事でもやるというのが、いかにもスノッブらしい。

 

登場人物が、ろくでもない奴ばかりだった。今まで歩んできた自分の人生と、交わるものが一つもない。いざという時に手段を選ばないのなら、こっちにも守る義理はないよ。ここを辞めても失うものはないし、今さら守るべき世間体もないし。フットワークが軽いのが、アウトサイダーの強みなのだ。

坐禅再開

しばらく休んでいた坐禅を、再開することにした。失われた集中力を回復したいので、とにかく出来ることをやり続けたい。

 

どういうものが禅なのかは、やはりよく分からない。形を真似することは出来るけれど、体験を真似するというのは難しい。禅とはどういうものか、「禅は心のゴミ捨て場」とか、色んな比喩で表現されるのを聞くことはあるが、禅の教え自体、言葉を否定するような所があるので、表現の仕方もとても曖昧だ。

 

それでも、自分なりに掴めてきたものがある。

 

雑念を止めるというのは、呼吸を止めるのに近いと思う。実際、呼吸を止めてみると、思考の方も止めやすくなる。そのままピタッと止めていると、呼吸をとめたのと同じように、苦しくなってくる。身体は震え、汗が流れ、のたうち回りたくなってくる。堪らずに吐き出すと、今まで止めていた分の雑念が、どっと溢れ出てくる。苦しみの場所は違えども、呼吸と同じような流れの循環が、思考にも存在するのだと思う。

 

自己流なのかも知れない。呼吸を止めるように思考を止めると、座禅の三十分は恐ろしく疲労困憊する。

 

言葉で表現するのはとても難しいが、思考が止まった先に見える世界がある。頭の奥深くに、キリキリと痛む場所が出来る。それが、だんだん痛気持ちいい感じに変わる。その場所は、次第に高熱を発するようになり、脳みそがトロトロと溶け出すような不思議な感覚に変わってゆく。溶けた脳みそは、マグマのような唸りを上げて渦を巻き、血管を膨張させ、蜘蛛膜下出血を起こすのではという死の恐怖を呼び起こしたかと思えば、閃光のような清涼感に変わったりもする。

 

とにかく、意識が外に飛ぶ。内に篭ろうとする意識が、弾き返されるようになる。恐ろしく疲れたように感じる一方で、爽やかにリフレッシュしたような感じもする。

 

手応えが掴めてきた。言葉や記憶で堂々巡りになってしまう意識を、外へ追い出していく感触を掴めたのは、とても大きな成長だと思う。

 

理屈ではなく、身体を使い、体験や感覚を通して学んでゆく。仏教の教えの、言葉を否定していく所はとても魅力に感じる。禅語録の中では僧同士がよく殴り合いをしているが、こういうのもちょっと憧れるな。

 

言葉と人

ショックな光景を目にしてしまった。ツイッターで、社会問題についてのツイートをよく見ているのだけれど、ちょっと自分の感覚では信じられず、どうにもやるせなくなってしまうことがあった。

 

法律の知識が豊富で、弁の立つ人がいた。その人は、とある社会問題について日々精力的にツイートしていて、それなりのフォロワー数を持っていた。

 

時折タイムラインに流れてくるこの人の言葉に、私はぼんやりと違和感を感じていた。知識だけがペラペラと流れていて、この人自身の人間性が全く感じられなかったからだ。自身の素性をまるで書かない人で、なぜこの人がこの問題に取り組んでいるのか、まるで見えてこなかった。

 

ある時、この弁士がいつものように滔々と言葉をまくし立てていたところ、反発してくる人があった。プロフィールを見れば、まだ10代の子だった。一見、文面上では論理がかみ合わず、なぜ反発するのかわからなかった。しかし、この子の言葉には強い気持ちがこもっていて、何かあるな、と思わせるものがあった。両者がやりとりをしていくうち、この子は、問題の被害者だということが分かった。

 

こうなると、話は理屈ではなく気持ちの問題だ。当事者の視点から見て、部外者である弁士の言葉に引っかかるものがあったということだ。分かる。この人は、いちいち発言が鼻につく。側から見ても、知ったような口を利くな、と思うことも多かったのだ。

 

ところが、気持ちで語っているこの子に対して、弁士は気持ちで返すことが出来なかった。「自分はそんなことは言ってない」「論点が違う」など、議論で使うような言葉で返すばかり。自分のフィールドから一歩も出ようとしないのだ。若い子の方は頑張るのだけど、こういう形だと知識のある方が有利に決まっている。二人のやりとりは、片方が相手を一方的に追い詰めるような、嫌な流れになっていった。

 

自分の受けた被害について語るということが、どれほど苦しいことか。当事者には、傍観者には分からない沢山の葛藤がある。言った言わないの話、論点がどうのという話、もっともらしい正論、議論の勝ち負け。そんなことは、どうでも良いのだ。自分が正しいと主張するためだけの言葉を、明らかに不利だと分かる若い子に向かって行使する大人気なさ。しかしこの弁士は、それ以外の言語を持っていないのだった。

 

若い子の方は、話をしたことで色んなことがフラッシュバックしてしまい、苦しみの言葉を残してアカウントを消していった。弁士の方は、早速今の出来事の講釈を、取り巻きに向かってやり始めた。尊大な物言いで、被害者を甘やかすつもりはない、とでも言いたげだ。あの子も時間が経てば気付くだろうと、あくまでも自分が正しく、相手がバカだという姿勢を崩さなかった。

 

当たり前だと思っていたことが、ここまで通じないということが悲しい。当事者を置き去りにした運動に、一体何の意義があるというのだろう。この人がやって来たことは何か。反対する人を言い負かして、トロフィーを見せびらかすように自分の言葉をリツイートしていた。デモを煽りながら、本人は何かと理由をつけて参加しなかった。自分のプロフィールすら明かさずに、必要以上に問題に立ち入り、あたかも救済者かのように振る舞っていた。

 

正義のヒーローを演じることが、楽しいのだろう。法律や社会学の知識も、どこかマニアックな所がある。そして、目の前の被害者には冷淡である。

 

この手のタイプは、良く「本質」という言葉を持ち出す。自分は本質を分かっている、お前は本質を分かっていないという話にしたがる。けれど、当事者以上にその問題を分かっている人などいるはずがない。当事者が良いと言っていること、嫌だと言っていることを全て否定して、自分が相手を「教育」するつもりでいる。傲慢だ。

 

一見正しそうに見えることでも、それを積み重ねていった結果が、正しいものになるとは限らない。むしろ、逆だ。なぜなら、現実はもっと複雑で、言葉や論理できれいに割切れることばかりではないからだ。

 

模範解答を出すことに長けた優等生タイプが、人を不幸にするのを何度も見てきた。言葉や論理が悪い訳ではない。が、彼らはマウントをとるために論理を行使するくせに、都合が悪くなると驚くほどアッサリと論理を捨て、無茶苦茶な暴力を押し通そうとする。賢いぶん、言い訳もうまい。

 

やはり、人だなと思う。個人を離れたところに、正しいことも悪いことも存在しない。直感で感じた違和感には、絶対に正体がある。

生きづらさについて

先日、街なかで見かけたチラシに惹かれ、とある講演会に行ってきた。雨宮さんという、貧困問題に取り組んでいる作家さんの講演だった。テーマは、生きづらさ。雨宮さん自身の人生のことや、生産性至上主義の息苦しさのこと、自殺のことなど、生きづらさに関する様々なお話を聴いた。

 

雨宮さんが20代を生きた時代は、バブル崩壊のころ。就職はとても困難で、フリーターとして暮らさざるを得ず、周りにも同じようなフリーターがたくさんいたそうだ。雨宮さん自身は作家としてデビュー、フリーターから脱却することが出来たが、そうでない周りの人たちは、30という年齢を節目として自殺していく人が多かったという。

 

ある人は、何百社も面接を受けたが採用されず、絶望して自死を選んだとか。社会が価値を認めているのは、生産性の高さ、そればかり。生産性至上主義が当たり前のようになり、生産性のない者は、生きる価値すら見出せない世の中となってしまっていた。

 

貧困は、自尊心の低さそのものなのだと思う。自分には価値がないと突き付けられることは、本当に辛いことだ。自尊心の低い人には、どこか影がある。他人に見つからぬよう、何とかそれを隠そうとする。けれども、どういう訳か他人は敏感にそれに勘づき、隙あらば精神論をかまそうとする。「甘えるな」「自己責任」「もっと辛い人はいくらでもいる」。貧困を知らない人や、他人に先制攻撃をかけずに居られない不安定な人は、特にそういうことを言いがちだ。

 

そうして、自尊心の低い人は、何を言っても否定、何をしても否定の関係性を強いられてしまい、いつも不利な立場におかされてしまう。だから、ますます貧困は深まるばかりだし、ますます他人に心を開きづらくなっていく。

 

生産性至上主義というのは、悪だろうか? 私は、そう言い切るのは難しいと思う。生産性という答えがあると、楽なのも確かだからだ。

 

自尊心の低い人は、頭が弱い。頭の良し悪しとは別に、傷を負い、頭が弱くなってしまっている。まともに考えることはもう出来ないから、騙されたり、馬鹿にされたりしながら、ヘラヘラしている。誰にも価値を認められず、自分ではどうしていいか分からない。

 

そこへ来て、生産性至上主義というのはありがたい。働けば働いただけ、ただそれだけで自分の価値を認めてもらえるのだから、こんなにありがたい話はないのだ。単純に労働時間を増やすだけで、自分の居場所が出来る。ブラックかどうか、搾取されているかどうかの判断なんてしたくない。辞めて、果たして他に自分の居場所は見つかるのだろうか? 

 

雨宮さんの言葉に、自分に嘘をつくのがいけない、というのがあった。大いに納得した。怒るということが大事だ、というのもあった。これも大変納得した。気力が尽き、怒ることすら出来なくなってしまっている場合も多く、実際は怒るというのはとても難しい。しかし、怒りも大切な感情のうちの一つ。嫌な時にまでヘラヘラしていなくたっていい、怒りの感情を忘れてはいけないのだ。

 

講演で聴く言葉の断片と、かつて自分の中を去来した言葉の数々と、重なるところがいくつもあって、とても感慨深かった。

 

自殺は、就職難ばかりが原因ではない。家庭環境が大きな生きづらさになっている人もいる。そして、親への当てつけのために、自殺を選ぶ人もいたという。

 

メアリ・シェリー『フランケンシュタイン』を学生の頃に読んだ。これは、人工的に産み出された怪物が、その醜さゆえに誰からも愛されることなく、孤独の世界に苦しみ抜き、最後には産みの親であるフランケンシュタイン博士を殺して自分も死んでいくというお話し。当時読んだ本の中で、ほとんど唯一と言っていいぐらい共感を覚えて読んだものなのだけれど、自殺の話を聴いているうち、この物語を思い出さずにはいられなかった。

 

本当は、独りで思い詰めずに誰かに頼ってもいいし、うまくいかずどうしようもない時には、他人のせいにしても良い。個人の力になど、限界があるのだから。けれど、憂さ晴らしに弱いものに当たったり、ヘイトを撒き散らしたりする、他罰的な人間の多さを思うにつけ、自分だけを傷つけて終わろうとする自殺者の善良さに心を打たれる。

 

誰のことも恨まず、社会のせいにすることもなく、罪を独りで背負って死んでゆく。無気力と諦めの境地に至ってなお、親を意識するのはなぜだろう。哀しいけれど、あらゆるものに心を閉ざしてしまった人に残された、最後の人懐っこさのように思えてしまう。

 

心に残る言葉

先日の占い師との会話を今も思い出している。占いが初めてだったので新鮮に感じる言葉もあったし、長いこと話をしていたので、印象に残る言葉もあった。中でも深く心に残るのは、自分に対する言葉よりも、その人自身の生が宿った、ふと溢れ出るような言葉だったなと思う。

 

人を動かす言葉、心に残る言葉って、どんなものなんだろうな。そんなことを考えさせられた。

 

私は、自分に対して向けられた言葉というものを信用していない。なぜなら、この人は私の何を知っているのだろう?と思わされることがほとんどだからだ。表面的に、こういう所を見てこういう事を言うのだろうな、というのは分かる。それが、あまりに浅すぎるので、聴くに耐えないのである。

 

アドバイスなんてものが役に立ったことは一度もない。それが出来れば苦労はしない、と一蹴したくなるような身もふたもない精神論だったり、既にやり尽くしてダメだったことを、こうしてみたらと軽い思いつきで言われるなど、見当外れのものばかりだった。

 

相手が自分を見ているとき、自分もまた相手を見ている。偏見に満ちた見当外れのことを言っておきながら、その後なにごとも無かったかのように接してきたり、見直した、認めてやると言わんばかりの姿勢で近づいてくる人がいる。その人の言葉に、二度と耳を傾ける気にはなれない。

 

私は、「意外」という言葉が嫌いで、この言葉を他人に対して使う人は見下げ果ててしまう。意外だと感じるのは、その人を見誤っていたと言うこと。もっと言えば、その人に対して偏見を持っていたということだ。それをわざわざ口に出すほど失礼なことはなくて、それを失礼だと思えない感覚が恐ろしい。世界の多様性を受け止める準備がないと自己申告しているようなもので、準備のない人は、都合の悪い「意外」を知った時に必ず豹変する。

 

人が他人について知れることなんて、本当に限られてると思っている。まして付き合いの浅い人なら。だから、私はどんな可能性だってあると思っているので、他人の素性や過去をあれこれ聞いたりしない。無関心だと思われようが、そっとしておく方が良いことだってある。それまで知らなかったことを知ったところで、そういう人だったのかと受け止めるだけで、驚いたり失望したりすることはない。意外なことなんて、この世の中に存在しないと思ってる。

  

言葉で無理に心を動かそうとする人。これはもう、はっきりと敵と言っていい。見え透いた人心収攬ほど汚らわしいものはないね。この人になら騙されてもいい、と思えるかどうかは、その人の魅力次第。作為は、洗脳と同じことだ。

 

作られた言葉は良くないのだろう。狙うと、外れる。何となく、が良いのだと思う。その場の流れや、お互いの関係性から、何となく溢れでた言葉が、相手に響く。そう言う言葉を持っている人はすごいなと思う。聞く人は、その人自身の問題意識に合わせて、その人なりの意味を汲み出していく。的外れな助言もどきより、どれだけ心に残るか知れない。

宿曜との出会い

数ヶ月前、近所に占い屋が出来た。通るたびに気になっていて、いつか行ってみたいと思っていた。なかなかきっかけが無かったのだけれど、最近、占って欲しいことが出来たものだから、思いきって店に入ってみた。

 

占いをしてもらうのは初めてなので、事前に店のホームページを見てみる。所属する占い師のリストを眺めていると、占い師の名前というのは面白いなと思う。みんなバタ臭くて、宝塚の芸名のようである。スケジュールを見ると、「出勤」ではなく「出演」と書かれている。こういうものなんだ、と新鮮に思うことしきり。ここだけ、世界が違うみたいだ。

 

私はもともと、占いや運勢というものに全く興味は無かった。人間の力しか見えていなかったからだ。それが変わるきっかけになったのが、博打。競馬をやるようになって、運というものを強く意識させられるようになった。

 

競馬は人間の作ったものだから、人間の力で、パターンを読むことも出来る。しかし、パターンがわかるということは、同時にパターンが万能でないことを知ることでもある。人間社会のもっと複雑なことなら、成功も失敗も何かしら理屈をつけることが出来るだろう。競馬ほど単純で限られた仕組みの中だと、どうやっても説明のつかない結果も多い。クビ差ハナ差の勝ち負けなんて、理屈を超えている。おのずと、人智を超えた運の存在に辿り着く。

 

占いのことは全く分からないので、誰を指名するでもなく、行き当たりばったりで店に入っていった。一口に占いと言っても、タロットカードとか手相占いとか、色々な分野があるらしい。その中で、私が見てもらったのは、宿曜占星術を専門とする占い師。四十半ばぐらいのおばさんだった。アンケートに必要事項を記入したあと、向かいあって問答が始まる。

 

カードをめくって、出てきた内容にコメントをもらったりするのは楽しかった。はじめは勿論、占って欲しいことについて話をするのだけれど、占いだけでなく心理も良く診る人だったので、占い以外のこともかなり話した。例えば、私が昔服用していた薬のことなどを話しても、良く通じる。結局、30分料金なのに、1時間半も話してくれた。

 

深く印象に残った言葉があった。人間関係について、人の悪い面、短所ばかりを見てしまい、長所が見られないという話をした。すると、強いて長所など見る必要はないと言われた。長所と短所は裏表だから、短所が分かれば長所も分かったも同然なのだと言われた。

 

人の悪い面ばかり見てしまうことに、ずっと罪悪感があった。良い面を見ようと必死に考えるのだけれど、考えようとすればするほど、頭の中が真っ暗になり、見えない壁に妨げられ、それ以上先へ進めなくなってしまっていた。だから、この言葉はとても新鮮で、救いになった。どうして周りの人に関心を向けられないのだろう・・・と思い悩んだこともあったけれど、そうではなかった。短所ならスラスラ言える。言葉を変えれば、全て長所になる。それだけ、周りの人の個性を見ていたのだなと思う。

 

占いの世界を垣間見て、ちょっと視界が開けたような感じがした。新しい見方がひとつ増えたというよりかは、下流工程から上流工程へ視点が移ったときのような感じ。もっと広い視点に立って、人間を見ることが出来るようになった気がする。

 

宿曜占星術では、私の生まれは「柳宿」にあたるらしい。毒を持つ悪害宿のひとつで、独自の信念をもつ一匹狼の運命を持っている。柳のようにしなやかだけれど、その気性は激しく、善にも悪にもなれる資質を備えているのだという。

 

塩野七生『ローマ人の物語 ハンニバル戦記』

 

ローマ人の物語 (4) ― ハンニバル戦記(中) (新潮文庫)

ローマ人の物語 (4) ― ハンニバル戦記(中) (新潮文庫)

 

 

ハンニバルのことを知りたくて、いくつか本を読んだ。文庫本の長谷川博隆『ハンニバル』は、ポエニ戦争のことが一通りわかり、研究史の解説や参考文献も充実して、入門書にぴったりだった。モムゼン『ローマの歴史』は面白そうだったのだけれど、訳が読みづらかったのでやめにした。塩野七生ローマ人の物語』は、やはり一番読みやすく、ポエニ戦争をもっとも魅力的に語ってくれた。

 

高校生の頃に読んでいた本なので、昔のことも思い出す。昔から近代よりも古代の方が好きだったし、古代ローマの小説なんて珍しかったものだから、シリーズ通して夢中で読んだ記憶がある。中でも、ポエニ戦争を描いた「ハンニバル戦記」は熱かった。孤高の英雄に弱かったので、ナポレオンや謙信などと並んで、ハンニバルは好きな人物の一人になっていた。

 

今、『ローマ人の物語』を再読してみると、今度はローマ側に魅力を感じることの方が多かった。ハンニバルの魅力は相変わらずだ。だからこそ、今さらそこよりも、思い入れの薄かったローマ側のことが相対的に面白く映ったのだ。

 

ローマ人の物語』は、叙述に飾り気が少なくて、小説というよりも歴史の本のよう。図書館に行っても、だいたい世界史のコーナーに置いてあるし。一人称でも三人称でもなく、もっと高く遠い視点から、淡々と出来事を語っていく。史上の人物の顔が近すぎない所が好きだな。顔が近いのは塩野さんの方で、隙あらばヌッと出て来て持論を語り始めたりする。それなのに、古代の世界に引きずり込まれるような没入感があり、当時のムードが活き活きと伝わってくる。

 

ポエニ戦争一のハイライト、カンネの戦い。史上類例のない完璧な包囲殲滅戦で、ローマ軍は7万の兵を一挙に殺戮される。ハンニバル視点で見たら痛快で仕方ないのだけれど、ローマからしたら絶望以外の何者でもなかっただろうな。私も競馬で1日で7万飛ばしてしまったことがあるけど、その時は顔面蒼白になったもの。勝負レースがことごとく外れ、気がついたら取り返しがつかないことになっていた。完全にお通夜状態で、何もかも投げ出したくなる。でも、頭を抱えながら、どうやって取り返そうか必死に考えるね。そこから、大きな勝負をするのは辞めにして、小さな勝ちを長く続けるファビウス作戦で行こうと決めるのも、ローマ人と同じだった。

 

ローマの執政官は任期1年で交代するため、様々な人物が登場する。グズと罵られながらも、ハンニバルに「負けないこと」を徹底したファビウス、何度も何度もハンニバルに挑み続ける不屈のマルケルス、奴隷軍団を率いるグラックス、猪突猛進のネロ、等々。たとえ失敗をしても、そのこと自体で責められたりしないシステムと文化がローマにあるので、執政官たちは個性をのびのびと発揮出来るようになっている。これがあるからローマは強い。どんな強敵を相手にしても、多様性を武器に組織の力で戦っていける所は、ローマという国の一番の強さだと思う。ただ、スキピオだけは例外で、この人だけはローマという括りを超越している気がする。

 

一番印象深かったのが、執政官マルケルスの死の場面。なかなかハンニバルを倒せない焦りと苦悩から、偵察中に襲撃を受けて頓死するまで、死の影が静かに迫って来ている感じが何とも言えなかった。マルケルスの死を知ったハンニバルは、遺体を丁重に葬るように命じたという。ハンニバルにとっては、本当に邪魔で仕方のないキャラだったのだけれど、不思議と強敵を倒したという達成感はなかった。サグントゥム攻撃にはじまるポエニ戦争は20年近くも続き、アルプスを越えたハンニバルは、本国カルタゴで過ごした以上の歳月をイタリアで戦い続けていた。その心中はとても推し量ることは出来ないけれど、往年の宿敵マルケルスが死んだ時に漂う、憎しみの果てのような寂しい雰囲気は、何となく分かる気がした。