運は天にあり

内省の記録

悪の魅力

とある任侠映画で見た印象的なシーン。

 

任侠団体の事務所でごねるケバケバしい婆さん。覚醒剤の売人をしていたが、よその団体にシマを荒らされて困っているという。親分はまあまあと宥めるが、婆さんは親分を激しく詰る。あいつらを何とかしろ、それが出来ないのは腰抜けだ、と。一を言えば十返すの勢いで、婆さんは罵詈雑言を浴びせ続ける。側から見てもウンザリするぐらい、ヒステリックに喋り続ける。思わず、親分も閉口する。

 

おもむろに若い衆が動く。ガラスの灰皿を手に取ると、婆さんの脳天を勢いよく殴りつける。婆さんは一瞬で伸び、悲鳴をあげる暇もない。若い衆は続けざまにガラスの灰皿を振り下ろす。何度も何度も、婆さんの脳天に直撃を食らわせる。こらこら、死んでしまうがなと、親分は軽く嗜めるが、止まらない。

 

婆さんは死ぬ。骸を引きずってゆく若い衆。事務所に訪れる静寂……。仮に命があったとしても、間違いなく重篤な後遺症が残ったであろう。

 

「一方的に喋りまくって相手を黙らせる」ことを、処世術として身につけている人間がいる。ちょっと弁の立つことを鼻にかけた才子にありがちである。この婆さんも、そういう人間のひとりだろう。相手に考える暇を与えず、暴力的に言葉を畳み掛け、相手を追い詰める。確かに、それで「ゴネ得」できることは多いかも知れない。

 

しかし、いざという時に、そんな処世術は何の役にも立たない。

 

本人は自分の力だと思っていたことが、実は善良な人を困らせているだけだった、ということは往々にしてある。善良な人々とのやりとりの中では、マナーや常識が見えないバリアになってくれて、だからこそ許されることもある。悪人相手には、そんなものは通用しない。一線を超えたとき、必ず裁きが下される。

 

図に乗った婆さんに与えられた制裁は、殴る蹴るなどという、生やさしいものではなかった。もちろん、恫喝や脅迫という言葉の暴力でもない。淡々と急所に打撃を撃ち込み続けるという、殺すためだけの合理的な暴力である。粉砕された頭蓋骨、飛び散る脳漿。有無を言わさぬ暴力の前には、小賢しい処世術など無意味である。本当に、残酷なまでに、小細工が無意味である。

 

悪というも、職能のひとつである。他のあらゆる職業と同様に、素人が軽々しく真似出来るようなものではない。悪には悪で道があり、悪の道にはプロがいる。暴力団組織は厳しい縦社会であり、しがらみも多く、とても生半可な気持ちでやっていけるものではない。世間からは指定暴力団の烙印を押され、白い目で見られ、カタギと同じような幸せを享受することは出来なくなる。そういう困難も承知の上で、それでも悪の道を進みたい、進まざるを得ないというのが、プロの悪人である。

 

ものがものだけに、もちろんカルチャースクールでつまみ食い出来るような道ではない。素人は、一切真似すべきではない。ふつうの人間は、ふつうに善良であることを目指すべきだ。

 

一方、本物のプロとは別に、アマチュアの悪人というのも存在する。いわゆる半グレという奴である。カタギの世界にいながら悪事を働く、つまりは自分の身に保険をかけながら甘い蜜だけ吸おうという、腐った連中である。

 

いわゆる半グレというのは、特定のチームを指したりすることが多いが、私はもっと広い意味で捉えている。個々人のレベルで見ても、カタギの世界の恩恵を受けながら、反社会的なことや違法なことをしている人間は沢山おり、そういうのはほぼ同類と見なして良いと思っている。本業で稼げないから悪事に手を出す人間。権力を利用してやりたい放題する人間。知識を悪用して他人を騙す人間。そういうのを包括して、「半グレ化」と私は呼んでいる。

 

半グレ化した人間ほど胸糞悪いものもない。卑怯で陰湿で狡猾で、なんの美学も覚悟もなくただただ利己的に生きている。任侠道にあるような筋を通すという考えもないし、自分が生きてきた社会への恩義もない。悪いが、中途半端な半グレが本物の悪人にめちゃくちゃに破壊されるのは、爽快である。

 

私はマフィア映画や任侠映画が好きだし、ギャングスタ・ラップも聴く。『水滸伝』や『レ・ミゼラブル』に登場するロマンチックな罪人にも惹かれる。それは、魅力があるからである。

 

はっきり言って、悪にも資質がいるから、資質のない奴はこの道にいらない。魅力のある悪人はかっこいいからアリ。才能のないワナビーはダサいから死ね。悪ぶってるサラリーマンなんか、おぞましくてゾッとする。善にも悪にもなれないうえに、資本家になる才能もない雑魚が、たかだか自分の周りの半径数メートルの世界で粋がって調子に乗っている。善人にも失礼だし、悪人にも失礼。こういう輩が一番見苦しい。

 

善良であれ、さらに善良であれ、つねに善良であれ。善の魅力も悪の魅力も知った上で、誠意を持って善良であれ。

 

人間への畏れ

とあるラッパーの話で、とても共感出来る話があった。

 

このラッパーというのは、いわゆるギャングスタ系のラッパーで、ゲトーでの生活やそこからの成り上がりを歌にして歌っている人である。前科もあり、黒いつながりもあり、ラッパーにならなかったらその筋の人間になっていたという札付きの人物である。

 

平素はとても礼儀正しく、歳下の人間にも敬語で話すという。なぜかと言えば、過去に他人を侮って痛い目に遭ったことがあるから。ある時、大人しそうな人だと思って舐めてかかっていたら、あとで組の人間を連れてこられたことがあったという。しまったと、後悔した時にはもう遅かった。そういう体験をして来ているから、常に最悪の事態を想定して言動に気をつけているのだと言う。

 

さすがだなと思う。伊達に何年もストリートで生き延びてるわけじゃない。度胸が過ぎるがゆえの失敗もするが、重ねてきた失敗の分だけの知恵が身についている。かなり若いラッパーだけれど、年関係なく素直に尊敬出来る人だと思う。

 

日々、町ですれ違う様々な人々のことを思う。お互い氏素性もわからぬ者同士が、同じ空気を吸い、同じ景色を見て、同じ道を歩いている。考えてみれば、ストリートというのは壮大な場所だ。行き交う一人一人に人生があり、莫大な過去現在未来があり、それらが一つ所で何次元にも重なりあう様子は、さながら曼荼羅のようである。誰が敵で誰が味方かもわからぬ訳だから、同時に恐ろしい場所であるとも思う。

 

人間に対する恐れや畏れを知っているかどうかは、言動に如実に現れる。礼儀というのは、何より自分を守るのに必要だ。あらゆる人間の坩堝であるストリートで、他人を侮るというのは間違いなく自殺行為である。人間の怖さを知っている人ほど、下手なことはやらかさない。自然と言動も慎み深くなる。

 

一方で、小者ほど言動が「これみよがし」である。何をするにも、気取ったり、誇張したり、もったいぶったり。慎みがない。根底にあるのは自信のなさで、その自信のなさと自身で向き合えていないから、自分を大きく見せずにはいられない。そういうのがどれだけダサいか、どれだけ器が小さく見られるかという所まで、考えが及ばない。

 

小者は、強い相手には諂い、弱い相手には居丈高になる。自分が強い人間に絶対逆らえないものだから、他人もそうだろうと思い込んでいる。余りにも、人間を知らなさすぎる。どんなに弱い人間であっても、覚悟を決めた人間は恐ろしいもの。追い詰められれば人間タガが外れるもので、恨みの代償は必ず高くつくことになる。

 

こういう知恵は、知識や言葉ではなく感覚で身につけないと分からない。ラッパーならばそう、ストリートで培うストーリーが、そういう感覚を研ぎ澄ましていく。人生の序破急が、起承転結が、心を豊かにし、大きな人間を造り上げていく。

 

ところが、中途半端な人間の人生は、現状維持と事なかれの繰り返しである。成功も失敗もなく、大きな苦しみも悲しみも経験することがないまま、無為に歳を重ねてゆく。中庸と中途半端は似て非なるもの。そうして出来上がるのは、恐れも畏れも知らない、無礼で傲慢な中年である。つまらない人生の総決算が、無礼で傲慢な中年、なのである。

 

小賢しい処世術にすがり、醜いヘイトを撒き散らしながら、何の値打ちもない惰命をつないでいく人々。こうなってしまったら、あとは死以外に救いはない。

頭の良さ

「私、頭悪い人嫌いなんで」

 

ある時、同僚がつぶやいた言葉。こんなことを言う人だとは思っていたが、まさかこんなにはっきり言うとは思わなかった。

 

怒りや嫌悪感よりも、何よりも悲しい。人間の愚かさの罪が悲しい。どうして、こんなことを言えてしまうのだろうか。

 

30代、既婚、家持ち。世間体はとても良い人である。仕事もまあまあ出来るほう。だが、私は何度か我慢をしている。この人の頭の悪さに、何度か我慢をさせられている。

 

一見器用にこなしていそうで、実は細部が杜撰だったり。知識があると見せていながら、上辺のことしか知らなかったり。地味な仕事を舐めてかかって、手抜きをしでかすこともあり。そうして得てしてトラブルを招き、周りを困らすこともあり。

 

出来るといっても、まあこの程度。この人の尻拭いさせられたことも、何度かある。

 

頭の良し悪しなんて、所詮は相対的なもの。周りの人間次第で、自分が「頭の良い人」になることもあれば、「頭の悪い人」になることもある。状況によってもその尺度は変わるし、どんなことをするかによっても変わる。いわゆる頭の良さなんてものは、その程度のものでしかない。

 

この人の頭が良いとは思っていない。でも、そんなつまらないことを理由に、嫌いになったりすることはない。けど、この人自身がこんなことを言うとはなあ……。

 

「私、頭悪い人嫌いなんで」

 

さらっと言いのけたこの人の口調には、軽くウケを狙っている様子もうかがえた。なにそれ? 毒舌気取り? たかだかやっすい笑いのために、人を傷つけるようなこと言って欲しくなかった。

 

そもそも頭の良さってなんだ。そんなこと、考えたこともないのかも知れないな。考えたこともないから、単純にIQのことを指しているのかも知れない。

 

IQの高い人間は、トクをしている。古代や中世なら事情は違ったかも知れないが、少なくとも現代にあっては、IQ型の人間は計り知れない恩恵を受けている。学歴、仕事、収入……。

 

だからこそ、だ。陰と陽は二つで一つ、恩恵の裏には、恩恵を受けられない人の辛さが必ず潜んでいるから、軽々しく触れていいものじゃない。そういうところに気づけない頭の悪さこそ、厭うべきものなのは間違いない。

 

頭の良さっていうのは、総合力だ。色んな尺度で測らない限り、その人の頭の良さなんて分からない。IQだけで測るのは愚かなこと。むしろ、IQだけしか取り柄のない人間は、大馬鹿に転じやすいから危険だ。マーシーも言ってた、「東大出ててもバカはバカ」。気づいてる人は、ちゃんと気づいている。

強さ

強さとは何だろうか。色々な強さに憧れを持ちつつ、強さの裏を見て幻滅を味わううち、強さとは何なのかが分からなくなる。しかし、金を稼ぐ時にも人を評価する時にも、何かと使われがちなこの言葉は、生きていく上でどうしても避けることが出来ない。何をもって人を強いとか弱いと呼べば良いのだろう。

 

腕力の強さというのが、ひとつにはある。現実問題、結構この強さは幅を利かせている。けれども、さすがにこれをもって人を強いとか弱いとか言うのは低俗すぎる。腕力の強さに甘んじてきた人間が、長じるに及んで多面的な評価にさらされた時、さっぱりになってしまうこともよくある。

 

打たれ強さというのもある。辛い労働に耐えたり、理不尽なことを凌いだりする強さであり、これも、生きていく上で重宝されている。でも、なんか消極的だ。ただ鈍感なだけ、ただ恥を知らないだけの人間を強いとは呼びたくないな。そういうのは文字通り、ただ鈍感なだけ、ただ恥を知らないだけで、強いという言葉には相応しくない。ずうずうしいと言った方があっている。

 

気持ちの強さが、やはり「強さ」という言葉に一番しっくりくる。精神力とか、決断力とか、意志の強さとか、色々言い方がある。意志の強い人は、逞しい。決断の出来る人は、頼もしい。勝負事においても、気持ちの強さを持っている人というのは強い。

 

ところが、気持ちの強さというものの危うさを感じる出来事が最近あった。強さを感じつつも、果たしてこれは本当に強さと呼べるのだろうかと、強く疑問に思った。

 

自宅のアパートでの出来事。アパートの裏で、ゴミの不法投棄があった。壊れたテレビが捨てられていた。捨てられたまま何日も放置されていたようで、目障りだと思った周辺の住民から管理会社へ苦情が来たらしい。管理会社からアパートの住人に向けて、張り紙が貼られてあった。

 

張り紙にはこう書かれていた。ゴミの不法投棄があり、苦情を受けている。何か情報を知っていたら教えて欲しい。万が一、このアパートの住人が捨てているのだったら、すぐに辞めてもらいたい。今後もこんなことが続くようなら、共益費の値上げも検討せざるを得ない。

 

高圧的な言い方だった。犯人がアパートの住人だと決まったわけでもないのに、ひどい言い草である。共益費の値上げなどまるで脅迫みたいなものだが、ここまで言う必要があるだろうか? だいたい、不法投棄するような人間がわざわざ自分のアパートの周りに捨てるわけがなく、住人に対してこんなことを言うのはお門違いもいいところだ。

 

しかも、この張り紙は私の郵便受けの真上に貼ってあった。なぜかと言えば、ゴミが捨てられていたのが、ちょうど私の部屋の裏だったから。はじめにこの張り紙を見た時、とても驚いた。わざわざ当てつけのように、ほとんど名指しするかのように、これ見よがしに貼ってあったのである。

 

さすがにムッとする。これじゃまるで犯人扱いである。アパートの裏は隣の住居の裏側と2〜3m隔てて隣り合わせになっており、狭い路地裏とは言え公道になっている。近隣の住民や労働者が自転車を止めたりもしている。誰が歩いていても不自然ではないが、見通しが悪いので表の人通りから姿を見られることもない。外から来た人間が、こっそりモノを捨てたりするには都合のよい場所なのだ。

 

怪しいのは明らかに外部だろう、というのは置いておくとしても。私の部屋の裏にゴミがあったのは確かだが、それならそれで、心当たりがないか直接聞いてくれれば良い。そしたら、自分ではないと請け合うことも出来るのに。わざわざアパートまでやって来ておいてそれぐらいのこともせず、あえて嫌がらせのようなことをする了見が癪に触った。これでは、アパートの他の住人からの心象も悪くなってしまう。

 

管理会社に怒ってやろうかと思った。こんなことを言うのは筋違いだ。不法投棄があったのなら、まずは警察に連絡すべき。そして、管理会社が責任をもってその後の対応もすべき。張り紙の文言を読むと、とりようによっては、共益費の値上げを盾にして、住人の自己犠牲的な対応を促してるようにも見える。冗談じゃない。ゴミの処分にも金がかかるのだ。それじゃ、何のための管理会社か分からないし、不誠実も甚だしい。腹立たしい。張り紙も、当てつけにビリビリに剥がしてやろうかと思った。

 

ひとしきり怒りの言葉が頭の中を巡ったのち、ハッとする。何だか、いつもの自分でなくなったような気がする。怒りで我を忘れるとかいうことではなく、目に見えないものに取り憑かれたような感じがする。向こうがこう言って来たらこう言い返してやろうとか、徹底的に戦ってやろうとか、やけに勇ましく、自分が強くなったような感覚がした。

 

落ち着いて、どうしようか考える。まずは想像しよう。相手はなぜこんなことをしたのだろう。困っているからだ。クレームを受け、どう対処しようか窮した挙句、こんな中途半端な愚かなことをした。クレームをつけたのはなぜ。もちろん、クレームをつけた人も困っているから。そうして、巡り巡って、今また自分も困っている。見渡せば、皆んな困っている。

 

悪いのは、ゴミを捨てた犯人だけ。管理会社の人にも、近くに住んでる人にも、自分にも、争う理由は何もない。なのに、なぜか皆んながギクシャクしてしまっている。

 

たしかに管理会社は下手を打った。が、人間のすることなんてまあこんなものだ。いちいち腹を立てるのはよそう。それよりも、責任は管理者にあるからと、傍観を決め込むことの方が良くない。同じ土地に住む人間として、同じ社会に住む人間として、協力しなければいけないことがある。それぐらい広い視野で考えると、自分が何をすべきかもわかって来る。

 

一晩明けたのち、朝の始業時間を見計らってすぐに警察に連絡した。警察署が近かったので、まもなく2人の警官が来てくれた。事情を話し、現場を見てもらうと、これぐらいのゴミの量だと犯人特定が困難なので捜査は出来ないとのことだったが、行政への連絡などは代わりにやってくれた。張り紙のことを話すと、わざわざ管理会社への連絡までしてくれたのがありがたかった。

 

やるべきことはやった。あとは、自分の名誉を守るだけだ。警察官の人たちが去ったのち、張り紙をそっと剥がして捨てた。何日かのちには、ゴミも撤去されていた。

 

こんなことがあってから、自分の中に芽生える「強さ」に非常に警戒を抱くようになった。その時は、錯覚もした。我ながら言うべきことをハッキリ言えるようになったなと、愚かにも見誤った。だが、これを強さと呼んで良いのだろうか。この場合、自分の方に明らかに正論があったのだが、例えばもっと境目が曖昧な時、正論が必ずしも自分の味方になってくれない時でも、同じぐらいの気持ちで自分の正しさを主張出来ただろうか。

 

やっぱり、これは強さとは言えないと思う。言うべきことを言うのは確かに大事だが、もっと良い解決方法があるにも関わらず正論を行使するのは、ただの力の濫用だ。武器を使うのではなく使われる。知識を使うのではなく使われる。もっともらしいことを言っていたとしても、広い視野で見ればゴネているだけ、強さの証明どころか、むしろ弱さの証明になってしまっている。

 

下手に抗議をしたりしなくて良かったと思う。そんなことをしても何も解決しないし、何より自分らしくない。自分の個性とも強さとも離れた所で、空虚な正論だけが突っ走りそうになっていて危なかった。

 

仏陀は、人間の認識は相対的なものだと教えた。強さや弱さという認識も、もちろん相対的なものだ。自分より弱い相手に向かえば相対的に自分が強くなる、それは当たり前のこと。逆もそう。けれど、そんな当たり前のことがしばしば見過ごされがちになる。とりわけ、立場の強弱の違いが、人を錯覚させ知恵を失わせる。 

 

弱い人間ほど、力を手にした時に豹変する。身に余る力に呑み込まれてしまう。何度も見覚えがあるけれど、小者が権力を持ってしまうと、強い人の猿真似で偉そうな話し方をしたり、イキった尊大な態度をとったりするようになる。見苦しいことこの上ない。権力だけでなく、腕力やIQにしてもそう。それに相応しい器が備わっていない限り、力はむしろ害になってしまう。

 

立場の強さや力の強さに左右されない、内に秘めたる芯の強さこそ、真の強さだと思っている。力に頼る人間は力に負ける。自ら強いと自負する人ほど、上手の相手にあっさり食われる。自他の力に呑み込まれず、自分を保ち続けるのはとても難しいことで、多くの人が力に翻弄され、愚かなことを繰り返している。どんな時でも自分自身の弱さと向き合える人は、強いと思う。

飲み会

先日、会社の飲み会に参加した時のこと。まだ11月ながらイルミネーションに飾られた街中の、とある焼肉屋にてその飲み会は行われた。主賓は、今月50歳の誕生日を迎えるという人。コース料理の肉を囲んで、皆でその人を祝う。肉は美味しかったし、人も多勢集まったし、終始良い雰囲気の会だったように思う。

 

一見なにごともなく終わった会だった。だが、少し気にかかることがあった。それは、問題点というほどでもない、目に見えない小さなことではある。以前からなんとなく気にかかっており、今回をきっかけにはっきりその存在に気づいたこと。

 

会社にMという人がいる。若い独身の女の人で、歳はいわゆるアラサーに入る。屈託無くハキハキしていて、輪の中心にいるのをよく見る。聞けばもともと地下アイドルをやっていたという。そんな経歴もあり、職場でもどちらかと言えばアイドル的な立ち位置にいる。

 

幹事をしたのはこの人である。自身が主賓の場合を除き、だいたいMが幹事になる。店に入った時も、まずこの人が席に座る。続いた他の人たちは、ひとまず周りの様子を見合い、着いた面子を確認しつつ、Mの差配で席が決まる。それから先も何とはなしに、Mを中心にその場が回る。良くも悪くもいつもの感じ、Mの空気に流されてしまう。

 

これが本当に、良くも悪くもという感じである。色々と気を使ってくれるのはありがたいのだけれど、中心が出来てしまうというのは、やはり不健全な気がする。話題にしろ席順にしろ、Mの価値観がその場に大きな影響を持つので、どうしても似たような雰囲気になりがちである。もう少し個人のカラーが薄まればちょうど良いのだけれど、M自身は良かれと思っての振る舞いであるがゆえに、なかなか難しいところでもある。

 

Mの話題はほぼひとつしかない。恋愛の話である。とにかく男と女の話が大好きで、若い人を集めてそういう話をしたがる。何かと言えば、出会いがどうの、別れがどうのと言う。逆に、それ以外の話をしているのを思い出せないぐらいだ。

 

Mは裏表のない人で、嫌いではないのだけれど、あまりに開けっぴろげに話しすぎて閉口することがある。ちょっと前には毎日のように合コンの話をしていた。しばらくして彼氏が出来たとかでその話がなくなったと思えば、またすぐに合コンの話が出て来るようになった。年収は何百万以上とか、顔はイケメンでないと嫌とか、そういう下衆な話もする。これはちょっと、と思うような下品な話もする。裏表がないぶん、見たくもないプライベートゾーンまでも、生々しく見せつけられてる感じがある。

 

もう少しほかに話題がないのかと、たまに思う。三十手前で、それまで歩んだ人生のことを考えるなら、きっと何かはあるだろう。ところがどうも、他のことには興味もなさげで、他人の熱弁も馬耳東風。話題が変われば、質問もせず相槌もせず、所在なさげにビールを飲む。ことによったら、人の話の腰も折る。

 

話の内容はこの際問題じゃない。問題なのは、価値観が固定されてしまうことだ。普段話せないような人と話したり、普段話さないようなことを話せるのが飲み会の良いところなのに、ひとつの価値観に支配されると、いつも同じような席の並び、同じような話題で終わってしまう。それではやはり、残念だ。

 

連句と飲み会の構造は似ていると思う。最近、そんなことを考えている。言葉と言葉の応酬で、座に集まった人たちでひとつの空気を作り上げるという所に、通じるものは多いと思う。連句の言葉に当てはめるなら、幹事と主賓は正しく主人と客の関係だ。まずは軽い挨拶から始まり、だんだん深い話題へと移っていくというのも連句の通り。各々が交互に参加して、楽しい話題を提供したり、気の利いたことを言ったり、白けないように工夫したりと、皆で協力して作り上げていく過程も似ていると思う。

 

蕉風の歌仙において、恋は極めて大切なものとされ、軽々に詠むべきではないとされた。月や花と同様、必ず詠むものではあるが、あまりに大事なテーマであるがゆえに慎重に扱われた。こういう所も似ていると思う。宴の席だからそんな話も良いのだけれど、濫用したりぞんざいに扱うと、低俗になったりセクハラになったりしてしまう。何だかんだでやはり、ここぞという時の重い話題なのだと思う。

 

ただし、やっぱりこれも一見解にすぎないと自分でも思う。周りの人は、一体どういう風に思っているのだろう。自分は気づいて懸念したけど、みんなは案外気にしてなくて、Mの話題はすんなり通る。一番乗り気になるのはMだが、周りもまんざら嫌でもなく、話題があるなら乗る模様。話の中身も大事だけれど、そんなことより楽しく酔おう。そう思ってるならそれで良いのかと、自分を信じて良いのか迷う。

 

作法はあくまで作法。歌仙でも、必ずしも毎回全ての作法が守られている訳ではなく、その場の雰囲気や流れによって、作法を崩すこともある。それもまた即興の醍醐味か。軽い話もありつつ、要所要所で大事な話も交えつつ。そんな形が理想だけれど、本分は参加者が楽しむことだから、形にとらわれるのは本末転倒かしれない。

 

周りの人と自分との間には壁がある。それを未だに取り除けないでいる。自問自答してみる。当たり障りのない会話は楽だ。多少でも波長が合えば、少なくとも楽しいような錯覚に浸れる。だが果たしてそれで良いのだろうか。所詮そんなのは技術の問題だ。深い話は不快だ。何でも話せるMのような人は、羨ましい。

 

人が多勢集まると、話し方や言葉の選び方など考えることがあまりに多く、はっきり言って下手を打たないようにするだけで精一杯。楽しいと感じことは一度もない。欠席するのも寂しいけれど終わった後にはもっと寂しい、そんなことばかり繰り返している。色々考えて行動してみても、ほとんどうまくいってない。

 

重い話であっても平気で話せて、周りを巻き込むことの出来るMはすごいと思う。自分をさらけ出すということには羞恥を伴うものだけれども、それを物ともしないスケールの大きさを感じる。はっきり言って仕事の方はいまいちだ。失敗も多い。それでもMが嫌われないのは、器の大きさゆえなのだろう。

 

どうも、形で判断しようとすると見誤る。切り分けることは簡単だが、統合するのはとても難しい。違和感の中身には、外の原因と内の原因と二つがある。目に見えないものを粘り強く言葉で解釈していかなければ、それが見えてこない。

 

自分を守りすぎているだろうか。そんな気もしてきた。生活が落ち着いてくると、やはりどこか物足りない。……次へ進んでいかなければ。

 

否定形を使わない

他人の会話をよそで聞いていて、そんな言い方しなくても良いのにとか、もっとこう言えばいいのにと思うことがある。話の中身というよりも、言葉の選び方とか返事の呼吸とか、そういうちょっとした所が良く気になる。

 

気になる言い方には角がある。わざわざ摩擦を起こしてるように聞こえてくる。ほんの少しの工夫や気づかいで柔らかくなるのに、その労を惜しんでか、みすみす衝突していくのがもどかしい。クッション言葉を一個入れるとか、逆に敢えて口に出さないとか、それぐらいのことで良いのにと、いつも残念に思う。

 

またあの人たちやっている。昨日も聞いた二人の会話。呆れた様子で答える方と、すまなさそうに尋ねる方。何度も何度も繰り返され、見飽きてしまったやりとりだ。答える方は聞く方の覚えの悪さに呆れるが、よそから聞けば説明も下手でいまいち伝わらない。にもかかわらず、聞く方を詰る態度が出てるから、気後れもあり不服もあり、いきおい会話もギクシャクとした雰囲気になってしまう。

 

会話の流れを妨げる言葉使いの、最たるは否定形だと思っている。必要な時もあるけれど、単に話をややこしくさせてるだけの否定が目立つ。実際そこまで必要か。意固地になっているだけではないか。そこはひとまず飲み込んで、次へ進めば良いのにと思う所で角が立つ。「いやそうじゃない」「それはわかってる」「だから違うって」。言葉も感情ももつれ合い、組んずほぐれつになっていく。

 

何を言おうとはじめから否定する気で話を聞く、嫌な会話の仕方がある。そんな会話のやり方が、言葉と言葉の応酬を貧しいものにしてしまう。否定出来ればあげつらう。出来なかったら押し黙る。自他の創発を産むべき言葉の力が、そうしてただの暴力に変わる。

 

否定を使わず話が出来たら、どんなに会話が豊かになるか。言わずもがなの余計な言葉が、腰を折って興をそいで、会話をみるみる淀ませる。他愛もない雑談であれ、必要上のやりとりであれ、それは全く変わらない。たった二文字の「否」の言葉が、今だけでなく未来にわたって、心も言葉も腐していく。

 

文法上の否定形すら、実は必要ないかもと思う。はっきり否と言うよりも、言葉の言い換えに骨を折る。伝え方を工夫すれば、どのようにでも言えるだろう。だから、ともかく一切の否定を使わず話してみよう。そう決めて日々を過ごしてみると、実際問題話は通る。それはさながら、融通無碍に形を変える水のよう。

 

一見小さなことかも知れない。けれど、日々つみ重なったなら、小さなことでも侮れない。空気のように見えないものに、痛めつけられるのはつらい。たとえ少々わざとらしくとも、形式的に過ぎたとしても、配慮が無いよりよほど偉い。

 

否定によって傷つくのは、目の前の人ばかりじゃない。もっと多くの人たちを巻き込んでしまう場合もある。例えば、心ない誰かから悪意あるレッテルを貼られたとする。それが自分にあっているかどうかにかかわらず、否定をすると罪になる。そのレッテルの対象となる人が、必ずどこかにいるからである。レッテルを押し付ける、それを嫌がって否定する、このやりとりだけで、共犯関係が成立する。その集大成が社会となり文化となって、差別や偏見を作っていく。

 

小さなことと言うこと自体、ナンセンスだろう。言葉は一個で成り立つものにあらず、自ずと聞く人話す人、周りの人を巻き込まずにはいられない。言葉は響き、こだまする。吐き捨てるように言った言葉でも、誰かの耳には残っている。それがいつしか自分のもとに、返ってくることもあるだろう。目に見えないものというのは、恐ろしいものだといつも思う。

 

否定を使わないということは、技術の上ではそう難しくない。それよりも、相手を否定したくなる心理の方が厄介で手強い。頭を目一杯柔らかくして、決して否とは口に出すまい。そうは思っていたとしても、時折ムズムズ現れる否定の心理作用があって、憮然となってしまう時が危ない。

 

あるいは不満、あるいは功名心、あるいは慢心。相手を否定したくなる原因には、様々な心理があると思う。けれども、一番は器の問題ではないかと思う。狭い了見にとらわれて、目の前のものを否定したくなるのも器の小ささゆえ。一時の気分に左右されることのない、人格の素地にある器の大きさが、否定の心理に働きかけているように思う。それは、経験を重ねて広くすることも出来るはず。世界が相対的なものであること、多様性をもったものであることを、受け容れられる器の大きさがあって欲しいと思う。

泣いて馬謖を斬る

この故事のことを、最近よく考えている。三国志が好きだったので、言葉自体はずっと昔から知っていた。しかし、それは知識として知っていたというだけであった。最近になって、この言葉を生きた実体として捉えられるようになり、その意義をより進んで考えるようになった。

 

馬謖は才子だった。官僚的な才覚に秀でていた。自分を優秀に見せるのが上手かったので、孔明に寵愛されていた。しかし、いざ大任を任されるとその傲慢さが災いし、周りの諌めも聞かずに独断で動き、大敗を招いてしまう。街亭の敗戦は致命的となり、蜀軍は遠征を続けることが出来なくなる。孔明は、北伐を台無しにしたこの男を、泣く泣く斬らざるを得なかった。

 

一番格好悪いタイプだと思う。しかも、期待を持たせて裏切る分タチの悪いタイプだ。例えば、孔明に嫌われながらも、実力でしっかり功績を上げ続けた魏延なんかの方が余程魅力がある。

 

馬謖みたいなのが物語中の人物であるうちは良かった。さすがに、ここまで戯画化された人間もいないだろうと思っていた。だが、現実にはこういうのが一杯いる。呆れるほどの馬謖っぷりを発揮する奴が何人もいる。今ではむしろ、物語を読んで、こういう奴いるよなと頷くぐらいになった。

 

才子肌の人間ほど信用できないものはない。机上の空論ばかりで中身がなく、口ほどの成果を出せない。プライドが高く尊大で、他者への敬意が全くない。それなのに、なまじ小才がきく分、実力以上に評価され、身に余る権力を持ってしまっていたりする。本当に迷惑千万な存在だと思う。

 

以前の会社の上司Kが、今までみた中でトップクラスにひどい才子だった。なまじの才、なまじの口のうまさ、なまじの意識の高さ、どれをとっても甚だしく、上からの覚えのめでたさを良いことに、増長して手がつけられなくなっていた。この男の言動を見ていて、勘違いしたアマチュアが幅を効かせることが、どれだけ組織や仕事にとって害であるかを思い知らされた。

 

特にひどかったのが、新卒の大学生を相手にした時の話。やはり、立場の弱い人間に相対した時に、その人の人間性如実に現れる。一年ぐらいバイトで雇っていた学生を、新卒で採用した。他の会社の内定も貰っていたというその学生を、かなりの好待遇で招いたらしい。ところが、いざ働き始めると、思い通りにならないことが多くなった。適切な指示を出すことも、分からないことを教えることも、Kには出来なかったのである。挙句、高い給料が惜しくなり、パワハラで辞めさせるという暴挙にでた。

 

街亭の敗戦もそうだけれど、逆にどうしたらここまで酷いことになるのかと思うぐらいの大失敗を、才子たちはやらかす。一年間の試用期間付きという超簡単な採用の仕事で、なぜ違法な行為にたどりつくのか。百歩譲って判断ミスは置いておくとしても、他で取り返すことはいくらでも出来たはず。仕事の頼み方や作業の割り当て方などでもリカバー出来るのに、駄々っ子のようにヒステリックに喚き立てることで、そういう余地を全部自分で失わせてしまう。

 

こんな体たらくであるから、もちろん本業でも成果が出せるわけがない。大見得切ってチームの責任を引き受けたKだったが、素人芸がそう通用するはずもなく、内実はボロボロだった。根拠のない自信と万能感の前に、現実の壁が立ちはだかる。モラトリアムもいよいよ終わり、年貢の納め時が来る。その訪れをKも薄々気付いていたのか、「結果よりも本質が大事」などと持論めかして抜かしていた。無論、結果が出ていればこんなセリフを吐く必要もないわけだから、まともに取り合う価値もない。

 

この男はT大の大学院を出たとか言っていた。T大にはこんなのがゴロゴロいる。IQが偏重されすぎる今の世の中、たまたまIQが高く生まれついただけの人間が、こうしてタチの悪い失敗作に成り果てて行く。こいつら、内面の幼さの割にIQとプライドだけが異常に発達してて、本当に奇妙で気持ち悪いんだよ。こんな下品な連中のために、どれだけ国は貪られていくのだろう?社会は「頭の良さ」というものを定義し直さなければいけないと、いつも思う。

 

本をこれだけ読んだ。こんなに色んなことを知ってる。ハイハイ、すごいねすごいねって感じ。そんなことを自負している奴で、頭が良いと思うのは一人もいなかったよ。小賢しいIQ型の才子ばかりで、むしろ馬鹿が多かった。知識と知恵は全くの別物。いくら小難しい言葉を使おうが、ものの分かったような話し方をしようが、そんなのはフェイク、偽物だ。

 

才子というのは、属性ではなく本質だと思っている。今まで出会った才子たちは、皆申し合わせたように同じような性質をもってる。机上の空論ばかりで実践が出来ず、いざという時に頼りにならない。人の話を聞かずに一方的に喋り続ける。思い通りにならないとすぐに癇癪を起こす。倫理感のなさは特にひどくて、見た目ヘナチョコだが中身はDQNと変わらない、と言うか「外ヅラのいいDQN」といった方が良いくらい罪の意識に乏しい。

 

才子の陰に才子あり。馬謖を抜擢したのは孔明である。とかく美化されがちな諸葛孔明だが、これもまた一個の才子だと思っている。街亭の将の人選は、果たして適切だっただろうか。もっと堅実な仕事の出来る将がいなかっただろうか。 斬るものを泣かせるタマネギ野郎・馬謖。だが、実は泣いてるのは孔明だけで、周りはずっと馬謖は信用できないと諌めていたんだよ。

 

Kのいる会社に入るまでにも、才子の陰があった。こちらは、今まで見た中で最も言葉を蔑ろにし、最も言葉の価値を貶めている人間だった。Kほど酷くはないものの、自分を大きく見せようとしたり、優等生然としていながら遵法意識が全くないところはそっくりで、私が「才子」という人種の存在をはっきりと悟ったのは、この二人のあまりにも多い共通点に気付いた時からだった。

 

平和な日常に流されて、ややもすると忘れそうになるが、罪の記憶は語り継いでいかなければならないと思う。才子たちは悪だ。反面教師だ。罪を暴いて晒し上げ、こうなるまいとの戒めにすべきだ。縁を切った以上、自分の中では死んだも同然だが、記憶と経験はなくならないので、この屍を担いで歩いて行く。この先もずっと、Body bag (死体袋) に詰め込んで、殴りつづけていく。