運は天にあり

内省の記録

強さ

強さとは何だろうか。色々な強さに憧れを持ちつつ、強さの裏を見て幻滅を味わううち、強さとは何なのかが分からなくなる。しかし、金を稼ぐ時にも人を評価する時にも、何かと使われがちなこの言葉は、生きていく上でどうしても避けることが出来ない。何をもって人を強いとか弱いと呼べば良いのだろう。

 

腕力の強さというのが、ひとつにはある。現実問題、結構この強さは幅を利かせている。けれども、さすがにこれをもって人を強いとか弱いとか言うのは低俗すぎる。腕力の強さに甘んじてきた人間が、長じるに及んで多面的な評価にさらされた時、さっぱりになってしまうこともよくある。

 

打たれ強さというのもある。辛い労働に耐えたり、理不尽なことを凌いだりする強さであり、これも、生きていく上で重宝されている。でも、なんか消極的だ。ただ鈍感なだけ、ただ恥を知らないだけの人間を強いとは呼びたくないな。そういうのは文字通り、ただ鈍感なだけ、ただ恥を知らないだけで、強いという言葉には相応しくない。ずうずうしいと言った方があっている。

 

気持ちの強さが、やはり「強さ」という言葉に一番しっくりくる。精神力とか、決断力とか、意志の強さとか、色々言い方がある。意志の強い人は、逞しい。決断の出来る人は、頼もしい。勝負事においても、気持ちの強さを持っている人というのは強い。

 

ところが、気持ちの強さというものの危うさを感じる出来事が最近あった。強さを感じつつも、果たしてこれは本当に強さと呼べるのだろうかと、強く疑問に思った。

 

自宅のアパートでの出来事。アパートの裏で、ゴミの不法投棄があった。壊れたテレビが捨てられていた。捨てられたまま何日も放置されていたようで、目障りだと思った周辺の住民から管理会社へ苦情が来たらしい。管理会社からアパートの住人に向けて、張り紙が貼られてあった。

 

張り紙にはこう書かれていた。ゴミの不法投棄があり、苦情を受けている。何か情報を知っていたら教えて欲しい。万が一、このアパートの住人が捨てているのだったら、すぐに辞めてもらいたい。今後もこんなことが続くようなら、共益費の値上げも検討せざるを得ない。

 

高圧的な言い方だった。犯人がアパートの住人だと決まったわけでもないのに、ひどい言い草である。共益費の値上げなどまるで脅迫みたいなものだが、ここまで言う必要があるだろうか? だいたい、不法投棄するような人間がわざわざ自分のアパートの周りに捨てるわけがなく、住人に対してこんなことを言うのはお門違いもいいところだ。

 

しかも、この張り紙は私の郵便受けの真上に貼ってあった。なぜかと言えば、ゴミが捨てられていたのが、ちょうど私の部屋の裏だったから。はじめにこの張り紙を見た時、とても驚いた。わざわざ当てつけのように、ほとんど名指しするかのように、これ見よがしに貼ってあったのである。

 

さすがにムッとする。これじゃまるで犯人扱いである。アパートの裏は隣の住居の裏側と2〜3m隔てて隣り合わせになっており、狭い路地裏とは言え公道になっている。近隣の住民や労働者が自転車を止めたりもしている。誰が歩いていても不自然ではないが、見通しが悪いので表の人通りから姿を見られることもない。外から来た人間が、こっそりモノを捨てたりするには都合のよい場所なのだ。

 

怪しいのは明らかに外部だろう、というのは置いておくとしても。私の部屋の裏にゴミがあったのは確かだが、それならそれで、心当たりがないか直接聞いてくれれば良い。そしたら、自分ではないと請け合うことも出来るのに。わざわざアパートまでやって来ておいてそれぐらいのこともせず、あえて嫌がらせのようなことをする了見が癪に触った。これでは、アパートの他の住人からの心象も悪くなってしまう。

 

管理会社に怒ってやろうかと思った。こんなことを言うのは筋違いだ。不法投棄があったのなら、まずは警察に連絡すべき。そして、管理会社が責任をもってその後の対応もすべき。張り紙の文言を読むと、とりようによっては、共益費の値上げを盾にして、住人の自己犠牲的な対応を促してるようにも見える。冗談じゃない。ゴミの処分にも金がかかるのだ。それじゃ、何のための管理会社か分からないし、不誠実も甚だしい。腹立たしい。張り紙も、当てつけにビリビリに剥がしてやろうかと思った。

 

ひとしきり怒りの言葉が頭の中を巡ったのち、ハッとする。何だか、いつもの自分でなくなったような気がする。怒りで我を忘れるとかいうことではなく、目に見えないものに取り憑かれたような感じがする。向こうがこう言って来たらこう言い返してやろうとか、徹底的に戦ってやろうとか、やけに勇ましく、自分が強くなったような感覚がした。

 

落ち着いて、どうしようか考える。まずは想像しよう。相手はなぜこんなことをしたのだろう。困っているからだ。クレームを受け、どう対処しようか窮した挙句、こんな中途半端な愚かなことをした。クレームをつけたのはなぜ。もちろん、クレームをつけた人も困っているから。そうして、巡り巡って、今また自分も困っている。見渡せば、皆んな困っている。

 

悪いのは、ゴミを捨てた犯人だけ。管理会社の人にも、近くに住んでる人にも、自分にも、争う理由は何もない。なのに、なぜか皆んながギクシャクしてしまっている。

 

たしかに管理会社は下手を打った。が、人間のすることなんてまあこんなものだ。いちいち腹を立てるのはよそう。それよりも、責任は管理者にあるからと、傍観を決め込むことの方が良くない。同じ土地に住む人間として、同じ社会に住む人間として、協力しなければいけないことがある。それぐらい広い視野で考えると、自分が何をすべきかもわかって来る。

 

一晩明けたのち、朝の始業時間を見計らってすぐに警察に連絡した。警察署が近かったので、まもなく2人の警官が来てくれた。事情を話し、現場を見てもらうと、これぐらいのゴミの量だと犯人特定が困難なので捜査は出来ないとのことだったが、行政への連絡などは代わりにやってくれた。張り紙のことを話すと、わざわざ管理会社への連絡までしてくれたのがありがたかった。

 

やるべきことはやった。あとは、自分の名誉を守るだけだ。警察官の人たちが去ったのち、張り紙をそっと剥がして捨てた。何日かのちには、ゴミも撤去されていた。

 

こんなことがあってから、自分の中に芽生える「強さ」に非常に警戒を抱くようになった。その時は、錯覚もした。我ながら言うべきことをハッキリ言えるようになったなと、愚かにも見誤った。だが、これを強さと呼んで良いのだろうか。この場合、自分の方に明らかに正論があったのだが、例えばもっと境目が曖昧な時、正論が必ずしも自分の味方になってくれない時でも、同じぐらいの気持ちで自分の正しさを主張出来ただろうか。

 

やっぱり、これは強さとは言えないと思う。言うべきことを言うのは確かに大事だが、もっと良い解決方法があるにも関わらず正論を行使するのは、ただの力の濫用だ。武器を使うのではなく使われる。知識を使うのではなく使われる。もっともらしいことを言っていたとしても、広い視野で見ればゴネているだけ、強さの証明どころか、むしろ弱さの証明になってしまっている。

 

下手に抗議をしたりしなくて良かったと思う。そんなことをしても何も解決しないし、何より自分らしくない。自分の個性とも強さとも離れた所で、空虚な正論だけが突っ走りそうになっていて危なかった。

 

仏陀は、人間の認識は相対的なものだと教えた。強さや弱さという認識も、もちろん相対的なものだ。自分より弱い相手に向かえば相対的に自分が強くなる、それは当たり前のこと。逆もそう。けれど、そんな当たり前のことがしばしば見過ごされがちになる。とりわけ、立場の強弱の違いが、人を錯覚させ知恵を失わせる。 

 

弱い人間ほど、力を手にした時に豹変する。身に余る力に呑み込まれてしまう。何度も見覚えがあるけれど、小者が権力を持ってしまうと、強い人の猿真似で偉そうな話し方をしたり、イキった尊大な態度をとったりするようになる。見苦しいことこの上ない。権力だけでなく、腕力やIQにしてもそう。それに相応しい器が備わっていない限り、力はむしろ害になってしまう。

 

立場の強さや力の強さに左右されない、内に秘めたる芯の強さこそ、真の強さだと思っている。力に頼る人間は力に負ける。自ら強いと自負する人ほど、上手の相手にあっさり食われる。自他の力に呑み込まれず、自分を保ち続けるのはとても難しいことで、多くの人が力に翻弄され、愚かなことを繰り返している。どんな時でも自分自身の弱さと向き合える人は、強いと思う。

飲み会

先日、会社の飲み会に参加した時のこと。まだ11月ながらイルミネーションに飾られた街中の、とある焼肉屋にてその飲み会は行われた。主賓は、今月50歳の誕生日を迎えるという人。コース料理の肉を囲んで、皆でその人を祝う。肉は美味しかったし、人も多勢集まったし、終始良い雰囲気の会だったように思う。

 

一見なにごともなく終わった会だった。だが、少し気にかかることがあった。それは、問題点というほどでもない、目に見えない小さなことではある。以前からなんとなく気にかかっており、今回をきっかけにはっきりその存在に気づいたこと。

 

会社にMという人がいる。若い独身の女の人で、歳はいわゆるアラサーに入る。屈託無くハキハキしていて、輪の中心にいるのをよく見る。聞けばもともと地下アイドルをやっていたという。そんな経歴もあり、職場でもどちらかと言えばアイドル的な立ち位置にいる。

 

幹事をしたのはこの人である。自身が主賓の場合を除き、だいたいMが幹事になる。店に入った時も、まずこの人が席に座る。続いた他の人たちは、ひとまず周りの様子を見合い、着いた面子を確認しつつ、Mの差配で席が決まる。それから先も何とはなしに、Mを中心にその場が回る。良くも悪くもいつもの感じ、Mの空気に流されてしまう。

 

これが本当に、良くも悪くもという感じである。色々と気を使ってくれるのはありがたいのだけれど、中心が出来てしまうというのは、やはり不健全な気がする。話題にしろ席順にしろ、Mの価値観がその場に大きな影響を持つので、どうしても似たような雰囲気になりがちである。もう少し個人のカラーが薄まればちょうど良いのだけれど、M自身は良かれと思っての振る舞いであるがゆえに、なかなか難しいところでもある。

 

Mの話題はほぼひとつしかない。恋愛の話である。とにかく男と女の話が大好きで、若い人を集めてそういう話をしたがる。何かと言えば、出会いがどうの、別れがどうのと言う。逆に、それ以外の話をしているのを思い出せないぐらいだ。

 

Mは裏表のない人で、嫌いではないのだけれど、あまりに開けっぴろげに話しすぎて閉口することがある。ちょっと前には毎日のように合コンの話をしていた。しばらくして彼氏が出来たとかでその話がなくなったと思えば、またすぐに合コンの話が出て来るようになった。年収は何百万以上とか、顔はイケメンでないと嫌とか、そういう下衆な話もする。これはちょっと、と思うような下品な話もする。裏表がないぶん、見たくもないプライベートゾーンまでも、生々しく見せつけられてる感じがある。

 

もう少しほかに話題がないのかと、たまに思う。三十手前で、それまで歩んだ人生のことを考えるなら、きっと何かはあるだろう。ところがどうも、他のことには興味もなさげで、他人の熱弁も馬耳東風。話題が変われば、質問もせず相槌もせず、所在なさげにビールを飲む。ことによったら、人の話の腰も折る。

 

話の内容はこの際問題じゃない。問題なのは、価値観が固定されてしまうことだ。普段話せないような人と話したり、普段話さないようなことを話せるのが飲み会の良いところなのに、ひとつの価値観に支配されると、いつも同じような席の並び、同じような話題で終わってしまう。それではやはり、残念だ。

 

連句と飲み会の構造は似ていると思う。最近、そんなことを考えている。言葉と言葉の応酬で、座に集まった人たちでひとつの空気を作り上げるという所に、通じるものは多いと思う。連句の言葉に当てはめるなら、幹事と主賓は正しく主人と客の関係だ。まずは軽い挨拶から始まり、だんだん深い話題へと移っていくというのも連句の通り。各々が交互に参加して、楽しい話題を提供したり、気の利いたことを言ったり、白けないように工夫したりと、皆で協力して作り上げていく過程も似ていると思う。

 

蕉風の歌仙において、恋は極めて大切なものとされ、軽々に詠むべきではないとされた。月や花と同様、必ず詠むものではあるが、あまりに大事なテーマであるがゆえに慎重に扱われた。こういう所も似ていると思う。宴の席だからそんな話も良いのだけれど、濫用したりぞんざいに扱うと、低俗になったりセクハラになったりしてしまう。何だかんだでやはり、ここぞという時の重い話題なのだと思う。

 

ただし、やっぱりこれも一見解にすぎないと自分でも思う。周りの人は、一体どういう風に思っているのだろう。自分は気づいて懸念したけど、みんなは案外気にしてなくて、Mの話題はすんなり通る。一番乗り気になるのはMだが、周りもまんざら嫌でもなく、話題があるなら乗る模様。話の中身も大事だけれど、そんなことより楽しく酔おう。そう思ってるならそれで良いのかと、自分を信じて良いのか迷う。

 

作法はあくまで作法。歌仙でも、必ずしも毎回全ての作法が守られている訳ではなく、その場の雰囲気や流れによって、作法を崩すこともある。それもまた即興の醍醐味か。軽い話もありつつ、要所要所で大事な話も交えつつ。そんな形が理想だけれど、本分は参加者が楽しむことだから、形にとらわれるのは本末転倒かしれない。

 

周りの人と自分との間には壁がある。それを未だに取り除けないでいる。自問自答してみる。当たり障りのない会話は楽だ。多少でも波長が合えば、少なくとも楽しいような錯覚に浸れる。だが果たしてそれで良いのだろうか。所詮そんなのは技術の問題だ。深い話は不快だ。何でも話せるMのような人は、羨ましい。

 

人が多勢集まると、話し方や言葉の選び方など考えることがあまりに多く、はっきり言って下手を打たないようにするだけで精一杯。楽しいと感じことは一度もない。欠席するのも寂しいけれど終わった後にはもっと寂しい、そんなことばかり繰り返している。色々考えて行動してみても、ほとんどうまくいってない。

 

重い話であっても平気で話せて、周りを巻き込むことの出来るMはすごいと思う。自分をさらけ出すということには羞恥を伴うものだけれども、それを物ともしないスケールの大きさを感じる。はっきり言って仕事の方はいまいちだ。失敗も多い。それでもMが嫌われないのは、器の大きさゆえなのだろう。

 

どうも、形で判断しようとすると見誤る。切り分けることは簡単だが、統合するのはとても難しい。違和感の中身には、外の原因と内の原因と二つがある。目に見えないものを粘り強く言葉で解釈していかなければ、それが見えてこない。

 

自分を守りすぎているだろうか。そんな気もしてきた。生活が落ち着いてくると、やはりどこか物足りない。……次へ進んでいかなければ。

 

否定形を使わない

他人の会話をよそで聞いていて、そんな言い方しなくても良いのにとか、もっとこう言えばいいのにと思うことがある。話の中身というよりも、言葉の選び方とか返事の呼吸とか、そういうちょっとした所が良く気になる。

 

気になる言い方には角がある。わざわざ摩擦を起こしてるように聞こえてくる。ほんの少しの工夫や気づかいで柔らかくなるのに、その労を惜しんでか、みすみす衝突していくのがもどかしい。クッション言葉を一個入れるとか、逆に敢えて口に出さないとか、それぐらいのことで良いのにと、いつも残念に思う。

 

またあの人たちやっている。昨日も聞いた二人の会話。呆れた様子で答える方と、すまなさそうに尋ねる方。何度も何度も繰り返され、見飽きてしまったやりとりだ。答える方は聞く方の覚えの悪さに呆れるが、よそから聞けば説明も下手でいまいち伝わらない。にもかかわらず、聞く方を詰る態度が出てるから、気後れもあり不服もあり、いきおい会話もギクシャクとした雰囲気になってしまう。

 

会話の流れを妨げる言葉使いの、最たるは否定形だと思っている。必要な時もあるけれど、単に話をややこしくさせてるだけの否定が目立つ。実際そこまで必要か。意固地になっているだけではないか。そこはひとまず飲み込んで、次へ進めば良いのにと思う所で角が立つ。「いやそうじゃない」「それはわかってる」「だから違うって」。言葉も感情ももつれ合い、組んずほぐれつになっていく。

 

何を言おうとはじめから否定する気で話を聞く、嫌な会話の仕方がある。そんな会話のやり方が、言葉と言葉の応酬を貧しいものにしてしまう。否定出来ればあげつらう。出来なかったら押し黙る。自他の創発を産むべき言葉の力が、そうしてただの暴力に変わる。

 

否定を使わず話が出来たら、どんなに会話が豊かになるか。言わずもがなの余計な言葉が、腰を折って興をそいで、会話をみるみる淀ませる。他愛もない雑談であれ、必要上のやりとりであれ、それは全く変わらない。たった二文字の「否」の言葉が、今だけでなく未来にわたって、心も言葉も腐していく。

 

文法上の否定形すら、実は必要ないかもと思う。はっきり否と言うよりも、言葉の言い換えに骨を折る。伝え方を工夫すれば、どのようにでも言えるだろう。だから、ともかく一切の否定を使わず話してみよう。そう決めて日々を過ごしてみると、実際問題話は通る。それはさながら、融通無碍に形を変える水のよう。

 

一見小さなことかも知れない。けれど、日々つみ重なったなら、小さなことでも侮れない。空気のように見えないものに、痛めつけられるのはつらい。たとえ少々わざとらしくとも、形式的に過ぎたとしても、配慮が無いよりよほど偉い。

 

否定によって傷つくのは、目の前の人ばかりじゃない。もっと多くの人たちを巻き込んでしまう場合もある。例えば、心ない誰かから悪意あるレッテルを貼られたとする。それが自分にあっているかどうかにかかわらず、否定をすると罪になる。そのレッテルの対象となる人が、必ずどこかにいるからである。レッテルを押し付ける、それを嫌がって否定する、このやりとりだけで、共犯関係が成立する。その集大成が社会となり文化となって、差別や偏見を作っていく。

 

小さなことと言うこと自体、ナンセンスだろう。言葉は一個で成り立つものにあらず、自ずと聞く人話す人、周りの人を巻き込まずにはいられない。言葉は響き、こだまする。吐き捨てるように言った言葉でも、誰かの耳には残っている。それがいつしか自分のもとに、返ってくることもあるだろう。目に見えないものというのは、恐ろしいものだといつも思う。

 

否定を使わないということは、技術の上ではそう難しくない。それよりも、相手を否定したくなる心理の方が厄介で手強い。頭を目一杯柔らかくして、決して否とは口に出すまい。そうは思っていたとしても、時折ムズムズ現れる否定の心理作用があって、憮然となってしまう時が危ない。

 

あるいは不満、あるいは功名心、あるいは慢心。相手を否定したくなる原因には、様々な心理があると思う。けれども、一番は器の問題ではないかと思う。狭い了見にとらわれて、目の前のものを否定したくなるのも器の小ささゆえ。一時の気分に左右されることのない、人格の素地にある器の大きさが、否定の心理に働きかけているように思う。それは、経験を重ねて広くすることも出来るはず。世界が相対的なものであること、多様性をもったものであることを、受け容れられる器の大きさがあって欲しいと思う。

泣いて馬謖を斬る

この故事のことを、最近よく考えている。三国志が好きだったので、言葉自体はずっと昔から知っていた。しかし、それは知識として知っていたというだけであった。最近になって、この言葉を生きた実体として捉えられるようになり、その意義をより進んで考えるようになった。

 

馬謖は才子だった。官僚的な才覚に秀でていた。自分を優秀に見せるのが上手かったので、孔明に寵愛されていた。しかし、いざ大任を任されるとその傲慢さが災いし、周りの諌めも聞かずに独断で動き、大敗を招いてしまう。街亭の敗戦は致命的となり、蜀軍は遠征を続けることが出来なくなる。孔明は、北伐を台無しにしたこの男を、泣く泣く斬らざるを得なかった。

 

一番格好悪いタイプだと思う。しかも、期待を持たせて裏切る分タチの悪いタイプだ。例えば、孔明に嫌われながらも、実力でしっかり功績を上げ続けた魏延なんかの方が余程魅力がある。

 

馬謖みたいなのが物語中の人物であるうちは良かった。さすがに、ここまで戯画化された人間もいないだろうと思っていた。だが、現実にはこういうのが一杯いる。呆れるほどの馬謖っぷりを発揮する奴が何人もいる。今ではむしろ、物語を読んで、こういう奴いるよなと頷くぐらいになった。

 

才子肌の人間ほど信用できないものはない。机上の空論ばかりで中身がなく、口ほどの成果を出せない。プライドが高く尊大で、他者への敬意が全くない。それなのに、なまじ小才がきく分、実力以上に評価され、身に余る権力を持ってしまっていたりする。本当に迷惑千万な存在だと思う。

 

以前の会社の上司Kが、今までみた中でトップクラスにひどい才子だった。なまじの才、なまじの口のうまさ、なまじの意識の高さ、どれをとっても甚だしく、上からの覚えのめでたさを良いことに、増長して手がつけられなくなっていた。この男の言動を見ていて、勘違いしたアマチュアが幅を効かせることが、どれだけ組織や仕事にとって害であるかを思い知らされた。

 

特にひどかったのが、新卒の大学生を相手にした時の話。やはり、立場の弱い人間に相対した時に、その人の人間性如実に現れる。一年ぐらいバイトで雇っていた学生を、新卒で採用した。他の会社の内定も貰っていたというその学生を、かなりの好待遇で招いたらしい。ところが、いざ働き始めると、思い通りにならないことが多くなった。適切な指示を出すことも、分からないことを教えることも、Kには出来なかったのである。挙句、高い給料が惜しくなり、パワハラで辞めさせるという暴挙にでた。

 

街亭の敗戦もそうだけれど、逆にどうしたらここまで酷いことになるのかと思うぐらいの大失敗を、才子たちはやらかす。一年間の試用期間付きという超簡単な採用の仕事で、なぜ違法な行為にたどりつくのか。百歩譲って判断ミスは置いておくとしても、他で取り返すことはいくらでも出来たはず。仕事の頼み方や作業の割り当て方などでもリカバー出来るのに、駄々っ子のようにヒステリックに喚き立てることで、そういう余地を全部自分で失わせてしまう。

 

こんな体たらくであるから、もちろん本業でも成果が出せるわけがない。大見得切ってチームの責任を引き受けたKだったが、素人芸がそう通用するはずもなく、内実はボロボロだった。根拠のない自信と万能感の前に、現実の壁が立ちはだかる。モラトリアムもいよいよ終わり、年貢の納め時が来る。その訪れをKも薄々気付いていたのか、「結果よりも本質が大事」などと持論めかして抜かしていた。無論、結果が出ていればこんなセリフを吐く必要もないわけだから、まともに取り合う価値もない。

 

この男はT大の大学院を出たとか言っていた。T大にはこんなのがゴロゴロいる。IQが偏重されすぎる今の世の中、たまたまIQが高く生まれついただけの人間が、こうしてタチの悪い失敗作に成り果てて行く。こいつら、内面の幼さの割にIQとプライドだけが異常に発達してて、本当に奇妙で気持ち悪いんだよ。こんな下品な連中のために、どれだけ国は貪られていくのだろう?社会は「頭の良さ」というものを定義し直さなければいけないと、いつも思う。

 

本をこれだけ読んだ。こんなに色んなことを知ってる。ハイハイ、すごいねすごいねって感じ。そんなことを自負している奴で、頭が良いと思うのは一人もいなかったよ。小賢しいIQ型の才子ばかりで、むしろ馬鹿が多かった。知識と知恵は全くの別物。いくら小難しい言葉を使おうが、ものの分かったような話し方をしようが、そんなのはフェイク、偽物だ。

 

才子というのは、属性ではなく本質だと思っている。今まで出会った才子たちは、皆申し合わせたように同じような性質をもってる。机上の空論ばかりで実践が出来ず、いざという時に頼りにならない。人の話を聞かずに一方的に喋り続ける。思い通りにならないとすぐに癇癪を起こす。倫理感のなさは特にひどくて、見た目ヘナチョコだが中身はDQNと変わらない、と言うか「外ヅラのいいDQN」といった方が良いくらい罪の意識に乏しい。

 

才子の陰に才子あり。馬謖を抜擢したのは孔明である。とかく美化されがちな諸葛孔明だが、これもまた一個の才子だと思っている。街亭の将の人選は、果たして適切だっただろうか。もっと堅実な仕事の出来る将がいなかっただろうか。 斬るものを泣かせるタマネギ野郎・馬謖。だが、実は泣いてるのは孔明だけで、周りはずっと馬謖は信用できないと諌めていたんだよ。

 

Kのいる会社に入るまでにも、才子の陰があった。こちらは、今まで見た中で最も言葉を蔑ろにし、最も言葉の価値を貶めている人間だった。Kほど酷くはないものの、自分を大きく見せようとしたり、優等生然としていながら遵法意識が全くないところはそっくりで、私が「才子」という人種の存在をはっきりと悟ったのは、この二人のあまりにも多い共通点に気付いた時からだった。

 

平和な日常に流されて、ややもすると忘れそうになるが、罪の記憶は語り継いでいかなければならないと思う。才子たちは悪だ。反面教師だ。罪を暴いて晒し上げ、こうなるまいとの戒めにすべきだ。縁を切った以上、自分の中では死んだも同然だが、記憶と経験はなくならないので、この屍を担いで歩いて行く。この先もずっと、Body bag (死体袋) に詰め込んで、殴りつづけていく。

 

人望

新しい仕事を見つけ、半年が経ち、暮らしはいよいよ落ち着いてきた。季節も気づけば秋になる。飽きることなく今の仕事を続けられたのは、やはり人間関係が一番大きい。探り探りの時期を終え、一緒に働く時間を過ごし、職場の人たちとはほど良い距離感が出来ている。

 

環境を変えるのはとても良いことだ。今までの自分を知らない人と、新しい生活を始めることが出来る。自分はこういう人間だと決めつけてくる相手がいないと、本当にのびのび過ごすことが出来る。以前よりずっと、自由に生きられる。

 

今の自分には居場所がある。これは、幸せなことだと思う。周りが敵ばかりの時は、仕事や勉強以外のことにあまりに多くの気持ちを持っていかれた。思考も体力も、全部奪われてしまっていた。同じ状況が何度も繰り返されると、将来にも希望が持てなくなる。努力出来るということは、それだけで大いに恵まれていると思う。

 

自分に人望がないのは痛感してる。また、人望というものが、求めれば求めるほど得られないものでもあるということも知ってる。振り返れば色々な試行錯誤をしてみたけれど、どれも上手くはいかなかった。苦労せずとも産まれながらにもっている人もいるし、どんなに頑張っても得られない人もいる。結局作為ではどうにもならないものなのだと思う。

 

今の自分に人望はあるだろうか。まあ、可もなく不可もなくといった感じ。なくはないが、あるとも言えない。贔屓目に見てもそんなところだ。経験に基づくバランス感覚でなんとかマイナスを抑えてはいるが、かと言ってプラスになっている訳でもない。ようやく居場所は出来たとはいえ、そう色々なことが急に変わるわけじゃない。

 

人との関わり方や言葉の使い方にはかなり気をつけてる。他人は滅多に意識しないようなことでも、細心の注意を払っていたりする。けれども、そういうのは必ずしも人望に繋がる訳ではないし、往々にして報われないもの。下手をすると、裏目に出てしまうことさえある。

 

Kという人と一緒に仕事をしていた時のこと。やっていたのは小さな作業で、Kと私の二人だけで担当していた。Kはこの作業の経験が無かった。なぜかゆき違いでそこに割り当てられてしまっていた。途中でそれに気づいたものの、もう動き出してしまったことなのでそのまま行くしかなく、私の方にはいくらか覚えがあったので、丁寧にやり方を教えたり、また励ましたりしながら、一緒に作業を進めていった。

 

自分としては、やるべきことをいつも通りやっていたつもり。特別普段と何か違っていたわけでもない。初めての作業でKが苦労していた分、気を回すことが多かったくらいのものだったと思う。

 

しかし、二人の様子を見ていたある人が呟いた。「Kさんにうまくやらせてる」。何の他意もなくポツリともれた感想だったように思う。それが耳に届いてしまった。

 

驚いた。「やらせている」という言葉にギョッとした。まめに気を配っていたことで、かえって悪目立ちしてしまったらしい。その人の言い方からは、私がKを体良く使役しているというニュアンスが読み取れた。普段、決して仲の悪い人でもないからこそ、この呟きは一層真実らしく聞こえた。

 

さすがにこれは心外だった。Kにやらせて楽するなど、全く思いもしなかった。簡単なことをKに任せ、大変なのは自分でやった。説明するのも手間がかかるし、なんなら全部一人でやりたいぐらいのものだった。でも、そういう仕事のやり方は良くないと思うから、Kと細かくやりとりをして、一緒に出来る形を作っていた。邪推も甚だしいと思った。

 

なるべく自分も相手も気持ち良く仕事が出来るように気をつけていたつもりだったけれど、これを聞いてガックリした。どうも、気配りがわざとらしくなってしまうらしい。

 

けど、そう見られた以上はどうしようもない。悔しいが、弁解の余地はない。こういうのはむしろ、うだうだ弁解するとダサくなる。大人は何も言わないが、そう思われた時点で終わりである。

 

親切だと思ってしたことが、親切だと受け取られれば、それに越したことはない。現実はなかなかうまくいかない。気づかれないだけならまだしも、正反対の印象を持たれるのは辛い。「やらせてる」とは、ほんと嫌な言い方するなと思った。

 

どうすれば良かったのかと考えた。しかし、他に良いやり方は見つからなかった。伝えるべきことはちゃんと伝える方が良いし、ぶっきらぼうに仕事を投げるようなマネもしたくない。あまり手取り足取りでは仕事が進まないから、内容とか量を加減して作業を割り振るようにもしていた。協調してやっていくには、これが精一杯だった。

 

言葉が過剰だろうか。言葉を控えるべきだろうか。どうしても、そうは思えなかった。おだててやらせているように見えたとしても、わざとらしく見られたとしても、そういうのがないよりかはマシだと思わざるをえない。なくなったらどうなるだろう。放っておけば細かいことが面倒になり、おざなりになる。確認不足によるすれ違いが起きる。照れや羞らいが出来て、なんとなく気持ちを伝えづらくなる。そうしてどんどん溝が深まる。一旦、だらしない関係性になったら、そこから立て直すのも大変だ。

 

最善ではないかも知れない。自分の能力の限界もある。けれど、次善のやり方に過ぎなかったとしても、今の自分に出来ることを精一杯やっていくことしか出来ない。

 

自分のやっていることが、人望につながらなかったり、逆に反感を買ってしまうことについて、気にしても仕方がないと思うようになった。批判は甘んじて受け入れるしかない。思い当たる節がないではないしな。本当に心にもなく儀礼的に喋っていることもあるし、我ながらわざとらしいと思うこともある。それでも、目に見えないものを無視することは出来ないし、そこにこそ大切なものがあると思うから、やるしかないと思っている。

 

不本意なことはあるが、信じていることが一つ。長い目で見たときに、色々なことがきっと良い方向に向かうに違いないということ。目先のことばかり追うと、どんどん悪い循環に入っていってしまう。今まで、反面教師を何人も見てきたから確信してる。こうすればこうなるというのを、知ってて見過ごすことは出来ない。同じことを繰り返したくない。自分の経験してきたことを、物事がちゃんと良い方向に向かうように活かしたいと思う。それは、仕事の成果にとって良いことでもあるし、自分や相手にとっての良いことでもあるし、ひいては社会全体にとっての良いことでもあると思っている。

 

人望というものは、きっかけ次第で逆転することもある。これは、結構色んなところで見たり聞いたりしている。嫌われたり疎んじられたりすることも、それが一定の限度まで行くと、反動で一気に逆転することがある。嫌悪が罪悪感に変わり、見方が一変する。そこに至るまでは、やはり中途半端であってはいけなくて、何かしら一貫したものがないことには、そういう逆転も起きない。

 

そんなことを考えつつ、目先のことはあまり気にしないようにする。

 

仕事の仕方

人を動かすのは難しい、と改めて感じる。

 

最近新たに職場に入った若い男の人がいる。まだ未成年の大学生で、ここでは仮にTと呼ぶ。Tはとても優秀で、知識も多いし仕事もでき、どこで学んだか知らないが、教えてなくても一通り、作業をうまくこなしてくれる。意識も高く、勉強会やインターンにも積極的に参加しているようである。

 

一緒に仕事をしていると、意識の高さがより感じられる。何も言わずに黙々と任せたことを仕上げてくれ、時には頼んでいないことも気を利かせてやってくれる。言葉もいらず、手間もかからず、大いに助けてもらっている。

 

とは言え、あまりTの才気を頼りすぎないよう心がけてはいた。いくら優秀とは言っても、入学したての大学生で、仕事も最近始めたばかり。形の上ではこなせても、まだ経験しなければならないことが沢山あるように思う。

 

自分の常識を押し付けないこと。そこを特に意識していた。相手のものわかりが良いと忘れそうになるが、あてにし過ぎるのはやはり危ない。すでに話が通っていることには、敢えて言わずに口を慎む。そうでないことに関しては、なるべく目線を同じに合わせる。なにごとも任せっぱなしにはせず、一から丁寧に説明するようにしていた。

 

しかし、それでも常識のズレは起きてしまうもの。こちらが何の他意もなく言っていることでも、相手が同じように受け取るとは限らない。そういうところから、すれ違いが起こってしまった。

 

ある時、私とTとを含めて数人でやっている仕事で、ちょっとした相談事が持ち上がった。今の仕組みでは解決できない問題があり、一部に手を加えて改良しなければならなかった。どう対応しようか、みんなで話し合うことになった。

 

改良が必要なのは、Tが担当している箇所だった。ここはTが一番詳しいはずなので、何とかならないかと話を向けた。もちろん、仕事の内容にケチをつけたわけではない。新しい問題が出てきたので「こういう対応は可能だろうか」と打診をしただけである。ここまでは、何の不思議もないはずだった。

 

ところが、自分が思っているような温度感では相手に伝わらなかった。Tは熱くなった。そんなことはない、これで正しいのだと主張をした。思いがけず語調が強めだったので、一同驚いた。何語か言葉を交わしてみたが、ああ言えばこう言うで、一歩も引かない様子だった。場の空気は白け、ひとまずその場は結論を出さずに終わらせることになった。

 

予期せぬタイミングの諍いに驚いた。こんな空気になるとは思わなかった。話の切り出し方とか、言葉の選び方がまずくて、否定されたように捉えられてしまったのだろうか。見直しを繰り返しつつ、手戻りも経ながら仕事を完成させていくのは普通のことなので、そこには誰も気をつけていなかった。だが、それがまだ普通ではない目線もあるということだった。

 

たまたまその時、Tの虫の居所が悪かっただけなのかも知れない。適当に理由をつけ、しばらく時間と距離を開けることにした。

 

正直、Tへの見方は変わった。なんかやりづらい人だなという印象がついてしまった。

 

同時に自分自身にもがっかりした。これぐらいのことは、予め分かっていたはずだった。年が若ければ不安定なところもあるだろうし、ましてや才気走った人ならなおさらだ。そう思って接していたつもりだったけれど、いざ直面するとまあメンドくさい。

 

どうしようかと考えた。最初は、なぜあんな文句を言われなければならないのだというモヤモヤがあった。そして逆に、普段一緒に働いている人たちの有難さを再確認することになった。器用な人はありがたいと言えばありがたいが、結局は一人で出来ることには限界があるので、多少不器用でも仕事をしやすい人の方が良い。

 

とは言え、織り込み済みのことをあれこれ言っても仕方ない。人は思い通りには動かないものだし、むしろ今までがすんなり行き過ぎたのだろう。仕事のしやすい人と仕事が出来るのは当たり前で、そうでない人とも折り合いをつけていけるのが人間力というものだと考え直す。

 

少し時間を置いたあと、Tに話しかけてみた。別の要件にかこつけて、さっきの問題に触れた。一方では、ここが能力の見せ所だと功名心を煽ったり、また一方では、これが出来ると本当に助かると頭を下げてお願いしてみたり。そういう内容のことを、ものすごく婉曲的に、かつ曖昧な形で伝えた。

 

この時ばかりは、日本語って便利だなと思った。格助詞と係助詞の使い方次第で、何か言っているようにも、何も言っていないようにも、如何様にも言えてしまうのだから。直接言うわけでもなく、かと言って遠回しに言うわけでもなく、外さずかつ当てもしない。もちろん、それまでの経緯から真意がどこにあるかは明らかなのだけれど、変に気持ちを逆撫でしたり、説教臭くなったり、あるいは気を遣わせたりしないように、腐心した。

 

その場はひとまず話を聴いてくれたみたいだった。だが、自分ではそれ以上の期待はしなかった。物事はそうすぐには変わらないので、長い目で見ていくしかない。少しでも言葉が伝わればそれで充分。件の問題については、あとで自分が何とかするか……と考えていた。

 

ところが、後日、Tが何も言わずにこの問題を解決してくれていた。しかも、ものすごく高い完成度で仕上がっていた。これを知った時には「さすが!」と、惜しみない賞賛の声をあげ、わざとらしいぐらいに周りにも喧伝した。

 

自分の行動が良かったのか、周りに助けられたのか、たまたま上手くいっただけなのか。答えはでないが、キナ臭い空気がボヤで済んでくれた安心感でほっとした。

 

結果的に良い方向に向かってくれたが、あとで色々考えた。なぜこんなことになってしまったのかとか、どう振る舞うのが良かったのかとか。人間である以上、間違いがあるのは避けられないので、問題が起きてしまうのは仕方がない。それより、問題が起きたあとの行動こそ大切だと思うので、そこは本当に色々考えた。

 

どういう選択肢がありえただろうかと考えているうち、ハッとした。例えば、Tが不平を言った時、一喝するということも出来たのではないか。あるいは、強い口調で口を塞ぐとか、理詰めで黙らせるとかいうことも出来たのではないか。つまり、暴力で解決するかどうかという場面に立たされていたことに気がついた。

 

相手の気が立っている時に力で押し付けるのは暴力だ。そんなことをすれば絶対に遺恨が残る。しかも、渋々従わせたら相手は全力が出せなくなり、仕事の質も落ちる。一度暴力を振るってしまっては、二度とそれ以前の人間関係には戻れないから、長期的に見てもマイナスだろう。また、自分が相手にしたことを、相手がまた別の人にするようになったら? それこそ、暴力の連鎖が始まってしまう。

 

理屈の上では暴力という選択肢もあるけれど、実際にはそんなこと考えもしない。色んな安全弁に遮られて、選択肢にすら上がらない。

 

恐ろしいのは、これらの安全弁を一つも備えていない人間がいるということだ。

 

確かにイラッとする気持ちはわかる。が、それをそのままストレートに表すのは頭を使わなさすぎだ。その場はそれで収まるかも知れないし、それはそれで楽だろう。だが、暴力で解決出来ないことなんで山のようにあるし、そんなやり方がずっと続くはずがない。なにより、暴力の癖がついてしまったら、絶対辞められなくなる。

 

問題なんてない方がおかしいのだ。不平を言えたり、問題を起こしたり出来る環境は、健全なのだ。それだけの遊びと余裕をもっているから、受け止めることが出来る。火薬の匂いを充満させることで、はじめから文句を出させなくすることも出来るだろう。しかし、それは臭いものに蓋をしただけで、禍根を将来に残すだけ。嘘や隠蔽の温床になる。とても、良いやり方とは思えない。

 

……結果は出てる。とにかく今は、自分のやり方を信じよう。

 

人との付き合い方

他人の生々しい自意識に直面したとき、どのように振る舞えば良いのだろう。

 

最近、他人と話す機会が増えた。飲み会で話したりとか、仕事の合間に世間話をしたりとか、そういう時間が多くなった。前は仕事のこと以外全く話さなかったけれど、今はもっと違うことも喋っている。そうすると、何気ない会話を通して普段とは違う相手の一面を知ることも増えてくる。

 

嫌な面もある。というか、打ち解けて油断がなくなった頃に出てくるのは、たいてい嫌な面だ。でも、なるべくそういうのはスルーする。もとより完璧は求めてないので、良い面悪い面含めて消化して、その人を知ることにつとめる。

 

しかし、スルーしづらく、どう反応すれば良いか戸惑うことも多い。失礼だが、この人何言ってんだろと、一瞬引くこともある。そこで常識の差を認める。どう受け止めれば良いのか、どういう距離感が良いのかを、そろそろ考えはじめる。

 

七つの大罪」のうち、一番良く目にするのは「高慢」だと思う。貪食、貪欲、怠惰、色欲あたりはあまり気にならない。というか、大罪とは言い過ぎな気がする。好きなものを好きなだけ食おうが、そんなの本人の勝手だろって感じ。そのほか、嫉妬は内でメラメラと燃えるものだし、怒りはあまりに目立ち過ぎる。高慢は、嫌らしく表に滲み出てくる。

 

自分自身の自意識を恥じる方ではあったけど、よくよく周りを見ていると、誰もが多かれ少なかれイタさがあるのに気がつく。確かに、器用か不器用かの違いはある。けれど、接する時間が多くなると、高慢は自ずと明らかになってくる。やはり、気づく人は気づくもの。本音はいつかバレるもの。罪というのは、そうそう隠しおおせるものじゃない。

 

他人の高慢な自意識に触れてしまったとき、どうすれば良いか。沈黙も返事の仕方のひとつだけれど、事なかれ過ぎるので出来ればしたくない。別に否定する気もないし、笑う気もない。むしろ、自分が相手を認めてないような空気を発しているから、そういうモノが出てしまうのかと考えたりする。だから、見て見ぬ振りをするのではなく、なんとか良い向き合い方が出来ないかと思う。

 

いつもは、心にもないことを平気で言う。たとえば、会話の流れの中で、誰かの手柄や良い部分が取り沙汰された時には、すぐにその人を持ち上げる。内容がどうかとか、実際に良いと思っているかとかは関係ない。何も考えずに「すごい」とか「さすが」とか言う。

 

それは、別に相手をおだてようと思っている訳ではなく、何も考えないことが良いと思っているのでそうしている。その人が活きる流れがあるなら、そこに自然に乗って行く。会話のテンポを大事にして、すぐに言葉を繋いでいく。認めるところは素直に認めれば良い。見たいのはその先だ。感心する気持ちが少しでもあれば、それで十分だと思っている。

 

言うはやすしだが、行うのはなかなか難しい。思い通りには、言葉がスラリと出てこないことがある。相手に対するわだかまりがあると、否定の言葉しか出てこなくなるし、相手を侮っていると、何かしらカンに触る余計な一言が出てくる。咄嗟に出てくる言葉ほど、そういうのが如実だ。反対に、媚びや下心があると、お世辞が過剰になる。これも白ける。結局、余計な心など無い方が良いのだと思う。

 

しかし、流れを逸脱した自慢話となると話は変わってくる。自然な流れの中ならともかく、不自然ならば言葉も吃る。心にもないことは、さすがに言えない。人づてに聞けば感心することでも、自分の口から言われると台無しだ。

 

そういうことを言わずには居られない理由があるのか、高慢に酔ってバカになっているだけなのか。自慢話をされた時、内容にはもう興味をなくすが、その理由は知りたいと思う。ただ、それをストレートに言うわけにもいかないので、微妙な間を作ってしまう。そして、しらじらしく的外れな質問をしたりして、その場をウヤムヤにしてしまう。ちょっとこれでは駄目だな、と思う。

 

思い切って、真剣に問いかけてみようかな。自慢話なんかする人は、適当な社交辞令を浴びすぎて、感覚が狂っているのかも知れない。自分の問題意識と、その人の自慢話との間に繋がるものがあれば、真っ向から話をしてもいいかも知れない。それで、お互いに何か気づいたり、考えるきっかけになれば良いと思う。何もなければ離れるだけ。そんな感じの習慣を身につけていきたいな。