運は天にあり

内省の記録

否定形を使わない

他人の会話をよそで聞いていて、そんな言い方しなくても良いのにとか、もっとこう言えばいいのにと思うことがある。話の中身というよりも、言葉の選び方とか返事の呼吸とか、そういうちょっとした所が良く気になる。

 

気になる言い方には角がある。わざわざ摩擦を起こしてるように聞こえてくる。ほんの少しの工夫や気づかいで柔らかくなるのに、その労を惜しんでか、みすみす衝突していくのがもどかしい。クッション言葉を一個入れるとか、逆に敢えて口に出さないとか、それぐらいのことで良いのにと、いつも残念に思う。

 

またあの人たちやっている。昨日も聞いた二人の会話。呆れた様子で答える方と、すまなさそうに尋ねる方。何度も何度も繰り返され、見飽きてしまったやりとりだ。答える方は聞く方の覚えの悪さに呆れるが、よそから聞けば説明も下手でいまいち伝わらない。にもかかわらず、聞く方を詰る態度が出てるから、気後れもあり不服もあり、いきおい会話もギクシャクとした雰囲気になってしまう。

 

会話の流れを妨げる言葉使いの、最たるは否定形だと思っている。必要な時もあるけれど、単に話をややこしくさせてるだけの否定が目立つ。実際そこまで必要か。意固地になっているだけではないか。そこはひとまず飲み込んで、次へ進めば良いのにと思う所で角が立つ。「いやそうじゃない」「それはわかってる」「だから違うって」。言葉も感情ももつれ合い、組んずほぐれつになっていく。

 

何を言おうとはじめから否定する気で話を聞く、嫌な会話の仕方がある。そんな会話のやり方が、言葉と言葉の応酬を貧しいものにしてしまう。否定出来ればあげつらう。出来なかったら押し黙る。自他の創発を産むべき言葉の力が、そうしてただの暴力に変わる。

 

否定を使わず話が出来たら、どんなに会話が豊かになるか。言わずもがなの余計な言葉が、腰を折って興をそいで、会話をみるみる淀ませる。他愛もない雑談であれ、必要上のやりとりであれ、それは全く変わらない。たった二文字の「否」の言葉が、今だけでなく未来にわたって、心も言葉も腐していく。

 

文法上の否定形すら、実は必要ないかもと思う。はっきり否と言うよりも、言葉の言い換えに骨を折る。伝え方を工夫すれば、どのようにでも言えるだろう。だから、ともかく一切の否定を使わず話してみよう。そう決めて日々を過ごしてみると、実際問題話は通る。それはさながら、融通無碍に形を変える水のよう。

 

一見小さなことかも知れない。けれど、日々つみ重なったなら、小さなことでも侮れない。空気のように見えないものに、痛めつけられるのはつらい。たとえ少々わざとらしくとも、形式的に過ぎたとしても、配慮が無いよりよほど偉い。

 

否定によって傷つくのは、目の前の人ばかりじゃない。もっと多くの人たちを巻き込んでしまう場合もある。例えば、心ない誰かから悪意あるレッテルを貼られたとする。それが自分にあっているかどうかにかかわらず、否定をすると罪になる。そのレッテルの対象となる人が、必ずどこかにいるからである。レッテルを押し付ける、それを嫌がって否定する、このやりとりだけで、共犯関係が成立する。その集大成が社会となり文化となって、差別や偏見を作っていく。

 

小さなことと言うこと自体、ナンセンスだろう。言葉は一個で成り立つものにあらず、自ずと聞く人話す人、周りの人を巻き込まずにはいられない。言葉は響き、こだまする。吐き捨てるように言った言葉でも、誰かの耳には残っている。それがいつしか自分のもとに、返ってくることもあるだろう。目に見えないものというのは、恐ろしいものだといつも思う。

 

否定を使わないということは、技術の上ではそう難しくない。それよりも、相手を否定したくなる心理の方が厄介で手強い。頭を目一杯柔らかくして、決して否とは口に出すまい。そうは思っていたとしても、時折ムズムズ現れる否定の心理作用があって、憮然となってしまう時が危ない。

 

あるいは不満、あるいは功名心、あるいは慢心。相手を否定したくなる原因には、様々な心理があると思う。けれども、一番は器の問題ではないかと思う。狭い了見にとらわれて、目の前のものを否定したくなるのも器の小ささゆえ。一時の気分に左右されることのない、人格の素地にある器の大きさが、否定の心理に働きかけているように思う。それは、経験を重ねて広くすることも出来るはず。世界が相対的なものであること、多様性をもったものであることを、受け容れられる器の大きさがあって欲しいと思う。

泣いて馬謖を斬る

この故事のことを、最近よく考えている。三国志が好きだったので、言葉自体はずっと昔から知っていた。しかし、それは知識として知っていたというだけであった。最近になって、この言葉を生きた実体として捉えられるようになり、その意義をより進んで考えるようになった。

 

馬謖は才子だった。官僚的な才覚に秀でていた。自分を優秀に見せるのが上手かったので、孔明に寵愛されていた。しかし、いざ大任を任されるとその傲慢さが災いし、周りの諌めも聞かずに独断で動き、大敗を招いてしまう。街亭の敗戦は致命的となり、蜀軍は遠征を続けることが出来なくなる。孔明は、北伐を台無しにしたこの男を、泣く泣く斬らざるを得なかった。

 

一番格好悪いタイプだと思う。しかも、期待を持たせて裏切る分タチの悪いタイプだ。例えば、孔明に嫌われながらも、実力でしっかり功績を上げ続けた魏延なんかの方が余程魅力がある。

 

馬謖みたいなのが物語中の人物であるうちは良かった。さすがに、ここまで戯画化された人間もいないだろうと思っていた。だが、現実にはこういうのが一杯いる。呆れるほどの馬謖っぷりを発揮する奴が何人もいる。今ではむしろ、物語を読んで、こういう奴いるよなと頷くぐらいになった。

 

才子肌の人間ほど信用できないものはない。机上の空論ばかりで中身がなく、口ほどの成果を出せない。プライドが高く尊大で、他者への敬意が全くない。それなのに、なまじ小才がきく分、実力以上に評価され、身に余る権力を持ってしまっていたりする。本当に迷惑千万な存在だと思う。

 

以前の会社の上司Kが、今までみた中でトップクラスにひどい才子だった。なまじの才、なまじの口のうまさ、なまじの意識の高さ、どれをとっても甚だしく、上からの覚えのめでたさを良いことに、増長して手がつけられなくなっていた。この男の言動を見ていて、勘違いしたアマチュアが幅を効かせることが、どれだけ組織や仕事にとって害であるかを思い知らされた。

 

特にひどかったのが、新卒の大学生を相手にした時の話。やはり、立場の弱い人間に相対した時に、その人の人間性如実に現れる。一年ぐらいバイトで雇っていた学生を、新卒で採用した。他の会社の内定も貰っていたというその学生を、かなりの好待遇で招いたらしい。ところが、いざ働き始めると、思い通りにならないことが多くなった。適切な指示を出すことも、分からないことを教えることも、Kには出来なかったのである。挙句、高い給料が惜しくなり、パワハラで辞めさせるという暴挙にでた。

 

街亭の敗戦もそうだけれど、逆にどうしたらここまで酷いことになるのかと思うぐらいの大失敗を、才子たちはやらかす。一年間の試用期間付きという超簡単な採用の仕事で、なぜ違法な行為にたどりつくのか。百歩譲って判断ミスは置いておくとしても、他で取り返すことはいくらでも出来たはず。仕事の頼み方や作業の割り当て方などでもリカバー出来るのに、駄々っ子のようにヒステリックに喚き立てることで、そういう余地を全部自分で失わせてしまう。

 

こんな体たらくであるから、もちろん本業でも成果が出せるわけがない。大見得切ってチームの責任を引き受けたKだったが、素人芸がそう通用するはずもなく、内実はボロボロだった。根拠のない自信と万能感の前に、現実の壁が立ちはだかる。モラトリアムもいよいよ終わり、年貢の納め時が来る。その訪れをKも薄々気付いていたのか、「結果よりも本質が大事」などと持論めかして抜かしていた。無論、結果が出ていればこんなセリフを吐く必要もないわけだから、まともに取り合う価値もない。

 

この男はT大の大学院を出たとか言っていた。T大にはこんなのがゴロゴロいる。IQが偏重されすぎる今の世の中、たまたまIQが高く生まれついただけの人間が、こうしてタチの悪い失敗作に成り果てて行く。こいつら、内面の幼さの割にIQとプライドだけが異常に発達してて、本当に奇妙で気持ち悪いんだよ。こんな下品な連中のために、どれだけ国は貪られていくのだろう?社会は「頭の良さ」というものを定義し直さなければいけないと、いつも思う。

 

本をこれだけ読んだ。こんなに色んなことを知ってる。ハイハイ、すごいねすごいねって感じ。そんなことを自負している奴で、頭が良いと思うのは一人もいなかったよ。小賢しいIQ型の才子ばかりで、むしろ馬鹿が多かった。知識と知恵は全くの別物。いくら小難しい言葉を使おうが、ものの分かったような話し方をしようが、そんなのはフェイク、偽物だ。

 

才子というのは、属性ではなく本質だと思っている。今まで出会った才子たちは、皆申し合わせたように同じような性質をもってる。机上の空論ばかりで実践が出来ず、いざという時に頼りにならない。人の話を聞かずに一方的に喋り続ける。思い通りにならないとすぐに癇癪を起こす。倫理感のなさは特にひどくて、見た目ヘナチョコだが中身はDQNと変わらない、と言うか「外ヅラのいいDQN」といった方が良いくらい罪の意識に乏しい。

 

才子の陰に才子あり。馬謖を抜擢したのは孔明である。とかく美化されがちな諸葛孔明だが、これもまた一個の才子だと思っている。街亭の将の人選は、果たして適切だっただろうか。もっと堅実な仕事の出来る将がいなかっただろうか。 斬るものを泣かせるタマネギ野郎・馬謖。だが、実は泣いてるのは孔明だけで、周りはずっと馬謖は信用できないと諌めていたんだよ。

 

Kのいる会社に入るまでにも、才子の陰があった。こちらは、今まで見た中で最も言葉を蔑ろにし、最も言葉の価値を貶めている人間だった。Kほど酷くはないものの、自分を大きく見せようとしたり、優等生然としていながら遵法意識が全くないところはそっくりで、私が「才子」という人種の存在をはっきりと悟ったのは、この二人のあまりにも多い共通点に気付いた時からだった。

 

平和な日常に流されて、ややもすると忘れそうになるが、罪の記憶は語り継いでいかなければならないと思う。才子たちは悪だ。反面教師だ。罪を暴いて晒し上げ、こうなるまいとの戒めにすべきだ。縁を切った以上、自分の中では死んだも同然だが、記憶と経験はなくならないので、この屍を担いで歩いて行く。この先もずっと、Body bag (死体袋) に詰め込んで、殴りつづけていく。

 

人望

新しい仕事を見つけ、半年が経ち、暮らしはいよいよ落ち着いてきた。季節も気づけば秋になる。飽きることなく今の仕事を続けられたのは、やはり人間関係が一番大きい。探り探りの時期を終え、一緒に働く時間を過ごし、職場の人たちとはほど良い距離感が出来ている。

 

環境を変えるのはとても良いことだ。今までの自分を知らない人と、新しい生活を始めることが出来る。自分はこういう人間だと決めつけてくる相手がいないと、本当にのびのび過ごすことが出来る。以前よりずっと、自由に生きられる。

 

今の自分には居場所がある。これは、幸せなことだと思う。周りが敵ばかりの時は、仕事や勉強以外のことにあまりに多くの気持ちを持っていかれた。思考も体力も、全部奪われてしまっていた。同じ状況が何度も繰り返されると、将来にも希望が持てなくなる。努力出来るということは、それだけで大いに恵まれていると思う。

 

自分に人望がないのは痛感してる。また、人望というものが、求めれば求めるほど得られないものでもあるということも知ってる。振り返れば色々な試行錯誤をしてみたけれど、どれも上手くはいかなかった。苦労せずとも産まれながらにもっている人もいるし、どんなに頑張っても得られない人もいる。結局作為ではどうにもならないものなのだと思う。

 

今の自分に人望はあるだろうか。まあ、可もなく不可もなくといった感じ。なくはないが、あるとも言えない。贔屓目に見てもそんなところだ。経験に基づくバランス感覚でなんとかマイナスを抑えてはいるが、かと言ってプラスになっている訳でもない。ようやく居場所は出来たとはいえ、そう色々なことが急に変わるわけじゃない。

 

人との関わり方や言葉の使い方にはかなり気をつけてる。他人は滅多に意識しないようなことでも、細心の注意を払っていたりする。けれども、そういうのは必ずしも人望に繋がる訳ではないし、往々にして報われないもの。下手をすると、裏目に出てしまうことさえある。

 

Kという人と一緒に仕事をしていた時のこと。やっていたのは小さな作業で、Kと私の二人だけで担当していた。Kはこの作業の経験が無かった。なぜかゆき違いでそこに割り当てられてしまっていた。途中でそれに気づいたものの、もう動き出してしまったことなのでそのまま行くしかなく、私の方にはいくらか覚えがあったので、丁寧にやり方を教えたり、また励ましたりしながら、一緒に作業を進めていった。

 

自分としては、やるべきことをいつも通りやっていたつもり。特別普段と何か違っていたわけでもない。初めての作業でKが苦労していた分、気を回すことが多かったくらいのものだったと思う。

 

しかし、二人の様子を見ていたある人が呟いた。「Kさんにうまくやらせてる」。何の他意もなくポツリともれた感想だったように思う。それが耳に届いてしまった。

 

驚いた。「やらせている」という言葉にギョッとした。まめに気を配っていたことで、かえって悪目立ちしてしまったらしい。その人の言い方からは、私がKを体良く使役しているというニュアンスが読み取れた。普段、決して仲の悪い人でもないからこそ、この呟きは一層真実らしく聞こえた。

 

さすがにこれは心外だった。Kにやらせて楽するなど、全く思いもしなかった。簡単なことをKに任せ、大変なのは自分でやった。説明するのも手間がかかるし、なんなら全部一人でやりたいぐらいのものだった。でも、そういう仕事のやり方は良くないと思うから、Kと細かくやりとりをして、一緒に出来る形を作っていた。邪推も甚だしいと思った。

 

なるべく自分も相手も気持ち良く仕事が出来るように気をつけていたつもりだったけれど、これを聞いてガックリした。どうも、気配りがわざとらしくなってしまうらしい。

 

けど、そう見られた以上はどうしようもない。悔しいが、弁解の余地はない。こういうのはむしろ、うだうだ弁解するとダサくなる。大人は何も言わないが、そう思われた時点で終わりである。

 

親切だと思ってしたことが、親切だと受け取られれば、それに越したことはない。現実はなかなかうまくいかない。気づかれないだけならまだしも、正反対の印象を持たれるのは辛い。「やらせてる」とは、ほんと嫌な言い方するなと思った。

 

どうすれば良かったのかと考えた。しかし、他に良いやり方は見つからなかった。伝えるべきことはちゃんと伝える方が良いし、ぶっきらぼうに仕事を投げるようなマネもしたくない。あまり手取り足取りでは仕事が進まないから、内容とか量を加減して作業を割り振るようにもしていた。協調してやっていくには、これが精一杯だった。

 

言葉が過剰だろうか。言葉を控えるべきだろうか。どうしても、そうは思えなかった。おだててやらせているように見えたとしても、わざとらしく見られたとしても、そういうのがないよりかはマシだと思わざるをえない。なくなったらどうなるだろう。放っておけば細かいことが面倒になり、おざなりになる。確認不足によるすれ違いが起きる。照れや羞らいが出来て、なんとなく気持ちを伝えづらくなる。そうしてどんどん溝が深まる。一旦、だらしない関係性になったら、そこから立て直すのも大変だ。

 

最善ではないかも知れない。自分の能力の限界もある。けれど、次善のやり方に過ぎなかったとしても、今の自分に出来ることを精一杯やっていくことしか出来ない。

 

自分のやっていることが、人望につながらなかったり、逆に反感を買ってしまうことについて、気にしても仕方がないと思うようになった。批判は甘んじて受け入れるしかない。思い当たる節がないではないしな。本当に心にもなく儀礼的に喋っていることもあるし、我ながらわざとらしいと思うこともある。それでも、目に見えないものを無視することは出来ないし、そこにこそ大切なものがあると思うから、やるしかないと思っている。

 

不本意なことはあるが、信じていることが一つ。長い目で見たときに、色々なことがきっと良い方向に向かうに違いないということ。目先のことばかり追うと、どんどん悪い循環に入っていってしまう。今まで、反面教師を何人も見てきたから確信してる。こうすればこうなるというのを、知ってて見過ごすことは出来ない。同じことを繰り返したくない。自分の経験してきたことを、物事がちゃんと良い方向に向かうように活かしたいと思う。それは、仕事の成果にとって良いことでもあるし、自分や相手にとっての良いことでもあるし、ひいては社会全体にとっての良いことでもあると思っている。

 

人望というものは、きっかけ次第で逆転することもある。これは、結構色んなところで見たり聞いたりしている。嫌われたり疎んじられたりすることも、それが一定の限度まで行くと、反動で一気に逆転することがある。嫌悪が罪悪感に変わり、見方が一変する。そこに至るまでは、やはり中途半端であってはいけなくて、何かしら一貫したものがないことには、そういう逆転も起きない。

 

そんなことを考えつつ、目先のことはあまり気にしないようにする。

 

仕事の仕方

人を動かすのは難しい、と改めて感じる。

 

最近新たに職場に入った若い男の人がいる。まだ未成年の大学生で、ここでは仮にTと呼ぶ。Tはとても優秀で、知識も多いし仕事もでき、どこで学んだか知らないが、教えてなくても一通り、作業をうまくこなしてくれる。意識も高く、勉強会やインターンにも積極的に参加しているようである。

 

一緒に仕事をしていると、意識の高さがより感じられる。何も言わずに黙々と任せたことを仕上げてくれ、時には頼んでいないことも気を利かせてやってくれる。言葉もいらず、手間もかからず、大いに助けてもらっている。

 

とは言え、あまりTの才気を頼りすぎないよう心がけてはいた。いくら優秀とは言っても、入学したての大学生で、仕事も最近始めたばかり。形の上ではこなせても、まだ経験しなければならないことが沢山あるように思う。

 

自分の常識を押し付けないこと。そこを特に意識していた。相手のものわかりが良いと忘れそうになるが、あてにし過ぎるのはやはり危ない。すでに話が通っていることには、敢えて言わずに口を慎む。そうでないことに関しては、なるべく目線を同じに合わせる。なにごとも任せっぱなしにはせず、一から丁寧に説明するようにしていた。

 

しかし、それでも常識のズレは起きてしまうもの。こちらが何の他意もなく言っていることでも、相手が同じように受け取るとは限らない。そういうところから、すれ違いが起こってしまった。

 

ある時、私とTとを含めて数人でやっている仕事で、ちょっとした相談事が持ち上がった。今の仕組みでは解決できない問題があり、一部に手を加えて改良しなければならなかった。どう対応しようか、みんなで話し合うことになった。

 

改良が必要なのは、Tが担当している箇所だった。ここはTが一番詳しいはずなので、何とかならないかと話を向けた。もちろん、仕事の内容にケチをつけたわけではない。新しい問題が出てきたので「こういう対応は可能だろうか」と打診をしただけである。ここまでは、何の不思議もないはずだった。

 

ところが、自分が思っているような温度感では相手に伝わらなかった。Tは熱くなった。そんなことはない、これで正しいのだと主張をした。思いがけず語調が強めだったので、一同驚いた。何語か言葉を交わしてみたが、ああ言えばこう言うで、一歩も引かない様子だった。場の空気は白け、ひとまずその場は結論を出さずに終わらせることになった。

 

予期せぬタイミングの諍いに驚いた。こんな空気になるとは思わなかった。話の切り出し方とか、言葉の選び方がまずくて、否定されたように捉えられてしまったのだろうか。見直しを繰り返しつつ、手戻りも経ながら仕事を完成させていくのは普通のことなので、そこには誰も気をつけていなかった。だが、それがまだ普通ではない目線もあるということだった。

 

たまたまその時、Tの虫の居所が悪かっただけなのかも知れない。適当に理由をつけ、しばらく時間と距離を開けることにした。

 

正直、Tへの見方は変わった。なんかやりづらい人だなという印象がついてしまった。

 

同時に自分自身にもがっかりした。これぐらいのことは、予め分かっていたはずだった。年が若ければ不安定なところもあるだろうし、ましてや才気走った人ならなおさらだ。そう思って接していたつもりだったけれど、いざ直面するとまあメンドくさい。

 

どうしようかと考えた。最初は、なぜあんな文句を言われなければならないのだというモヤモヤがあった。そして逆に、普段一緒に働いている人たちの有難さを再確認することになった。器用な人はありがたいと言えばありがたいが、結局は一人で出来ることには限界があるので、多少不器用でも仕事をしやすい人の方が良い。

 

とは言え、織り込み済みのことをあれこれ言っても仕方ない。人は思い通りには動かないものだし、むしろ今までがすんなり行き過ぎたのだろう。仕事のしやすい人と仕事が出来るのは当たり前で、そうでない人とも折り合いをつけていけるのが人間力というものだと考え直す。

 

少し時間を置いたあと、Tに話しかけてみた。別の要件にかこつけて、さっきの問題に触れた。一方では、ここが能力の見せ所だと功名心を煽ったり、また一方では、これが出来ると本当に助かると頭を下げてお願いしてみたり。そういう内容のことを、ものすごく婉曲的に、かつ曖昧な形で伝えた。

 

この時ばかりは、日本語って便利だなと思った。格助詞と係助詞の使い方次第で、何か言っているようにも、何も言っていないようにも、如何様にも言えてしまうのだから。直接言うわけでもなく、かと言って遠回しに言うわけでもなく、外さずかつ当てもしない。もちろん、それまでの経緯から真意がどこにあるかは明らかなのだけれど、変に気持ちを逆撫でしたり、説教臭くなったり、あるいは気を遣わせたりしないように、腐心した。

 

その場はひとまず話を聴いてくれたみたいだった。だが、自分ではそれ以上の期待はしなかった。物事はそうすぐには変わらないので、長い目で見ていくしかない。少しでも言葉が伝わればそれで充分。件の問題については、あとで自分が何とかするか……と考えていた。

 

ところが、後日、Tが何も言わずにこの問題を解決してくれていた。しかも、ものすごく高い完成度で仕上がっていた。これを知った時には「さすが!」と、惜しみない賞賛の声をあげ、わざとらしいぐらいに周りにも喧伝した。

 

自分の行動が良かったのか、周りに助けられたのか、たまたま上手くいっただけなのか。答えはでないが、キナ臭い空気がボヤで済んでくれた安心感でほっとした。

 

結果的に良い方向に向かってくれたが、あとで色々考えた。なぜこんなことになってしまったのかとか、どう振る舞うのが良かったのかとか。人間である以上、間違いがあるのは避けられないので、問題が起きてしまうのは仕方がない。それより、問題が起きたあとの行動こそ大切だと思うので、そこは本当に色々考えた。

 

どういう選択肢がありえただろうかと考えているうち、ハッとした。例えば、Tが不平を言った時、一喝するということも出来たのではないか。あるいは、強い口調で口を塞ぐとか、理詰めで黙らせるとかいうことも出来たのではないか。つまり、暴力で解決するかどうかという場面に立たされていたことに気がついた。

 

相手の気が立っている時に力で押し付けるのは暴力だ。そんなことをすれば絶対に遺恨が残る。しかも、渋々従わせたら相手は全力が出せなくなり、仕事の質も落ちる。一度暴力を振るってしまっては、二度とそれ以前の人間関係には戻れないから、長期的に見てもマイナスだろう。また、自分が相手にしたことを、相手がまた別の人にするようになったら? それこそ、暴力の連鎖が始まってしまう。

 

理屈の上では暴力という選択肢もあるけれど、実際にはそんなこと考えもしない。色んな安全弁に遮られて、選択肢にすら上がらない。

 

恐ろしいのは、これらの安全弁を一つも備えていない人間がいるということだ。

 

確かにイラッとする気持ちはわかる。が、それをそのままストレートに表すのは頭を使わなさすぎだ。その場はそれで収まるかも知れないし、それはそれで楽だろう。だが、暴力で解決出来ないことなんで山のようにあるし、そんなやり方がずっと続くはずがない。なにより、暴力の癖がついてしまったら、絶対辞められなくなる。

 

問題なんてない方がおかしいのだ。不平を言えたり、問題を起こしたり出来る環境は、健全なのだ。それだけの遊びと余裕をもっているから、受け止めることが出来る。火薬の匂いを充満させることで、はじめから文句を出させなくすることも出来るだろう。しかし、それは臭いものに蓋をしただけで、禍根を将来に残すだけ。嘘や隠蔽の温床になる。とても、良いやり方とは思えない。

 

……結果は出てる。とにかく今は、自分のやり方を信じよう。

 

人との付き合い方

他人の生々しい自意識に直面したとき、どのように振る舞えば良いのだろう。

 

最近、他人と話す機会が増えた。飲み会で話したりとか、仕事の合間に世間話をしたりとか、そういう時間が多くなった。前は仕事のこと以外全く話さなかったけれど、今はもっと違うことも喋っている。そうすると、何気ない会話を通して普段とは違う相手の一面を知ることも増えてくる。

 

嫌な面もある。というか、打ち解けて油断がなくなった頃に出てくるのは、たいてい嫌な面だ。でも、なるべくそういうのはスルーする。もとより完璧は求めてないので、良い面悪い面含めて消化して、その人を知ることにつとめる。

 

しかし、スルーしづらく、どう反応すれば良いか戸惑うことも多い。失礼だが、この人何言ってんだろと、一瞬引くこともある。そこで常識の差を認める。どう受け止めれば良いのか、どういう距離感が良いのかを、そろそろ考えはじめる。

 

七つの大罪」のうち、一番良く目にするのは「高慢」だと思う。貪食、貪欲、怠惰、色欲あたりはあまり気にならない。というか、大罪とは言い過ぎな気がする。好きなものを好きなだけ食おうが、そんなの本人の勝手だろって感じ。そのほか、嫉妬は内でメラメラと燃えるものだし、怒りはあまりに目立ち過ぎる。高慢は、嫌らしく表に滲み出てくる。

 

自分自身の自意識を恥じる方ではあったけど、よくよく周りを見ていると、誰もが多かれ少なかれイタさがあるのに気がつく。確かに、器用か不器用かの違いはある。けれど、接する時間が多くなると、高慢は自ずと明らかになってくる。やはり、気づく人は気づくもの。本音はいつかバレるもの。罪というのは、そうそう隠しおおせるものじゃない。

 

他人の高慢な自意識に触れてしまったとき、どうすれば良いか。沈黙も返事の仕方のひとつだけれど、事なかれ過ぎるので出来ればしたくない。別に否定する気もないし、笑う気もない。むしろ、自分が相手を認めてないような空気を発しているから、そういうモノが出てしまうのかと考えたりする。だから、見て見ぬ振りをするのではなく、なんとか良い向き合い方が出来ないかと思う。

 

いつもは、心にもないことを平気で言う。たとえば、会話の流れの中で、誰かの手柄や良い部分が取り沙汰された時には、すぐにその人を持ち上げる。内容がどうかとか、実際に良いと思っているかとかは関係ない。何も考えずに「すごい」とか「さすが」とか言う。

 

それは、別に相手をおだてようと思っている訳ではなく、何も考えないことが良いと思っているのでそうしている。その人が活きる流れがあるなら、そこに自然に乗って行く。会話のテンポを大事にして、すぐに言葉を繋いでいく。認めるところは素直に認めれば良い。見たいのはその先だ。感心する気持ちが少しでもあれば、それで十分だと思っている。

 

言うはやすしだが、行うのはなかなか難しい。思い通りには、言葉がスラリと出てこないことがある。相手に対するわだかまりがあると、否定の言葉しか出てこなくなるし、相手を侮っていると、何かしらカンに触る余計な一言が出てくる。咄嗟に出てくる言葉ほど、そういうのが如実だ。反対に、媚びや下心があると、お世辞が過剰になる。これも白ける。結局、余計な心など無い方が良いのだと思う。

 

しかし、流れを逸脱した自慢話となると話は変わってくる。自然な流れの中ならともかく、不自然ならば言葉も吃る。心にもないことは、さすがに言えない。人づてに聞けば感心することでも、自分の口から言われると台無しだ。

 

そういうことを言わずには居られない理由があるのか、高慢に酔ってバカになっているだけなのか。自慢話をされた時、内容にはもう興味をなくすが、その理由は知りたいと思う。ただ、それをストレートに言うわけにもいかないので、微妙な間を作ってしまう。そして、しらじらしく的外れな質問をしたりして、その場をウヤムヤにしてしまう。ちょっとこれでは駄目だな、と思う。

 

思い切って、真剣に問いかけてみようかな。自慢話なんかする人は、適当な社交辞令を浴びすぎて、感覚が狂っているのかも知れない。自分の問題意識と、その人の自慢話との間に繋がるものがあれば、真っ向から話をしてもいいかも知れない。それで、お互いに何か気づいたり、考えるきっかけになれば良いと思う。何もなければ離れるだけ。そんな感じの習慣を身につけていきたいな。

 

責務

バイト先に新しく、人が二人やってきた。ともに若く、一人はスーパーの仕事もしてる二十代の女性で、もう一人はまだ未成年の大学生だ。こないだ面接に来てたあの人かと、思えば今はもう机を並べて働いている。職場の空気も若返り、変化で人も活気づく。

 

年長者の醜態を散々見てきたので、若い人と接するのは特に気を遣う。年上のことはいい。その人が敬意を持たれるかどうかは自己責任だし、魅力がないと思えばこちらから距離をとるだけだ。若い人の場合は違う。その人の未来に多かれ少なかれ自分も影響を及ぼすことになるから、今の自分に何が出来るのかを考える。

 

伝えたいことが伝われば、それは嬉しいことだ。けれど、そればかりではないだろう。日常の言動はいつも見られているし、一緒に過ごす時間が長いほど、素の自分がさらけ出される。嫌な部分も含めて、全人格が評価される。それは、良い意味でも悪い意味でも他人に影響を与えずにはおかないし、年長者や地位のある人なら、なおさらだ。

 

若い人と接していて、ハッとしたことがある。職場で以前からよく話をすることのあった人が、ある時、私の受け売りで話しをしているのを聞いてしまった。驚いた。どこかで聞いたことがあると思えば、他ならぬ自分の言葉である。吹き込むでも何でもなく、何気なく発した言葉が相手に乗り移ってしまった。これは、普段の言動に相当気をつけないといけないぞと思った。

 

作られたものには、限界がある。自分をどれだけ良く見せようとも、中身がなければすぐにバレる。言葉はいくらでも飾れるが、言葉に偽善が多ければ、相手もそのまま偽善者になってしまう。

 

昔、会社を辞めた時のことを思い出す。「なぜ俺に相談しなかった」と言ってきたオッサン上司に、心底から呆れたことがある。なぜも何も、そこに「信頼していない」以外の理由がある訳がない。メシに連れて行き、おだてて自尊心をくすぐれば相手がなびくと思ってるのか。それで人心収攬成功と、一人で勝手に勘違いしてるのか。作られた人望に、作られた信頼。それを本気で信じてることこそ噴飯ものだ。下手の考え休むに似たり。他人を作為で操ろうとする、考え自体がおこがましい。

 

年をとって経験が増える。地位が上がる。それを、自分の魅力や人望と勘違いしている人間が多すぎる。実態はどうだ。頭が固くなったり、傲慢になったり、下品になったり。そんなのばかりだ。でかくなるのは態度と声ばかり、器の大きさはちっとも変わりゃしない。

 

振り返れば、今まで困った時に助けてくれた大人がいなかった。こういう言葉をかけて欲しいと思ったことの、一つとして叶えられたことはなかった。力を持ったら持った分だけ濫用する。弱い相手を搾取したり、支配欲を満たすのに利用したりする。今、自分より若い人に接していて、とても同じことは出来ない。あの時、こういう人がいて欲しかったという思いを、自分自身で果たそうとしている。

反省

色んな悪いことが重なり、大人気ないことをしてしまった。

 

人に気を遣わせるより自分が気を遣う方が楽だから、普段はちょっと嫌なことでもスルーできる。

 

ただ、何だかんだ消化は出来ていなくて、余裕がなくなると積み重ねが一気に来る。

 

それだけ見れば些細なことでも、それまでの時間軸の厚みで束になってやってくるから、ムカつきの度合いが半端じゃない。

 

我を忘れることはないけれど、身体が言うことを聞かなかったり声が出なかったりする。無気力になる。

 

休もう。距離をとろう。こういう時は自重するしかない。

 

あと、普段の振る舞いも少し見直そう。最近、また色々と思う所がでてきたので、良いきっかけだったかもしれない。