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桜花賞へ向けて

今週末はいよいよ、楽しみにしていた桜花賞。桜の花咲く宝塚の舞台で、うら若き牝馬たちがクラシックデビューを果たす日だ。今年の牝馬は強い。昨年は牡馬が強かったが、今年のクラシックは牝馬の年で、綺羅星のようなヒロインたちが揃っている。

 

思い出のために、出走メンバーについて思うことを書いておこう。

 

ソウルスターリング

鳴り物入りで日本へやって来た、欧州の怪馬・フランケルの娘。前評判を裏切らない強さで、ここまで4戦4勝。どれも危うげのない完勝で、この馬は強すぎる、と思った。去年の1番人気メジャーエンブレムには脆さも感じたが、この馬は不安要素が全くない。

 

サンデーサイレンスディープインパクトの血が席巻する今の日本では、「結局ディープか」と思わされることが多かったので、これから欧州フランケルの血が大暴れすると思うと、とてもワクワクする。

 

ミスエルテ

同じくフランケルの娘。朝日杯の敗戦でソウルスターリングより人気は落ちてしまったけれど、最初にフランケル産駒のインパクトを与えたのはこの馬だということを忘れてはいけない。

 

初めて見た時、すごくきれいな名前の馬だと思った。ミス・エルテで「エルテ嬢」なのかと思えばさにあらず、区切りはミ・スエルテで、スペイン語で「私の幸運」を意味するのだと言う。それでも良い響き。ファンタジーステークス馬連万馬券をとらせてくれたので、非常に思い入れがある馬だ。

 

アドマイヤミヤビ

この馬も、名前が好きだ。冠名「アドマイヤ」に和語の「雅」がくっついた名前で、いかにも競争馬の名前らしい、独特な味のある名前。これで桜花賞獲ったら風流で格好良いな。

 

人気は高くて、恐らく2番人気になるはず。主役は勿論フランケルの娘だけれど、初対戦だからどちらが強いかは分からず、馬場が良かったらこの馬が僅かに差し切ってしまいそうな気もする。ここまでハイレベルな勝負だと、あとは天候次第、運否天賦の世界になると思う。

 

カラクレナイ

唐紅。ミヤビ以上に和臭の強い馬だ。でも、どちらかと言えば、この色は秋の秋華賞に似合うかな。去年のソルヴェイグもそうだけど、フィリーズレビュー組は実力が読めず不気味な存在。買い目から外す訳にもいかないので、悩ましい。

 

レーヌミノル

九州小倉での圧勝から今に至るまで、ずっと強い。牡馬と戦ったり遠征もしたりするけど、いつも強い。だから、密かに応援している。派手さが無いので人気は出ないだろうけど、3着ぐらいに残ってくれるのでは無いかと期待している。

 

ミスパンテール

この馬は、身体が大きい。3歳牝馬なのに、500kgを超える巨大な馬体を持っている。出走馬の中で500kg超えはこの馬だけだから、雨で馬場がぬかるんで来た時、タフに突っ込んでくるのはこの馬かも知れない。

 

リスグラシュー

一番の曲者だと思うのがこの馬。前走チューリップ賞ソウルスターリングとミスパンテールに敗れたけれど、明らかに手抜きの死んだふり。本番の桜花賞ではしっかり本気を出してくるはず。

 

 

ソウルスターリング

リスグラシュー

▲アドマイヤミヤビ・レーヌミノル

 

本命はソウルスターリング。それから、雨で馬場が重くなるため、スタミナのありそうなリスグラシューとアドマイヤミヤビ、内目の枠で前に行けそうなレーヌミノルが来ると見た。

 

 

社会貢献とは

職場の人から、採用の募集の文章を書いたから、外に出す前に感想を聞かせて欲しいと言われた。読んでみると、そこには、社会貢献が出来ることがこの仕事のやりがいだということが強調して書いてあった。

 

社会貢献……?

そんなものあったかなと疑問に思って、意識高いですねとだけ答えておいた。すると、それが意に沿わない答えだったせいか、いや、これは大事なことなんだ、ウチは他の所みたいに金儲けをしたいんじゃない、社会貢献が大事なんだという話をされた。

 

そのことがあってから、社会貢献って何なのだろうと考えた。良いことだとは思うし、自分でもそういうことが出来たらいいなと思うから、色々と挑戦してみたことはある。どうしようもない強い罪の意識に駆り立てられていた時、何とか世の中の役に立つようなことが出来ないかと考え、地元の議員さんの勉強会に参加してみたり、参院選で無所属の候補者のポスター貼りを手伝ってみたりした。けれども、自分の中に軸がないせいでどれも空回り気味で、活動の先に満足な手応えを得ることは出来なかった。形に囚われすぎてしまっていて、己の本分がどこにあるのか、見えていなかったのだと思う。今でも、社会との関わり方はいまいち分からない。

 

しかし、形の見えない漠然とした社会貢献という言葉には、もの凄い胡散臭さがある。どういうことが貢献になるのか、自分でも分からないのだけれど、これはちょっと違うなというのは何となく分かる。あまりにも綺麗で、あまりにも便利な言葉だから、嘘も多いような気がするのだ。金儲けじゃない、社会貢献なんだという言葉は、無性に引っかかった。

 

お金が欲しいのだって、人間の自然な感情だ。誰だって人並みの生活がしたいし、贅沢もしたい。金儲けを否定したら、資本主義社会を全否定するようなものだし、そういう人たちの沢山いるこの資本主義社会を否定したら、一体どこに貢献すべき社会があると言うのだろう。

 

話を終えた後にどうしても違和感が消えず、なぜこの人の言葉がこんなに心に響かないのだろうかと思ったら、自分から見て、偽君子、スノッブという奴だからだった。人間の醜い面を嫌悪し、視界から抹殺しようとしているように見えた。この人の掲げる正義は、恐ろしいと思う。

 

以前までは、善く生きることをはじめから放棄している人よりかは、偽善の方がまだマシなのではないかと思っていた。しかし最近は、マシだと思うこと自体、まんまと偽善者の思う壺だということに気付いたので、どちらも変わらないと思うようになった。

 

言葉は信用出来ないと、つくづく思う。信用出来るかどうかは、その人の言動に触れて、直観で決める。

 

働くことの虚しさ

 

転職して半年ぐらいが経ち、生活も安定して来た。この頃は、労働とは虚しいものだとつくづく思うようになった。

 

一日の労働を終え、充実感みたいなものが込み上げてくる度に、罪悪感を感じる。自分の性格が、どんどん悪くなってきている気がする。交感神経の働きに騙されて、勘違いした自信をつけてしまいそうなのが、とても怖い。

 

働けるということは、大変恵まれていることだ。身体がちゃんと動いて、頭をしっかり働かせられるというのは、当たり前ではない、有難いことなのだ。自分は今、たまたまこうして働くことが出来ているというに過ぎない。努力出来るということ自体恵まれているのに、それにことさら充実感を感じたり、偉いと思ったりするのは、罪深いことだと思う。

 

数年前、抑鬱状態がひどかった時には、とても今のようには行かなかった。8時間机に向かって勉強して、教科書が1ページしか進まなかったこともあった。しかも、その1ページの内容だってまるで頭に入っていない。何とかしなきゃという焦りは募るのだけれど、どうにもならない。そういう状態の時は、他人との関わりもままならなくて、何か言葉を発しようとしても、トンチンカンな言葉しか出てこず、とにかく怒りや嘲笑を浴びるばかりだった。

 

労働の大変さなんて、鬱やいじめ、人権がないことのストレスとは比較にならない。功名心のある時の労働なんて、ほとんど自己満足と変わらないし。本人がやりたくてやってるのだから、偉くもなんともなくて、それを他人に誇ることなんて以ての外だと思う。自分が今、本当の辛さから少し離れた所にいて、ふつうの社会人然として働いているのが気持ち悪くて仕方がない。でも、こうしている方が、人から褒められるんだよな。

 

過ぎていく時間の中で ピーターパンにもなれずに

ひとりぼっちが怖いから ハンパに成長してきた

何だかとても苦しいよ ひとりぼっちで構わない

キリストを殺したものは そんな僕の罪のせいだ

ーーTHE BLUE HEARTS「チェインギャング」

 

ただ働くだけなのが、本当に虚しくなってきた。何か、理想を持っていないとダメになってしまう。理想は空虚に見えることもあるけど、理想がないことの方がもっと空虚だ。

 

年を重ねるということが、放っておくと、言い訳がうまくなったり、狡猾になっていくばかりになりそうだ。だから、個人史を殺さずに、どうやって年を重ねていけるだろうか、考えなきゃいけないと思う。

 

ミホノブルボンの死

少し前の話だけれど、ミホノブルボンが死んだというニュースがあった。享年28歳、人間にすると100歳近くだから、大往生だ。

 

大好きな馬だった。平成はじめの頃の馬だから、もちろん現役時代は知らないのだけれど、とにかく異色の馬だから興味深くて、ブルボンを育てた戸山為夫調教師の本を読んだりしていた。そして、この馬のキャラクターに強く惹かれた。

 

当時つけられたキャッチコピーが「スパルタの風」。血統は良くなかったのだけれど、スパルタトレーニングによって強くなったから、こう呼ばれた。人工的に作られた馬なので、「サイボーグ」などとも言われていた。小さい頃から古馬と同じレベルの調教をこなしていたというのだから、それはもうブルボンに課された調教は過酷なもので、普通の馬の2倍3倍の量は当たり前だったらしい。本来はスプリンターなのに、3000mの菊花賞まで走っていたというのだから、今の競馬を考えるとすごいことだ。

 

スパルタ調教には賛否両論あって、ミホノブルボンの陰には過酷な調教に耐えられず潰れていってしまった馬が沢山いた。そして、ブルボン自身もボロボロだったのか、菊花賞を終えた後にはもう走ることが出来ず、四歳で引退に追い込まれてしまった。

 

それでも、「鍛えて名馬を作る」という思想は魅力的だった。血統が全てと言われるサラブレッドの世界だからこそ、かつてこんな馬がいたんだ、ということが希望に思えた。人工的に強くなった名馬だから、ブルボンは種牡馬になっても結果を出せず、血統を後世に残すことは出来なかった。だが、ブルボン一代においては、日本ダービー制覇という全ての競争馬の頂点に立つ偉業を成し遂げる事が出来た。

 

生き物は自身の血統から逃れることが出来ないし、生まれ持った才能の問題はどこへ行ってもつきまとう。「生まれ変わったらディープインパクトの子供になりたい」と言いながら自殺していった中学生の話は、あまりにも強烈で忘れられない。実際、ディープの子供は強くて、数字を見ると他の種牡馬との差は歴然としている。強いディープには強い牝馬が宛がわれるのだから、その差はますます広がってゆくばかり。血統は、残酷だ。

 

血にまつわる呪いを、個人の力、意志の力で乗り超えられるとブルボンは教えてくれた。乗り超えられないことの方が圧倒的に多いけれども、一縷の望みを示してくれた。現実問題、良血馬は確かに強いし、勝負ではそちらに賭けざるを得ない、というのはある。しかし、何億円もかけて良血馬を買って、一流の調教師・一流の騎手をつけて、レースではラビットをつけて勝ってと、そればかりが現実の姿だったら、あまりにも現実が空虚すぎる。現実を認識することと、理想を信じることとは別の話。涙を流しながら調教に耐え、「名馬は作れる」という、一つの理想を実現してくれたミホノブルボンのことは、これからも語り継いでいきたい。

 

栄光と転落は紙一重

2/25(土) 総武ステークス・アーリントンカップ

中山のメインレースはダートのオープン戦・総武ステークス。

 

ダートは重賞の数が少ない分、単なるオープン戦であってもレベルの高い馬が揃うのは珍しくないのだが、このレースにはピオネロ・モンドクラッセセンチュリオン・バスタータイプと、いつにも増して強力なメンバーが集った。

 

このレースでは、異常に勘が冴えた。

これしかない!という買い方が見えた。

かなり強気に買ったら、狙い通り正確に的中。

何と、12万円の払い戻しがあった。

しかも、阪神のメインレース・アーリントンカップでも、本命ペルシアンナイトが圧勝した。

払い戻し金のあまりの額面の大きさに、頭がクラクラした。

 

 

2/26(日) 中山記念阪急杯

武豊の弟・武幸四郎の引退レースの日だった。こういう、何か特別なことのある日は、決まって変わったことが起こるので警戒が必要なのだが、この日は前日の大勝利ですっかり呆けてしまっていた。

 

中山のメインレースは、準GIとも言うべきスーパーGII・中山記念で、昨年度ドゥラメンテと競り合ったアンビシャスとリアルスティールが人気を二分、これに対抗するのが、秋華賞馬のヴィヴロスと中山巧者のツクバアズマオーという構図だった。人気馬が強く、手堅く決まるレース……のはずだった。

 

しかし、このレースの鍵を握ったのは、大物食いで悪名高いネオリアリズムロゴタイプだった。モーリスを討ち取ったダークホース2頭がここでも「らしさ」を発揮し、開幕初週の綺麗な馬場をするすると走り抜け、人気馬たちを尻目にネオリアリズムが1着、ロゴタイプが3着を奪っていった。

 

さらに、サクラアンプルールという謎の上がり馬がまさかの大激走で2着につけたことから、何とリアルスティールとアンビシャス両方ともが圏外に飛ぶという異常事態になってしまった。現地の中山競馬場は、さぞかし阿鼻叫喚の地獄絵図だっただろう。

 

阪神のメインレース・阪急杯でも、ひとり勝ちかと思われた単勝1倍台のシュウジがまさかの大敗。シュウジよ、お前もか……。特に理由らしい理由もない、謎の大敗であった。幸四郎が勝ったのならまだ納得もゆくが、幸四郎も大敗した、奇妙なレースだった。

 

中山の本命をリアルスティール阪神の本命をシュウジとしていたので、この日は大負けだった。

 

ダメだ。安田記念ジャパンカップも、リアルスティールは何度買っても勝てない。

 

手堅いレースと踏んで結構強気に賭けていたものだから、前日の勝ちは全て溶けてしまった。かろうじて前日の勝ち以上には負けなかったが、この週末は、プラマイゼロで終わっていった。

 

 

……夢を見たような週末だったが、不思議と負けた後悔はなかった。

むしろ、これこそが競馬なんだと思った。

十数万の勝ちをふいにしてしまったのは、どうでも良いさ。どうせ泡銭だから、身につかない。

 

けれど、もっと貴重な体験をしたような気がする。或る日突然、大勝ちしたと思ったら、翌日には大負けして全てを失う。ここまで有為転変の真理をストレートに突き付けられることは、ふつう無いと思う。安定などどこにもなくて、栄光と悲惨は紙一重の所にあることを、競馬は嫌という程わからせてくれる。

 

世界のGIで優勝したリアルスティールが、ついこの間条件戦を突破したばかりのサクラアンプルールに敗れてしまう。勝つ馬、負ける馬、それぞれいるけれど、勝負はその時々の水もので、例えその場で勝敗がついたとしても、見た目に見えているほど、力の差は実はなかったりする。どんなに強そうな馬でも負ける時は負けるし、成績不振の馬にもチャンスはある。

 

こういうレースを見ていると、人間には測り知ることの出来ない、もっと大きな運命の存在を感じる。

  

そうして、また少し、成功にも失敗にも寛容になれるようになった気がするのだった。

勝つのも楽しいけれど、しみじみと競馬の良さをかみしめられるのは、実はこういう時かも知れない。

リチャード・アダムズ『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』

 

ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち (上) (評論社文庫)

ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち (上) (評論社文庫)

 

 

故郷の村を抜け出した若い野うさぎ達が、知恵と勇気と個性を武器に、未知の山河を駆け巡り、人間や天敵、他の村のうさぎ達など、様々な相手との戦いを乗り越え、ウォーターシップ・ダウンの地に新しい村を創り上げていく物語です。

 

すごい物語だった。野生の世界で死闘を繰り広げるうさぎたちの格好良さに、驚かされっぱなしでした。とにかくもう、野生のうさぎの世界は壮絶です。人間やキツネ、猫など、外敵に殺される死の危険とは常に隣り合わせであり、一日一日を無事に終えるだけでも必死です。それゆえに読者も、うさぎの愛嬌に癒されている暇はまるでなく、先の読めない野生の世界の過酷さにハラハラドキドキするばかりです。負傷なんかは日常茶飯事で、仲間割れもしょっちゅうだし、恐怖のあまり「サーン状態」と呼ばれる恐慌に陥ってしまうこともあるし、時には仲間が命を落としてしまうこともあります。そんな不安定な環境の中にあっても、決して諦めたりすることなく、原野を開拓し、巣を作り、繁殖のため他の村からメスを奪い、荒々しく逞しく新しい村を創造していく若いうさぎたちからは、本当に多くのものを感じることが出来ました。

 

児童向けの物語なのだけれど、文庫本で上下二巻と、かなりボリュームがあります。そして、内容もボリュームに劣らず重々しく、一見単純なうさぎの習性に起因するような出来事にも、嫉妬や臆病、功名心など、人間の持つ悪徳と同じものが仄めかされていたり、数々の失敗や危機からは、チームで協力することの難しさを嫌という程思い知らされるようになっていたりと、深い人生経験がふんだんに託し込められたような、荘重さ・重厚さが感じられます。「上士」とか「大哨戒」とか、独特な味のある漢語がちりばめられていたのも、重々しく格好良かったです。各章の冒頭には有名な古典文学の文句が引用されており、その章で起きることを暗示するようになっているのですが、こうした格言じみた古典の断章はとても思わせぶりで意味深で、うさぎたちの軌跡と人類の叡智とが一体になるように感じられ、重厚さにますます拍車がかけられていました。

 

主人公のヘイズルたちは、故郷を離れた後に、自分たちとは違った文化をもつうさぎを知ることになります。自然との戦いや外敵との戦いも大変なのだけれど、一番印象に残るのは、こういった他の文化のうさぎたちとのぶつかり合いです。ヘイズルたちが出会ったうさぎの中には、生かさず殺さずの絶望に閉ざされ、マインドコントロールを受けたかのように虚ろなうさぎたちもいれば、生きる術を持たない弱々しい飼いうさぎもおり、外敵よりも上官を恐れる、まるでソ連軍のように鉄の規律で鍛え上げられた屈強のうさぎたちもいたりします。この世界で生きるためにうさぎたちが選んだ道、選ばざるを得なかった道は、実に様々です。

 

ヘイズルたちは、はじめは寄せ集めみたいなものです。未知のうさぎに出会った時は、相手がどんなうさぎかもわからないし、何をされるかもわからないから、不安や戸惑いを感じてしまいます。ヘイズルたちにとってみれば、出来上がった組織には、自分たちにない強みがあるので、余りにも巨大に見え、打ち拉がれる気持ちになります。しかし、そこで屈服してしまうのではなく、相手の習性をよく見極め、自分たちに何が出来るのか、懸命に考えて挑んでいくのがヘイズルたちです。規則を持って動くうさぎたちは整然としていて非常に強力ですが、規則的であることには弱みもあり、逆に利用する余地もあります。無力なヘイズルたちが融通無碍に知恵を巡らし、困難を克服していく姿からは、大きな勇気を与えられるし、学ぶ所も多かったです。

 

ヘイズルやファイバー、キハールなど、個性的で魅力あるキャラクターは多いですが、何だかビグウィグが一番面白かったですね。最初のうちは、どうもヘイズルにとって敵とも味方ともつかないような所があって、面倒くさい先輩を抱え込んでしまったなあとしか思えなかったのですが、冒険を重ねるにつれどんどん成長して行きました。もともと血の気が多いもので、ことがあると真っ先に飛び出して行き、いつも満身創痍で凄絶で、始終かたわらに死の影を漂わせているようなうさぎでしたが、対エフラファ戦の頃になると印象がガラッと変わります。エフラファの村からメスを強奪するため、ビグウィグはスパイとして村に潜入するという大役を任されるのですが、ここではそれまでの気性の悪さはすっかり鳴りを潜め、実に器用に役目を果たします。当然相手も手ごわくて、危うく身元を感づかれそうになり、ギクッとする場面は何度もあるのですが、その度に機転を効かせて、際どく危機を乗り切ってゆきます。こうした意外な方面での活躍は、敵中にあっても動じない度胸の良さもさることながら、ビグウィグが決して蛮勇だけではない、知勇兼備のうさぎなのだということを正しく証明していました。

 

そしてなんといってもこの場面、抑圧され辱められる反逆者・ブラッカバーを、意地でも助けようとするビグウィグの侠気が素晴らしかったです。決して自分の身だけを考えることをせず、その瞬間の怒りや義憤を大事にし、直情径行に突き進んでいくところが本当に良かったですね。助けたら助けたで、その後は優秀なブラッカバーに嫉妬して意地悪をするというのも同じビグウィグなのですが、そんな欠点も愛嬌に思えてくるくらい、戦地で魅せる勇敢さには惚れ惚れさせられました。しかも、こんな活躍を見せた上でもなお、ビグウィグの奮闘は終わりません。ラストには、さながら長坂橋の張飛のように、皆を守るため一人敵前に立ちはだかり、怪物・ウーンドウォートと流血の一騎討ちまで繰り広げるというのだから、本当に物語の後半はビグウィグの見せ場たっぷりで、むしろヘイズルよりも主人公らしく見えてくるほどでした。

 

ことほど左様に、この作品のうさぎたちは格好良く、逞しいのですが、もちろん弱いところも沢山あります。野菜畑を見つけたら、命の危険があると分かっていても盗みに行かずにはいられないし、ブーブー文句を言ったりグズグズすることも多いし、長い旅路の末にようやく住処を見つけたと思ったら、今度はメスを巡って喧嘩しだすというような、浅はかなこともします。カウスリップの村のうさぎもエフラファのうさぎも、はた目にはおかしな所もあるけれど、ヘイズルたちにとっても決して他人事ではありません。けれども、自分たちのもつ習性に振り回されざるを得ないうさぎたち、この無垢でもなんでもない生身のうさぎたちは、その脆さや儚さゆえにかえって一層愛おしく感じられるし、動物だから極端に見える所もあるけれど、そこは畜生の浅ましさ、本質的には人間と変わりないと思うのです。

 

価値観は、賛否両論あるかもしれません。メスは奪い合うもので、飼いウサギは情けないもので、野生の世界で生きられる逞しさ、とりわけエル・アライラーのようなズル賢さを持つのが良いという価値感は、そのまま人間に当てはめるのは古すぎるかもしれません。ヘイズルの仲間たちの関係性を見ていると、臆病と思われるのを何よりも恥じていて、名誉のためにみんなが切磋琢磨しあっていて、どこかでこういうのを見たことあるなと思ったら、『飛ぶ教室』の友情がこんな感じだったなと思い出しました。このリチャード・アダムズと言い、ケストナーと言い、ヨーロッパの大戦を間近に見て来た人たちの物の捉え方には、どこか通じるものがあるのかな。エフラファのうさぎたちのあまりの恐ろしさに、勇敢なビグウィグですら心変わりしそうになったりブラッカバーの救出を諦めかけたりしましたが、そんな時に辛うじてビグウィグを支えたのは、仲間から怖気付いたと思われたくない、という名誉の気持ちでした。命がけの使命に立ち向かっていく時、こういう価値観がないとやってられない、というのもあるのかも知れません。

 

それはともかく、習性に振り回されながらも、各々がうまく折り合いをつけられるよう努力し、なおかつ仲間の習性ともうまく合わせていこうとする姿勢は、暗黙のルールや鉄の規律で秩序を保っていた他の村とは違う、ヘイズルたちの優れた所であったと思います。習性は命取りにもなりますが、うさぎがより良く生きるための原動力にもなります。ヘイズルの功名心がかえって良い方向に転ぶこともあったし、あの恐ろしいウーンドウォートの抑圧から抜け出すための原動力になったのも、ほかならぬハイゼンスレイたちの「穴を掘りたい」という習性でした。もって生まれた性質や、やむに已まれぬ性質は仕方が無いとして、そこに向き合っていけるかどうか、巣穴を抜け出す勇気があるかどうかで、どんな英雄にもなれるし、どんなつまらない者にもなれる。新しい村の創造という大仕事を成し遂げたヘイズルたちはみな立派な英雄で、ゆくゆくはエル・アライラーやラブスカトルのように、神話になって末永く語り継がれることでしょう。小さな野原にキラリと光る、露の命のうさぎたちの、ロマンあふれる夢の足跡が忘れられない物語でした。

ルイス・サッカー『穴』

 

穴 HOLES (ユースセレクション)

穴 HOLES (ユースセレクション)

 

 

グリーン・レイク・キャンプという砂漠の矯正施設に無実の罪で放り込まれた中学生・スタンリー=イェルナッツが、過酷な労働や「ゼロ」と呼ばれる少年との出会いを通して、逞しく成長していく物語です。

 

イジメられっ子の子供が冤罪で砂漠まで送還され、悪人たちに虐待・酷使されるという、設定だけ見るとひどいものですが、のんびりした主人公・スタンリーのおかげで雰囲気は明るく、笑いもユーモアもあります。砂漠での生活は悪いことばかりでもなく、一面に冒険の楽しさもあって、焼け付く暑気とタマネギの臭いとが、気持ち良く肌に染み込んでくるような作品でした。

 

見所は、何と言ってもスタンリーとゼロの逃避行の場面です。この場面は、物語の山場でもあるのですが、同時にとても独特で楽しい所でもありました。キャンプを脱走したスタンリーとゼロの二人は、飢え死に寸前のところを謎の野生のタマネギ畑に救われて、それから生のタマネギをバリボリと貪って元気を取り戻していきます。何もない山の中では食べるものと言えばタマネギだけで、再びキャンプに戻る時のお供ももちろんタマネギだし、斜面からごろごろとこぼれ落ちて行った実も、丁寧に一つ一つ拾って食べます。これだけタマネギづくしだと、読んでいる方も条件反射で嫌でも味覚や嗅覚がピリピリとして来て、無性にタマネギが恋しくなって来ます。本書を手に取ったのは一月も終わりの寒い時期で、砂漠の暑さには遠かったけれど、タマネギへの思いはやまず、スーパーでタマネギを買って来て、生でかじってみて、生タマネギの旨さに思いがけず覚醒したりすることが出来ました。

 

グリーン・レイク・キャンプでの生活は、刺激的です。炎天下での過酷な肉体労働に従事したり、貪るように生のタマネギを食らったり、数百年前の桃のジュースで命を繋いだりと、およそ都会の生活とは正反対な、汗臭く野性味のある世界が広がっています。こういう、五感をふんだんに活用するような物語からは、迫力あるエネルギーを感じます。過酷だけれども陰気な苦しみはなく、目の前の自然との戦いに集中できるというのは、神経症的な辛さより少なくとも前向きだし、ある意味で健全に見えました。それは、不本意に収容された主人公のスタンリーにとっても同じことで、ある時から、嫌な連中のいる中学校より今の生活の方が実は結構充実していることに気付きます。閉塞感を感じ、自分の今いる場所ではないどこかを探している人にとって、例えいくらか泥臭くあっても、労働の充実感を感じられる環境が良いというのは、本当にその通りだと思います。

 

スタンリーとゼロとの友情は、結果的には良いものに育って行きましたが、気にかかることも多かったです。なぜなら、ゼロの方の負担が大きすぎるからです。ゼロの存在は、スタンリーにとっては大変に都合の良いものです。自分より不幸で、馬鹿にされていて、自分がものを教える立場にあり、辛い労働の肩代わりまでやってくれる。ゼロからすると、最初に文字を教えて欲しいと頼んだ時、すげなく断ったスタンリーは、そこそこ感じの悪い奴に映っていたのではないかと思います。X線の頼みだったら断らないくせに、という思いが頭を過っていたかもしれません。しかし、空っぽと言われ何度も何度も悔しい思いをしてきたゼロは、どうしても読み書きができるようになりたいし、スタンリーには冤罪を被せてしまった負い目があるから、そう無理は言えません。勢い、献身的になってしまいます。

 

頭の悪さを笑われることに敏感なゼロの、スタンリーの会話でも折々に見せる険しい顔つきは何とも言えませんでした。優れた資質を持っているにも関わらず、教育を受けられなかったばかりに浴びせられる嘲笑の数々に、この子が今までどれだけ傷つけられて来たことか。勿論、スタンリーが意識的に馬鹿にしにきているのではないことは分かっているでしょう。しかし、意識的ではないからこその、ナチュラルに見下されている感覚は、相手が仲良くなれそう子だけに、一層堪らなかったと思います。

 

ゼロに穴掘りをさせるスタンリーに対して、周りの子供が「白人が黒人を使役している」と揶揄して来ましたが、これはかなり鋭い指摘に見えました。教える体力を残しておく必要があるからとスタンリーはゼロに穴掘りをさせますが、無論教わる方だって体力がいるし、穴掘りが得意とは言え、スタンリーよりせいぜい数ヶ月早くこの地に来ただけのゼロにとって、二人分の穴を掘るのは決して楽ではないはずです。それでも、暴発寸前にまで追い詰められていたゼロに選択肢はないから、そうせざるを得ませんでした。施設の子供たちは、悪いことをしつつも意外とすぐに謝ったり埋め合わせをする潔さは持っていたので、頭の良さを使って主従関係をシステム化しているスタンリーのことは、本能的にさぞかし憎たらしく見えたことでしょう。あのままゼロが行方不明になってしまっていたら、スタンリーの後悔も計り知れないものになっていたと思います。

 

スタンリーは、ゼロと出会い、ゼロを救うための困難を乗り越えることで、身心ともに大きく成長してゆきました。ゼロも救われたし、それまで散々な目にあって来たスタンリーも救われたので、結末は幸せでした。しかし、スタンリー目線での救いは、こういう形でしか現れ得なかったのかなと、引っかかる気持ちもあります。「可哀想な黒人の孤児を助けてあげる」という体験は、自分を助けるためではなく、苦しんでいる他人を助けるために頑張るという面を見ると、自己犠牲的で崇高なようにも見えます。しかし、本来自分自身が救われる必要のある人が、他の人の救済に関心をもつという事には、どこか危うい感じを覚えるのです。『ライ麦畑でつかまえて』で、ボロボロに打ちのめされた主人公が、崖から落ちそうな小さい子供を助けるライ麦畑の番人になりたいと願う場面があったのを思い出します。人は、苦しみを抱えきれなくなってくると、自分よりも他人を救うことに関心が向かうことがあるようです。しかし、そういう時に、その人が本当に他人を救いたいと思っているのかどうかは疑問で、抑圧された支配欲が歪んで現れて、善の衣を纏っているだけのような、そんな危うさも感じるのです。自分自身の心の動きにも思い当たることがあるし、かつて出会った、教師でもないのに嫌に教育に関心をもっていた或る人の事を思い出すと、何か胡散臭かったなと思うのです。ゼロが白人だったとしたら、ゼロが読み書きが出来ていたとしたら、果たしてこの物語は成り立っていたのだろうか。

 

しかし、苦しみや悲しみを抱えた人が、弱い者を虐げようとする場合もあるし、多分その方が多いと思うので、他人の救済を願うことや他人を助けることで自分も救われるという体験は、少なくとも良い面があることは確かです。心の動きの正体はあまりにも複雑すぎて知ることは出来ませんが、スタンリーとゼロ、何はともあれ目の前にいる二人の苦しみが無事取り除かれたので、とても良いハッピーエンドだったと思います。