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オルフェーヴルの子供たち

2017年6月より、新種牡馬オルフェーヴルの産駒がデビューする。私はこの馬が大好きだったのだけれど、好きな馬の子供がデビューするというのは初めてのことなので、とても新鮮で不思議な気持ちがする。

 

ステイゴールド・母オリエンタルアートの間に産まれ、両親の名にちなんで付けられた名前が、フランス語で「金細工師」を意味するオルフェーヴル。日本の競馬史上7頭しかいない、クラシックレース三冠を達成した歴史的名馬であり、フランスの凱旋門賞でも活躍するなど、世界でもトップクラスの実力をもっていた。名を体現するような輝く栗毛の馬体は非常に美しく、レースでもひと際目立っていて、キャッチコピーには「黄金色の芸術」と称えられるほどだった。

 

オルフェーヴルの魅力は、強さだけでなくキャラクターにもあった。天才的な競走能力とは裏腹に、人一倍臆病で繊細で、精神的に不安定で危うい面を抱えているという、物語の主人公にでもなりそうな馬なのである。幼い頃には牧場で他の馬たちにいじめられ、逃げ回っている内に脚が速くなったという、まるで『フォレスト・ガンプ』のようなエピソードがある。実力がずば抜けているのは間違いないのだけれど、同じ三冠馬シンボリルドルフディープインパクトのような完全無欠な感じはなく、デビュー当時はなかなか勝てなかったし、三冠達成後にも謎の惨敗をすることもあった。さらには、レース中にコース外のあらぬ方向へ走っていくという、普通の馬ですら滅多にしない「逸走」の椿事を巻き起こしたりもしている。強いには強いのだが、精神的な脆さゆえに、負ける時も極端な負け方をするのである。

 

きわめつけは、牝馬に弱いというところ。逸走や原因不明の惨敗を除くと、本気のオルフェを倒したことのある馬は世界で3頭しかない。凱旋門賞で対戦したフランスのソレミアとトレヴ、そして日本のジェンティルドンナの3頭だが、みな牝馬である。男馬相手には圧倒的なスピードでちぎってしまうのだけれど、どういうわけか、強い女馬を相手にすると競り負けてしまうのである。牡馬と牝馬とではどうしても体格差があるので、牝馬が牡馬を苦手とするケースはよくある。だが、オルフェのように逆に牡馬が牝馬に弱いというのは、珍しい。なんだか分からないけど、苦手だったんだろうな。

 

能力の優れた馬が単純に能力順に勝つ訳ではないのは、レースを見ていると常に感じること。天地人の条件や勝負運もあるし、何より馬は生き物だから、数字や論理に現れないことがたくさんある。オルフェの強さ、弱さを見てると、特にそれを思わされる。ある人のことを、妙な欠点があったり、意外な弱点があったりすると、それを「人間らしい」といって親しみを込めて表現することがあるが、同じことをオルフェーヴルにも言いたいと思う。この馬には、人間らしさがある。いや、むしろ、人間かどうかは関係なく、こういう個性に親しみを感じるのは、もっと広く「生き物らしさ」だからなのかも知れない。それは結局のところ、生き物同士、互いに弱点を補って生きていかなければならないという、本能に基づいているような気がする。

 

強い馬の中には、馬社会でも「厩舎のボス」みたいに幅を効かせるものがあると聞くが、オルフェにはそういう話がなく、むしろ大人しい方だったらしい。ただ、興奮すると抑えが効かず、大暴れしてしまう。本当に、競走能力だけに特化した、天才的なサラブレッドという感じだ。しかし、それゆえに、自身の気性に振り回されっぱなしで、速さの代償に多くのものを失っている感じがあって、見ていて堪らなくなる。サラブレッドに産まれたからには、競走能力に優れていることは本望にも見えるけれど、それは人間の都合だから、馬自身にとってどうなのかは分からない。美味いエサにありつけられるとか、そういう有難味はあるのかも知れないけれど。

 

オルフェーヴルの血を継承した子供たちは、どんな活躍をするのだろう。現役時代にいくら実績があっても、種牡馬として成功するかは分からないので、子供が走るのか走らないのか、そこの所は本当に未知数だ。オルフェーヴルの狂気の遺伝子は、今後の日本のサラブレッドの血脈となっていくのか、あるいは淘汰され、一代の徒花となってしまうのだろうか。結果はどうであれ、「父オルフェーヴル」の文字を見たら、その馬は応援してしまうだろうな。

 

言葉からの自由

先日、高校の部活の同窓会を断ったことについて、後から色々と考えた。断ったのは、会うのが気まずいからという単純な理由だったのだけれど、思い返せば、誘いを受けたはじめには色々と別の言葉が浮かんでいた。

 

まず、過去の人間関係に目を向けるなんて、醜いことだと思った。聞けば、部のメンバーで卒業後も定期的にあっているらしいけど、下らないことしてるなと思った。部員の仲が良いといったって、個々人で見たら好き嫌いはあるだろうに、何故わざわざそんなことするのだろう。組織のために個を殺すみたいな、保守的で閉鎖的な感じがするし、同じメンバーでつるんでばかりじゃ、成長なんかないと思う。

 

誘い方も気に入らなかった。せっかくだからとか、この先何かあるかも知れないからとか、まるで行かなかったら損するかのような誘い方だった。昔と違って、話の進め方もすっかり営業っぽくなってしまっていた。会いたいという感情でなく、何となくおためごかしな感じが嫌だった。

 

当初はこんな批判めいたことを考えていたけれど、一晩たったら虚しくなった。こんな言葉は、全て嘘だ。本音は、自分の方に地雷が多すぎるので、会って話なんかしたくないという、それだけのはなし。末長い人間関係があるのは恵まれたことだと思うし、苦楽を共にしたメンバー同士なら、たまに顔を合わせるぐらい普通のことだろう。誘い方が気に入らないなんて、言いがかりもいい所だし。取り立てて批判することなんて何もないのだ。

 

批判して、後から後悔や罪の意識に苛まれていると、ますます自分がやるせなくなるばかり。言葉は、煩わしいな。無意識に本音を覆う言葉の数々は、自分を守る盾にもなってくれるのだけれど、下手をすると人を傷つける武器にもなってしまう。言葉に乗っ取られ、操られてしまうのは、とても危ない。

 

最近、自由ということを良く考える。精神の自由、肉体の自由、色々な自由があるけれど、言葉からの自由というのが今一番大事な気がしている。言い訳を一言もしない人がいたとしたら、素晴らしいことだろう。上手くいかないことばかりの時、救いになってくれる言葉だってあるし、自分を保つためには、どうしても必要だった言葉というのもあるけれど、必要な時が過ぎると、それらはやがて呪いとなり、自分を縛り、嘘を吐かせるようになってしまう気がする。何れは、本音に立ち還らなければならない時が来るのだと思う。

 

同窓会の誘い

高校時代、同じ部活動をやっていた同級生から連絡が来た。同じ部のメンバーで同窓会みたいなことをやるので、来てみないかという誘いだった。

 

唐突だったので、驚いた。もう10年近く連絡をとっていないので、連絡を受けた時、まず第一に宗教かマルチを疑った。同窓会と聞いて一安心したが、今度は別の意味で戸惑った。

 

私は、例によって人間関係を苦にしてその部を辞めている。はっきり言って、良い思い出はない。何年も連絡をとっていないと言ったけれど、私以外のメンバー同士のつながりは深く、卒業後も定期的にあっていたりしたらしい。なので、同窓会といっても、他のメンバーにとっては定例会のようなもので、今回はどういう風の吹きまわしか、私にも連絡が回って来たということだった。

 

なぜ今さら、と思った。会いたくないという気持ちが先立った。嫌な記憶に苦しめられている間は、歩み寄りが前進のきっかけになったり、救いになったりすることもあるかも知れない。しかし、今では高校時代のことなど、ほとんど意識することも無くなっている。わざわざ、思い出したくないことなのだ。

 

部員の一人が亡くなったという話も聞いた。しかし、何年間もつながりがなかった訳だし、もとより人間関係が原因で辞めたのだから、聞いて素直に悲しむことは出来なかった。むしろ、知ったこっちゃないというのが本音かもしれない。正直に言って、そいつの人生など私にとってどうでも良いことだし、もっと正直に言えば、死……やめようか。こんな感情しか出てこないのだから、今さら会える訳がない。

 

強い者や多数派にとってみれば、過去を消費するのは楽しいことだろう。弱い者や少数派にとっては、必ずしもそうではない。消費するより前に、呑み込まなければならない感情がある。良い思い出はないけれど、決して悪い人たちではないのは分かっているし、むしろ自分の方が悪いのだということも分かっている。今会ったら、以前とは違った接し方も出来るのだろう。ただ、今はとても、全てを呑み込んで忘れられる心境には、届いていなかった。

 

こういうつながりは、とても貴重だと思うし、楽しいだろうなと思う。悔しいけれど、同窓会の誘いを受けたとき、本音のもっと奥の方では、懐かしい気持ちや嬉しい気持ちがあった。しかし、それをきっかけに昔のことを思い出しているうち、余計なことも沢山思い出し、苦しんだ。過去の自分、今の自分、色々考えた。そうしていると、あっという間に食欲がなくなり、仕事の集中力もなくなり、生活がままならなくなってしまった。ずっと封印していた、タブーだったのだ。会いたい気持ちがあったとしても、もう心や身体がついて行かなくなっている。それぐらい、持つ者と持たざる者との断絶は深い。

 

人間関係は全て捨てて来たので、何も残っていない。改めて、貧しい人生だと思う。

 

三遊亭圓歌の死

三遊亭圓歌の訃報を知る。またひとり、好きな芸人が逝ってしまった。

 

磊落で、飄々として人を食ったようで、話芸だけでなく素の圓歌そのものが面白いといった感じの人だった。新作を得意としていて、「中沢家の人々」「浪曲社長」など名作がいくつもあった。私は「浪曲社長」が特に好きだったので、何度も何度も繰り返し聴いていたっけ。これは、社長と新入社員がトンチンカンな問答を繰り広げるという趣向の話で、色々なタイプのトボけた新入社員が入れ替わり立ち替わり登場していき、最後には何と、虎造節で話す男が出てくるというお話し。声も節も虎造そっくりで、何気ない質問にも浪花節で返すのだから大げさで、地元のことを尋ねられれば国定忠治が出てくるくらいなものだから、それはもう面白いの面白くないの。

 

圓歌の人となりについては、本人の芸からうかがえる所もあるのだけれど、それと同じぐらい、立川談志の言葉で印象に残っている。私は談志が大好きで、「ひとり会」や「談志百席」など、手に入るCDを片っ端から聴き漁っていたのだが、談志は芸人論をぶつことが度々あるので、昔の芸人のゴシップやら同時代評なんかを結構ここで刷り込まれている。その中で、談志とほぼ同世代にあたる圓歌のことも、何度も耳にした。

 

こんなエピソードを聞いた。ある時、談志・志ん朝圓歌の三人の会があった。だが、志ん朝は途中で来られなくなってしまい、その会は談志と圓歌のふたり会になった。客は、圓歌が休めば談志・志ん朝のふたり会になったのにと、志ん朝を聴けなかったことを残念がったという。談志・志ん朝と比べたら……ということかも知れないが、これを聞くに、圓歌という人は玄人好みするタイプの芸人ではなかったようである。どちらかと言えば大衆寄りであり、それは、爆笑王と呼ばれていた林家三平と良く一緒にテレビに出ていたことからもうかがえる。ただ、三平の方では圓歌を格下にみていて、一緒に扱われるのを嫌がっていたという話も聞いた。

 

どうも、客からも芸人からも、あまり良い扱いを受けていないような気がするのは、気のせいだろうか。そういうキャラクターだから、洒落でそういう扱いになっているに過ぎないのだろうか。本人は飄然としていて、何を言われてもどこ吹く風でいる。けれども、もともとは吃音がひどく、吃りを克服するために噺家になったという話だとか、中年を過ぎてから出家して日蓮宗の僧侶になった話だとかを思い合わせると、どこか闇を感じてしまう。

 

もっとも、吃音とか出家とかいう圓歌の話が本当かどうかは分からない。三代目圓歌を襲名する前の高座名「歌奴」に因んで「ウソ奴」と呼ばれるくらい、平気でウソをつく人だったらしいので、あまり本気に受け取ってはいけないのかも知れない。忖度は無粋だろう。不思議な人だな、と思う。

 

それでも、面白さは誰が見ても格別だったようで、とにかくどこへ行っても圓歌はウケたという。談志や志ん朝がウケないような客であっても、圓歌だけは笑いをとっていたとか。こういう所は、理屈っぽい談志よりもずっと格好良い。圓歌には、他の噺家にはない安心感や安定感があったのだと思う。

 

芸も人も個性的で、何とも言えない慕わしさを感じる芸人だった。「浪曲社長」「中沢家の人々」など、また聴き返してみようと思います。

桜花賞へ向けて

今週末はいよいよ、楽しみにしていた桜花賞。桜の花咲く宝塚の舞台で、うら若き牝馬たちがクラシックデビューを果たす日だ。今年の牝馬は強い。昨年は牡馬が強かったが、今年のクラシックは牝馬の年で、綺羅星のようなヒロインたちが揃っている。

 

思い出のために、出走メンバーについて思うことを書いておこう。

 

ソウルスターリング

鳴り物入りで日本へやって来た、欧州の怪馬・フランケルの娘。前評判を裏切らない強さで、ここまで4戦4勝。どれも危うげのない完勝で、この馬は強すぎる、と思った。去年の1番人気メジャーエンブレムには脆さも感じたが、この馬は不安要素が全くない。

 

サンデーサイレンスディープインパクトの血が席巻する今の日本では、「結局ディープか」と思わされることが多かったので、これから欧州フランケルの血が大暴れすると思うと、とてもワクワクする。

 

ミスエルテ

同じくフランケルの娘。朝日杯の敗戦でソウルスターリングより人気は落ちてしまったけれど、最初にフランケル産駒のインパクトを与えたのはこの馬だということを忘れてはいけない。

 

初めて見た時、すごくきれいな名前の馬だと思った。ミス・エルテで「エルテ嬢」なのかと思えばさにあらず、区切りはミ・スエルテで、スペイン語で「私の幸運」を意味するのだと言う。それでも良い響き。ファンタジーステークス馬連万馬券をとらせてくれたので、非常に思い入れがある馬だ。

 

アドマイヤミヤビ

この馬も、名前が好きだ。冠名「アドマイヤ」に和語の「雅」がくっついた名前で、いかにも競争馬の名前らしい、独特な味のある名前。これで桜花賞獲ったら風流で格好良いな。

 

人気は高くて、恐らく2番人気になるはず。主役は勿論フランケルの娘だけれど、初対戦だからどちらが強いかは分からず、馬場が良かったらこの馬が僅かに差し切ってしまいそうな気もする。ここまでハイレベルな勝負だと、あとは天候次第、運否天賦の世界になると思う。

 

カラクレナイ

唐紅。ミヤビ以上に和臭の強い馬だ。でも、どちらかと言えば、この色は秋の秋華賞に似合うかな。去年のソルヴェイグもそうだけど、フィリーズレビュー組は実力が読めず不気味な存在。買い目から外す訳にもいかないので、悩ましい。

 

レーヌミノル

九州小倉での圧勝から今に至るまで、ずっと強い。牡馬と戦ったり遠征もしたりするけど、いつも強い。だから、密かに応援している。派手さが無いので人気は出ないだろうけど、3着ぐらいに残ってくれるのでは無いかと期待している。

 

ミスパンテール

この馬は、身体が大きい。3歳牝馬なのに、500kgを超える巨大な馬体を持っている。出走馬の中で500kg超えはこの馬だけだから、雨で馬場がぬかるんで来た時、タフに突っ込んでくるのはこの馬かも知れない。

 

リスグラシュー

一番の曲者だと思うのがこの馬。前走チューリップ賞ソウルスターリングとミスパンテールに敗れたけれど、明らかに手抜きの死んだふり。本番の桜花賞ではしっかり本気を出してくるはず。

 

 

ソウルスターリング

リスグラシュー

▲アドマイヤミヤビ・レーヌミノル

 

本命はソウルスターリング。それから、雨で馬場が重くなるため、スタミナのありそうなリスグラシューとアドマイヤミヤビ、内目の枠で前に行けそうなレーヌミノルが来ると見た。

 

 

社会貢献とは

職場の人から、採用の募集の文章を書いたから、外に出す前に感想を聞かせて欲しいと言われた。読んでみると、そこには、社会貢献が出来ることがこの仕事のやりがいだということが強調して書いてあった。

 

社会貢献……?

そんなものあったかなと疑問に思って、意識高いですねとだけ答えておいた。すると、それが意に沿わない答えだったせいか、いや、これは大事なことなんだ、ウチは他の所みたいに金儲けをしたいんじゃない、社会貢献が大事なんだという話をされた。

 

そのことがあってから、社会貢献って何なのだろうと考えた。良いことだとは思うし、自分でもそういうことが出来たらいいなと思うから、色々と挑戦してみたことはある。どうしようもない強い罪の意識に駆り立てられていた時、何とか世の中の役に立つようなことが出来ないかと考え、地元の議員さんの勉強会に参加してみたり、参院選で無所属の候補者のポスター貼りを手伝ってみたりした。けれども、自分の中に軸がないせいでどれも空回り気味で、活動の先に満足な手応えを得ることは出来なかった。形に囚われすぎてしまっていて、己の本分がどこにあるのか、見えていなかったのだと思う。今でも、社会との関わり方はいまいち分からない。

 

しかし、形の見えない漠然とした社会貢献という言葉には、もの凄い胡散臭さがある。どういうことが貢献になるのか、自分でも分からないのだけれど、これはちょっと違うなというのは何となく分かる。あまりにも綺麗で、あまりにも便利な言葉だから、嘘も多いような気がするのだ。金儲けじゃない、社会貢献なんだという言葉は、無性に引っかかった。

 

お金が欲しいのだって、人間の自然な感情だ。誰だって人並みの生活がしたいし、贅沢もしたい。金儲けを否定したら、資本主義社会を全否定するようなものだし、そういう人たちの沢山いるこの資本主義社会を否定したら、一体どこに貢献すべき社会があると言うのだろう。

 

話を終えた後にどうしても違和感が消えず、なぜこの人の言葉がこんなに心に響かないのだろうかと思ったら、自分から見て、偽君子、スノッブという奴だからだった。人間の醜い面を嫌悪し、視界から抹殺しようとしているように見えた。この人の掲げる正義は、恐ろしいと思う。

 

以前までは、善く生きることをはじめから放棄している人よりかは、偽善の方がまだマシなのではないかと思っていた。しかし最近は、マシだと思うこと自体、まんまと偽善者の思う壺だということに気付いたので、どちらも変わらないと思うようになった。

 

言葉は信用出来ないと、つくづく思う。信用出来るかどうかは、その人の言動に触れて、直観で決める。

 

働くことの虚しさ

 

転職して半年ぐらいが経ち、生活も安定して来た。この頃は、労働とは虚しいものだとつくづく思うようになった。

 

一日の労働を終え、充実感みたいなものが込み上げてくる度に、罪悪感を感じる。自分の性格が、どんどん悪くなってきている気がする。交感神経の働きに騙されて、勘違いした自信をつけてしまいそうなのが、とても怖い。

 

働けるということは、大変恵まれていることだ。身体がちゃんと動いて、頭をしっかり働かせられるというのは、当たり前ではない、有難いことなのだ。自分は今、たまたまこうして働くことが出来ているというに過ぎない。努力出来るということ自体恵まれているのに、それにことさら充実感を感じたり、偉いと思ったりするのは、罪深いことだと思う。

 

数年前、抑鬱状態がひどかった時には、とても今のようには行かなかった。8時間机に向かって勉強して、教科書が1ページしか進まなかったこともあった。しかも、その1ページの内容だってまるで頭に入っていない。何とかしなきゃという焦りは募るのだけれど、どうにもならない。そういう状態の時は、他人との関わりもままならなくて、何か言葉を発しようとしても、トンチンカンな言葉しか出てこず、とにかく怒りや嘲笑を浴びるばかりだった。

 

労働の大変さなんて、鬱やいじめ、人権がないことのストレスとは比較にならない。功名心のある時の労働なんて、ほとんど自己満足と変わらないし。本人がやりたくてやってるのだから、偉くもなんともなくて、それを他人に誇ることなんて以ての外だと思う。自分が今、本当の辛さから少し離れた所にいて、ふつうの社会人然として働いているのが気持ち悪くて仕方がない。でも、こうしている方が、人から褒められるんだよな。

 

過ぎていく時間の中で ピーターパンにもなれずに

ひとりぼっちが怖いから ハンパに成長してきた

何だかとても苦しいよ ひとりぼっちで構わない

キリストを殺したものは そんな僕の罪のせいだ

ーーTHE BLUE HEARTS「チェインギャング」

 

ただ働くだけなのが、本当に虚しくなってきた。何か、理想を持っていないとダメになってしまう。理想は空虚に見えることもあるけど、理想がないことの方がもっと空虚だ。

 

年を重ねるということが、放っておくと、言い訳がうまくなったり、狡猾になっていくばかりになりそうだ。だから、個人史を殺さずに、どうやって年を重ねていけるだろうか、考えなきゃいけないと思う。