運は天にあり

内省の記録

人との付き合い方

他人の生々しい自意識に直面したとき、どのように振る舞えば良いのだろう。

 

最近、他人と話す機会が増えた。飲み会で話したりとか、仕事の合間に世間話をしたりとか、そういう時間が多くなった。前は仕事のこと以外全く話さなかったけれど、今はもっと違うことも喋っている。そうすると、何気ない会話を通して普段とは違う相手の一面を知ることも増えてくる。

 

嫌な面もある。というか、打ち解けて油断がなくなった頃に出てくるのは、たいてい嫌な面だ。でも、なるべくそういうのはスルーする。もとより完璧は求めてないので、良い面悪い面含めて消化して、その人を知ることにつとめる。

 

しかし、スルーしづらく、どう反応すれば良いか戸惑うことも多い。失礼だが、この人何言ってんだろと、一瞬引くこともある。そこで常識の差を認める。どう受け止めれば良いのか、どういう距離感が良いのかを、そろそろ考えはじめる。

 

七つの大罪」のうち、一番良く目にするのは「高慢」だと思う。貪食、貪欲、怠惰、色欲あたりはあまり気にならない。というか、大罪とは言い過ぎな気がする。好きなものを好きなだけ食おうが、そんなの本人の勝手だろって感じ。そのほか、嫉妬は内でメラメラと燃えるものだし、怒りはあまりに目立ち過ぎる。高慢は、嫌らしく表に滲み出てくる。

 

自分自身の自意識を恥じる方ではあったけど、よくよく周りを見ていると、誰もが多かれ少なかれイタさがあるのに気がつく。確かに、器用か不器用かの違いはある。けれど、接する時間が多くなると、高慢は自ずと明らかになってくる。やはり、気づく人は気づくもの。本音はいつかバレるもの。罪というのは、そうそう隠しおおせるものじゃない。

 

他人の高慢な自意識に触れてしまったとき、どうすれば良いか。沈黙も返事の仕方のひとつだけれど、事なかれ過ぎるので出来ればしたくない。別に否定する気もないし、笑う気もない。むしろ、自分が相手を認めてないような空気を発しているから、そういうモノが出てしまうのかと考えたりする。だから、見て見ぬ振りをするのではなく、なんとか良い向き合い方が出来ないかと思う。

 

いつもは、心にもないことを平気で言う。たとえば、会話の流れの中で、誰かの手柄や良い部分が取り沙汰された時には、すぐにその人を持ち上げる。内容がどうかとか、実際に良いと思っているかとかは関係ない。何も考えずに「すごい」とか「さすが」とか言う。

 

それは、別に相手をおだてようと思っている訳ではなく、何も考えないことが良いと思っているのでそうしている。その人が活きる流れがあるなら、そこに自然に乗って行く。会話のテンポを大事にして、すぐに言葉を繋いでいく。認めるところは素直に認めれば良い。見たいのはその先だ。感心する気持ちが少しでもあれば、それで十分だと思っている。

 

言うはやすしだが、行うのはなかなか難しい。思い通りには、言葉がスラリと出てこないことがある。相手に対するわだかまりがあると、否定の言葉しか出てこなくなるし、相手を侮っていると、何かしらカンに触る余計な一言が出てくる。咄嗟に出てくる言葉ほど、そういうのが如実だ。反対に、媚びや下心があると、お世辞が過剰になる。これも白ける。結局、余計な心など無い方が良いのだと思う。

 

しかし、流れを逸脱した自慢話となると話は変わってくる。自然な流れの中ならともかく、不自然ならば言葉も吃る。心にもないことは、さすがに言えない。人づてに聞けば感心することでも、自分の口から言われると台無しだ。

 

そういうことを言わずには居られない理由があるのか、高慢に酔ってバカになっているだけなのか。自慢話をされた時、内容にはもう興味をなくすが、その理由は知りたいと思う。ただ、それをストレートに言うわけにもいかないので、微妙な間を作ってしまう。そして、しらじらしく的外れな質問をしたりして、その場をウヤムヤにしてしまう。ちょっとこれでは駄目だな、と思う。

 

思い切って、真剣に問いかけてみようかな。自慢話なんかする人は、適当な社交辞令を浴びすぎて、感覚が狂っているのかも知れない。自分の問題意識と、その人の自慢話との間に繋がるものがあれば、真っ向から話をしてもいいかも知れない。それで、お互いに何か気づいたり、考えるきっかけになれば良いと思う。何もなければ離れるだけ。そんな感じの習慣を身につけていきたいな。

 

責務

バイト先に新しく、人が二人やってきた。ともに若く、一人はスーパーの仕事もしてる二十代の女性で、もう一人はまだ未成年の大学生だ。こないだ面接に来てたあの人かと、思えば今はもう机を並べて働いている。職場の空気も若返り、変化で人も活気づく。

 

年長者の醜態を散々見てきたので、若い人と接するのは特に気を遣う。年上のことはいい。その人が敬意を持たれるかどうかは自己責任だし、魅力がないと思えばこちらから距離をとるだけだ。若い人の場合は違う。その人の未来に多かれ少なかれ自分も影響を及ぼすことになるから、今の自分に何が出来るのかを考える。

 

伝えたいことが伝われば、それは嬉しいことだ。けれど、そればかりではないだろう。日常の言動はいつも見られているし、一緒に過ごす時間が長いほど、素の自分がさらけ出される。嫌な部分も含めて、全人格が評価される。それは、良い意味でも悪い意味でも他人に影響を与えずにはおかないし、年長者や地位のある人なら、なおさらだ。

 

若い人と接していて、ハッとしたことがある。職場で以前からよく話をすることのあった人が、ある時、私の受け売りで話しをしているのを聞いてしまった。驚いた。どこかで聞いたことがあると思えば、他ならぬ自分の言葉である。吹き込むでも何でもなく、何気なく発した言葉が相手に乗り移ってしまった。これは、普段の言動に相当気をつけないといけないぞと思った。

 

作られたものには、限界がある。自分をどれだけ良く見せようとも、中身がなければすぐにバレる。言葉はいくらでも飾れるが、言葉に偽善が多ければ、相手もそのまま偽善者になってしまう。

 

昔、会社を辞めた時のことを思い出す。「なぜ俺に相談しなかった」と言ってきたオッサン上司に、心底から呆れたことがある。なぜも何も、そこに「信頼していない」以外の理由がある訳がない。メシに連れて行き、おだてて自尊心をくすぐれば相手がなびくと思ってるのか。それで人心収攬成功と、一人で勝手に勘違いしてるのか。作られた人望に、作られた信頼。それを本気で信じてることこそ噴飯ものだ。下手の考え休むに似たり。他人を作為で操ろうとする、考え自体がおこがましい。

 

年をとって経験が増える。地位が上がる。それを、自分の魅力や人望と勘違いしている人間が多すぎる。実態はどうだ。頭が固くなったり、傲慢になったり、下品になったり。そんなのばかりだ。でかくなるのは態度と声ばかり、器の大きさはちっとも変わりゃしない。

 

振り返れば、今まで困った時に助けてくれた大人がいなかった。こういう言葉をかけて欲しいと思ったことの、一つとして叶えられたことはなかった。力を持ったら持った分だけ濫用する。弱い相手を搾取したり、支配欲を満たすのに利用したりする。今、自分より若い人に接していて、とても同じことは出来ない。あの時、こういう人がいて欲しかったという思いを、自分自身で果たそうとしている。

反省

色んな悪いことが重なり、大人気ないことをしてしまった。

 

人に気を遣わせるより自分が気を遣う方が楽だから、普段はちょっと嫌なことでもスルーできる。

 

ただ、何だかんだ消化は出来ていなくて、余裕がなくなると積み重ねが一気に来る。

 

それだけ見れば些細なことでも、それまでの時間軸の厚みで束になってやってくるから、ムカつきの度合いが半端じゃない。

 

我を忘れることはないけれど、身体が言うことを聞かなかったり声が出なかったりする。無気力になる。

 

休もう。距離をとろう。こういう時は自重するしかない。

 

あと、普段の振る舞いも少し見直そう。最近、また色々と思う所がでてきたので、良いきっかけだったかもしれない。

 

言葉は無力

最近、ほとんど本を読まなくなった。音楽は聴いてる。ネットもしてる。けど、活字を本で読むことがない。機会もないし、読む気も起きない。気持ちが書物から、だいぶ遠のいてしまっている。

 

知ることは確かに大事。けど、知ることと能うことは別だし、知識と経験の乖離はとても大きい。言葉に裏切られたり、翻弄されたりすることが多くなり、言葉というものに信頼がおけなくなった。しっくりくる言葉以外は受け付けなくなった。ましてやそれが、全く違う体験、全く違う人生を経て来た他人の言葉ならなおさらだ。

 

生活は良い方向に向かっている。なぜそうなったかと言えば、環境が変わったから。それ以外にない。身もふたもない。環境を変える力になったのは自分自身の問題意識であり、他人の言うことはいつも逆だった。辞めるな、逃げるなと、現状維持を強いるようなことをずっと言われてきた。

 

ものの分かったようなことを言っていても、現実はこんなもの。その人にとってたまたま良かったことが、他人にとっても当てはまるとは限らない。あれだけ偉そうに、もっともらしく語っていた言葉は一体何だったのか。これだけはっきりと結果が出てしまうと、もはや呆れるを通り越して情けない。

 

言葉で説明できることは怪しい。綺麗に割り切れれば割り切れるほど、切り捨てられたものの中に大事なものが潜んでいるように思う。人一人の唯一無二の体験、個人史を抜きにして、言葉や論理だけで答えが出せるか。どれだけ知識を沢山仕入れようとも、その中にリアルな世界は存在するのか。

 

問題意識を共有できる人はいないだろうかと、本の中に仲間を探し求めたことがある。文学全集を一巻目から紐解き、作者のプロフィールを見て、好きになれそうな作家がいないか探した。が、見つからなかった。プロフィールがみんな似てる。みんな同じ顔をしている。この全集とやらは、帝国大学だかのエリートの、そのまたごく一部の同人がやっているものだと気づいた。

 

境遇が違いすぎたら、もう駄目だ。言葉が入ってこない。普遍的なこと?  それより、割り切れないことが山ほどあるよ。

 

色川武大の『うらおもて人生録』は面白かった。共感できる話が多かったし、影響を受けたところもあった。自身も劣等生だったという色川は、優しい語り口で、若い人に向かって人生のことを話す。博打打ちとして生きてきたこと、作家として生きてきたことなどを踏まえ、人とは違う見方で、ものの考え方や思い出話など、色々なことを話してくれた。

 

ところが、他のエッセイを読むと、全然印象が変わってしまった。ある読み物で、色川のもとに不思議な学生が訪れたときのことを書いていた。その学生は、『麻雀放浪記』を読んだとかで感銘を受けて来たらしく、何か胸に秘めたような様子だった。ただ、どうも捉えどころがなく、立ち居振る舞いに無礼なところもあったので、適当にあしらって帰したと言う。この学生について色川は、せっかく自分が会ってやっているのだから、もっと器用に振舞って人脈につなげていけばいいのにと、呆れるように書いている。また別の読み物では、ウェイトレスをしながら歌手を目指している若い女性について語り、普段の声が小さくてプロ意識がないと評していたりする。

 

誰もが器用に生きられたら苦労はないし、いつも合理的に行動できるとも限らない。そんなことはもう、大前提じゃないのか。『うらおもて人生録』では、劣等生に寄り添うようなことを言っていたけど、実際の態度が全然違う。なんか書き方が嫌らしい。若い人を槍玉にあげて、いかにもオッサンが好きそうな説教くさい話をかましてる。もちろん、言葉の全てに筋を通すことは出来ないし、何かのはずみで口が滑ってしまうこともあるだろう。けど、ここはブレるところか?と思った。

 

きっと、どこかに拠り所が欲しいと思っていた。だから、期待して色々と読んでみた。だけど、ダメだった。この人に、これ以上の魅力を感じないのが正直なところ。こういう時は直感が正しいから、さっさと突き放す。

 

「大道廃れて仁義あり」と言う。人の道が廃れてるからこそ仁義を唱えなければいけないのであり、正しい道の行われてる世の中なら仁義なんてものは必要ない。確かにそうだ。道徳家みたいな人の言ってることに、一理あるのはわかる。いいことを言っているなと思うこともある。けれど、無いに越したことのない言葉が出てくるのには、やはり裏があると見るべきだ。

 

その正論が本当に人格にまで消化されていれば、言葉すらその人から消えてゆく。実態は違う。消化出来ないから、言葉ばかりがブクブクと肥大化していってる。無ければないで済むものを、なぜわざわざ形でもとうとする。口のうまいことをいい、自分も他人も惑わし、次第に言葉と現実の区別がつかなくなり、増長が止められなくなる。言葉を使うのではなく、言葉に使われるようになる。知識、言葉、論理。危ない罠が多すぎる。

人を知る

この前の飲み会で、色んな人と話しをした。初めて話しをする人も沢山いた。話してみて、この人はこんな人だったのかと新しく知ることもあり、色々と思うことがあった。人を知るということについて、考えていることをまとめたいと思った。

 

私自身が良くも悪くも異色の人間なので、自分のことを知られるうちに、よく「意外」という言葉を使われたりする。この「意外」という言葉を人に対して使うのが、とにかく嫌い。こういう感想は聞きたくない。人との関わりの中で、絶対に使うまいとしている言葉だ。

 

凝り固まった頭でものを見るから、意外に感じる。世の中に意外なことなんてありはしない。現実はずっと前からただそこにあって、その人の無知や偏見で見えなくなっていただけ。たかだか人ひとりの一生、人ひとりの知なんて限界がある。世界の広さや深さを前にして出来ることは、虚心に自分の認識を磨き、ありのままを受け入れていくことだけだ。

 

特に、人間に関することはわからないことばかり。これは、色川武大の言葉の中にもあって、大いに共感したところ。賭け事にはセオリーがある。仕事にもセオリーがある。だが、人間を相手にするときには、セオリーは通用しない。例外ばかりだから、無理に当てはめようとすると必ず失敗する。勝負の名人は、そう戒めている。

 

小才のきく奴ほど、方程式で人間を分析しようとする。しゃらくさい。こういうのが、まったく的外れなことを自信満々に吹かしてるの、何度も見たよ。IQ型の才子は人間に関してびっくりするぐらい無知で、自分自身の浅さと同じレベルでしか他人を測ることが出来ない。そのくせ、万能感に溺れている。方程式が外れると、嘘をついたり、言い訳をしたり、ヒステリックに怒り始めたりする。結局のところ、人を舐めているんだよな。

 

人を理解するときには、常に足し算でいきたい。

 

出来る限り個を見る。属性や先入観にはとらわれたくない。もし、その人の知らない一面を見たとしても、驚く必要はない。そういう人だったのだと、ただ認識を変えるだけで良い。後からバレる外ヅラの良さは、むしろマイナスになる。良いことも悪いことも全て足して、その人を理解していく。

 

その上で、これ以上なにもないと分かれば、その人から離れてゆく。欠点は誰にでもあるけれど、それを上回る魅力や期待がなければそれまでだ。怒りも失望もなく、二度とその人と関わらないという選択をするだけ。それが縁。変わることの出来る人は貴重だが、現実にはそんな人ほとんどいないだろうし。

 

生きる意味

バイトを始めてから数ヶ月。仕事もなれ、職場にもなれ、焦りや不安を感じることも少なくなった。居心地もよく、飲み会なんかもふつうにいってる。はじめて、居場所というものができた感じがする。

 

複雑な心境だ。環境は良くなったのだけれど、素直に受け止めることが出来ない。こんな風に自分の居場所があるということが、あまりにも恵まれ過ぎているように思えてしまう。

 

ここまで来るのに長い時間がかかったが、達成感はなかった。持つものと持たざるものとの差を改めて実感して、愕然とするばかりだ。これほどの条件の違いの中を、生きてゆかねばならなかったのか。努めて口にせず、言い訳にしたくなかったけれど、心中密かに感じていた不公平感はやっぱり正しかった。

 

数ヶ月前に金が尽きた。この時のショックの瞬間最大風速は、たしかに大きかった。だが、案外すぐに向きあえるようになったし、実際どうにかなった。申し訳ないが、自分にとって貧乏はさほど深刻なことには感じられなかった。

 

感受性の違い? はいはい、正論正論正論。正論いう人ほど、今目の前にいる人の感受性を否定して、その人のリアルを矮小化しにかかって来るよね。

 

周りからの評判は悪くない。けれど、自己評価は伴わない。なんか、今の状況が嘘くさい。不器用に空回りして、嫌われまくっていた頃の方が輝いていた気がするのは、間違いだろうか?

 

死を抱くよりも 恐るものは

揺蕩う時間に流されて

魂が 老いてゆくこと

ーーALIPROJECT「地獄の季節」

 

どんなに環境が良くなろうと、それでめでたしめでたしで終わることはない。過去は消えることはない。悲しみや苦しみを知っていながら、それに背を向けてノウノウと生きていくことは出来ない。

 

人には人のリアルがあるよ。どんな悩みも苦しみも否定しないし、矮小化するつもりもない。だが、共感出来ないことは出来ないし、どうしたって交わることのない生もある。そこには何も言うことはない。そういう距離感でやっていく。

 

だから、自分だけにしか出来ないことをやろう。自分の罪も自分で背負おう。見栄もはらない。知ったかぶりもしない。嘘つきの言葉には騙されない。

会食

夜、バイト先の人たちに食事に連れて行ってもらった。場所は六本木、高そうな寿司屋で、思わず恐縮してしまうような店だった。

 

狭い店内では、カウンターを囲んで常連の客たちが管を巻いている。大将が愛想よく受け答えしている。客のオーダーに応じて、ちょっとずつ寿司が出てくる。なんかもどかしい気もするけど、一品一品がとても美味しい。

 

お酒も入ってきたころ、やっぱり出てきた会社の人の悪口。予定調和のように話題がそちらへ向かっていく。はっきり言って、これは聞きたくなかった。

 

職場に、今ひとつ要領を得ない人がいる。その人のことを指して、頭の回転の悪い人と話しているとイライラすると言う。話をしている最中に、全く別の話をしだすとか。当たり前のことが分からないとか。そんな不満を聞いた。

 

賛同出来なかった。言葉に出して整理しているうちに、別の問題に気づくことはよくある。経験が少なければ、知らなくて仕方がないこともある。色々な言い方をして空気を変えようとしたけれど、ただ単にフォローしているとしか思われなかった。

 

人は私のことを優しいといい、そういう性格で片付けようとする。優しいわけじゃない。IQの違いで人間同士の無理解や断絶が生まれてしまうことに、強い危機感を持っているから。

 

要領を得ないというのは一方的な話で、側から見れば伝える人の伝え方も悪い。相手の目線に立って伝えられていない。しかも、「そんなこともわからないのか」という空気を出すから、余計に曖昧なことを確認しづらくしている。

 

出来ないことは仕方ない。努力でどうしようもないことは山ほどあるし、それを責めたところで仕方がない。でも、その人がいることで生まれる空気とか人間関係とか、目に見えない大事なものも沢山ある。それは決して代えが効かないもので、いなくなったらやりづらくなるし、寂しくもなる。絶対に今と同じようには行かなくなるだろう。結局、お互いに依存しあって、足りない所を補いあって、生活が成り立っている。

 

そういう目に見えない所を重んじてるから言っているので、優しいという言葉で、「情けをかけてやっている」みたいな受け取り方をして欲しくなかった。

 

美食に囲まれ、狭い中少人数で語り合うというのは、危険なものだと思った。良いこともあるけれど、悪い誘惑に逆らえずにろくな話題が出てこない。目に見えないものが分からない人たちじゃないのは、普段一緒にいてわかっている。けど、環境が人を馬鹿にしてしまう。

 

不満、愚痴。別にいいと思う。けど、なんか言い方が残酷だった。この感じを限られた仲間内で共有して欲しくなかったし、もっと思いやりやユーモアのある形で消化して欲しかった。

 

この場が、ただ共犯関係を築くだけの場に成り下がってしまうなら。美味いもの、美しいものも、一辺に白けてしまうな。

 

普段、あまり言葉の力は信じていないけれど、こういう時には、うまく歯止めをきかせたり、矛先を変えたりするような言葉があって欲しいと思う。人間、内輪で悪口を言い合うという誘惑に勝つのは無理だ。だから、そこにブレーキをかけられる言葉をもってないなら、安易に距離を縮めるべきではないと思う。その方が、お互いに罪を作らずに済む。