運は天にあり

内省の記録

激動の一日

日曜日、宝塚記念キタサンブラック惨敗。

 

大阪杯天皇賞と、春のGIを圧倒的な強さで連覇し、秋にはフランス凱旋門賞への挑戦も決まっていた。一体この馬はどこまで強いのだろう?と、誰もがこの馬に夢を見ていた。

 

ーー行ける所まで行ってみよう。

 

関係者たちがそう言って、史上最強馬への領域に踏み込んだ時、馬は動かなくなってしまった。

 

とにかく鍛えたかったと、異常な量のハードトレーニングを繰り返した調教師の言葉が、思い返せば不吉だった。いくら丈夫な馬でも限界は来る。超ハイスピードの天皇賞の死闘は、深刻なダメージを馬に与えていたことだろう。そんな中でも、レース前の調教まではちゃんと走っていたのだから、キタサンは相当内に秘めるタイプなのだと思う。

 

強くなればなるほど後には引けなくなるって、何のために生きてるのか分からなくなるな。人間にはまだ迷う余地があるけれど、競争馬には走ることしか許されないし。あれだけ強かった馬が、こんなに様にならない負け方をしてしまうということが、なんだか無性に哀しかったな……。

 

去年の宝塚も、マリアライト一世一代の大勝利ドゥラメンテ悲劇のラストランと、ドラマチックなことが重なったのを憶えている。多くの人の思いが集まるグランプリは、毎年必ず何かが起こる。

 

キタサン敗北で馬券も大負けしたあと、夕方から舞浜へ向かった。年に数度かのALI PROJECTのライブに行くためだ。

 

会場はディズニーリゾートの中にあった。初めて来るところなので、リゾートの中がこんなに広いのかと驚かされた。舞浜=マイアミビーチの由来にも大変驚き、道理で世界が違うと思った。ただ、ALI PROJECTのライブの場合、「この人についていけば辿り着ける」とわかる服装の人が必ずいるので、いつも迷わず助けられている。

 

ライブは、前半がゴシックロリータ編、後半がホラー編という二段構えの構成。豪華な舞台を前に、席が正面のかなり前の方だったので、もう呑み込まれるようだった。

 

中でも、「地獄の季節」を生で聴けたのが良かった。本当に良かった。ライブの途中から段々潤んで来るのだけれど、どこかでブレーキがかかってしまっていて、それが「地獄の季節」を聴いた瞬間に感極まった。アリカさんの声もまた絶好調の絶唱で……。個人的に、過去何回かで一番良かった。

 

こういう機会が、あとどれだけ残されているんだろうな。貴重な機会、来られて良かった。最近、悔いを残さないということを、生活の中で強く思っている。


色々あって、久々に気持ちの変化の大きい一日だった。

 

新説・春日山戦記

自作のゲームブックです。良かったら遊んでみてください。

 

リンクはこち

『新説・春日山戦記』(ゲーム画面へ)

 

ゲーム概要
長尾景虎(後の上杉謙信)の少年期から家督継承までを扱ったゲームブックです。
 
ゲームの進め方
  • 最初から始める場合は「ゲームを開始する」を選びます。
  • 以前の続きから始める場合は「ゲームを再開する」を選びます(ブラウザのクッキーが有効な場合のみ)。
  • ゲームがはじまったら、あとは選択肢を選んでパラグラフを進めていきます。
 
戦闘のヒント
  • ターンが回ってくるのは、士気が最も高い部隊です。射撃や牽制で士気を削っていけば、敵の強力な部隊の動きを封じることが出来ます。
  • 攻撃を受け続けた部隊は疲労が溜まり、ダメージを受けやすくなります。疲労は溜まるほど不利になり、自分のターンが回ってくるまで回復しません。兵数の多い敵は、間断なく攻めて疲れさせることで、倒すことが出来ます。
  • 突撃で敵を全滅させた場合、士気が下がりません。とどめの一撃を前衛部隊の突撃に任せれば、突撃の余波で連続行動が出来ます。

 

 

上越遠征記

先日、日帰りで上越に行ってきた。戦国の上杉家が本拠としていた、春日山城を見るためだ。

 

春日山城の城跡は、上越市内の春日山駅から少し歩いたところにある。標高189メートルの春日山に、かつての本丸跡や屋敷跡、謙信が篭ったとされる毘沙門堂などが残っている。ここらの土地は、なにぶん謙信の存在が大きいものだから、城跡も整備されているし、資料館も多いし、普通の公民館にさえ「春日謙信交流館」と格好良い名前がついているくらい、どこも謙信一色である。夏祭りには大河ドラマで謙信を演じたガクトがやってきて、大賑わいになったりもするらしい。

 

私は謙信が好きで、数年前に一度この地を訪れたことがある。今回再び訪れてみると、以前来たときより賑やかで、観光客向けのサービスが増えているように感じられた。

 

とある資料館では、甲冑を着て髭を蓄えた武将が入り口で出迎えてくれた。ようこそ殿、と言葉をかけられたので、どうやら来館者が殿、武将がその家臣という設定になっているらしい。武将だけでなく、受付には着物を着た姫も座っていた。前に来た時はこんなのなかった、すごいことだと思った。

 

ところが、他の来館者を見ると案外淡白で、武将に声をかけられても、しらっとスルーして通り過ぎてしまう。たまたまそんな雰囲気だっただけなのかも知れないけれど、皆ちょっと冷めすぎてないかと思った。確かに、入口正面の避けられない場所で、武将が「殿!」設定で結構グイグイ来るから恥ずかしいというのはある。けれども、あんまりにもスルーが続くのを見て寂しくなってしまったものだから、武将の声かけに積極的に乗ってみた。謙信のことや、城のことなど質問すると、色々教えてくれて面白かった。

 

しかし、そこでつい楽しくなってしまい、謙信について自分で考えていた自説を語りはじめたのが失敗で、とたんに話が長くなってしまい、顔には出さねどうんざりされてしまった。武将は、他の来館者の対応もしなければいけないのであった。うまいこといかないな。

 

春日山へ登ってみると、ここでも甲冑を来た武将とすれ違った。観光客を引き連れ、ガイドをしているようだった。城跡は思ったよりも人で賑わっている。ふとしたきっかけで行きずりの老人と会話になったのだけれど、今度はこちらが長話につかまってしまい、なかなか離れられなかった。歳が違うと話のテンポも違うので、切り上げるタイミングも難しい。

 

その老人から、よく晴れた日には山頂から佐渡島が見えると教えてもらい、そんなに遠くまで眺められるのかと驚いた。前に来た時は天気が悪く、とても佐渡島どころではなかったから、今日は見えるだろうかと期待した。ところが、麓の茶店でその話をしたら、とんでもない、柏崎の方まで行かないと佐渡は見えないと言われてしまった。どちらが本当なのか、山頂から島らしき影は見えた気がするけど、何の島かは分からなかった。

 

春日山の麓には林泉寺という禅寺がある。幼い頃の謙信が修行していたこともある、上杉家とは大変所縁の深い寺である。ここで、東村アキコ雪花の虎』という漫画を知る。謙信女性説にもとづいた、女謙信が主人公の歴史漫画で、作者がこの地に来て講演なんかもしたらしく、そのことが記事になっていた。

 

東村さんは、林泉寺所蔵の肖像画を見て女性説に確信を持ったらしいけれど、言われてみてみると、確かに優しく丸みがあって女性のように見える。大いに興味をそそられ、女性説について寺の人に聞くと、「本人に出てきて喋ってもらわないと分からないからねえ」。あれこれ論じても、ご本人登場でないと決着がつかないというのはもっともな話で、なんかいい言い方だなと思った。

 

4巻まとめて買った『雪花の虎』を読みつつ、夜の新幹線で東京へ。土産に買った笹団子が美味しかった。新潟名物へぎそばも買って帰り、家についてから食べた。これも美味しかったけれど、あとで近所のスーパーで全く同じ商品を見つけてしまい、拍子抜けすると共に、へぎそばの全国的知名度を思い知らされたのだった。

 

怒りの感情について

Twitterで社会問題に関するツイートを見て思っていること。怒りという感情は、実はとても大事な感情なのではないかと思う。

 

同じ問題について、同じような言葉を話すにも、言う人によって全く聞こえ方が違うことがある。ある人の言葉は心に響くのに、別の人の言葉は全く響かないことがある。響かない人の言葉はどこか違和感があって、その人の実体がどこにも見えず、言葉だけがフワフワと浮かんでいるような感じがする。

 

表現の仕方が不器用だから、そう感じるわけじゃない。内容がおかしいからでもない。むしろ、違和感を感じる人ほど、ケチのつかない無難なことを言っているように見える。けれども、無難で穏当な言葉には、あらかじめ批判を交わすような細工がしかけてあるように見えて、無難であればあるほど鼻に付いたりもする。正しいけれどただそれだけ、という言葉は少なからずある。

 

善悪について語るのは、本当に難しいことだと思う。善を説くにしても悪を糾弾するにしても、どうしても自分をどこかで持ち上げることになる。だから、善悪についての言葉を聴く時には、この人はなぜこんなことを語るのだろうとよく考える。今、この言葉を吐かずには居られなくする何かが、この人にあるのだろうか。それとも、自分自身に言い聞かせているだけなのか、弱い者を叩くために語っているのか、誰かの影に向かって喋っているのか。正論を語ることには快感があるから、中にはそれが目的の人もいる気がする。けしからぬと思いつつ、大義名分の味をしめてしまってはいないかな。

 

言葉に真実が含まれているかどうかは、怒りの感情を通してみると見えやすい気がする。この人、大して怒ってないなと思う時は、大体違和感を覚える時。癇癪や我儘とは違う、その人の個人史を左右するような深い怒りの感情……そんなものは、自然と滲み出てくるような気がするな。

  

怒りを共有するのはとても難しくて、安易な共感はあっという間に白けてしまう。それを、共有出来ると思えてしまう人は、涙の意味も怒りの意味も分からないのだろう。善悪を語る時でさえ、怒りを感じることもなく、無難に穏当に済ませようとするならば、この人は何があっても処世術から離れようとしないのだなと思ってしまう。いくら外ヅラが良くても、偽善は嫌いだ。

 

悪童日記』という物語を読んでから、登場人物たちの真似をして自分も感覚を殺そうと思い立ち、最近、手のひらを火で炙ったりしている。

 

物語を読んだのは半年ぐらい前のこと。戦争の最中に育つ幼い双子が、虐待に耐えるため、互いを殴ったりナイフを突き刺したりして、痛みを感じなくする訓練をするという話があり、大いに感じ入るところがあった。それで、その時は冬の寒い時期だったから、寒いという感覚を殺そうと、冷水を頭から被る習慣をつけ始めた。最初はかなり恐怖があったのだけれど、慣れると平気になり、冷水を浴びないと逆に落ち着かないぐらいになった。しかし、この頃はすっかり気温も暖かくなり、もはやただの水浴びになってしまったので、他のことをやろうと思った。それで、思いついたのが炎だ。

 

スーパーで線香を買って来た。「青雲」の徳用型だ。香炉も灰もないので、コップに重曹を敷き詰め、線香を立てる。火をつけて、すぐには燻らせず、そのまま炎を燃え上がらせておく。その炎の真上から、10センチぐらい間をとり、覆いかぶせるように手のひらを翳す。炎の位置はだんだん下がってくるので、それよりちょっと速いぐらいのペースで手のひらを下げ、皮膚と炎をジワジワと近づけてゆく。危ない、と思った所でちょうど炎が消えるような頃合いを測っているのだけれど、炎がしぶとく消えないこともあり、そういう時は手が近づきすぎて、熱さで絶叫しそうになる。手のひらには、微かに香の匂いが染み込む。

 

炎で色々遊んでいるうち、こんなことが出来るのか!とビックリしたのが、指で炎を消すこと。線香につけた炎を、指でつまむと消えるのだ。なぜだか分からないけれど、熱くない。芯を摘むと指が焼けるので、芯には触れないようそっと摘むようにすると、何事もない。炎に触れる恐怖を克服さえすれば、訓練も何も必要なく、火は素手で消せるのである。不思議だなあと思った。

オルフェーヴルの子供たち

2017年6月より、新種牡馬オルフェーヴルの産駒がデビューする。私はこの馬が大好きだったのだけれど、好きな馬の子供がデビューするというのは初めてのことなので、とても新鮮で不思議な気持ちがする。

 

ステイゴールド・母オリエンタルアートの間に産まれ、両親の名にちなんで付けられた名前が、フランス語で「金細工師」を意味するオルフェーヴル。日本の競馬史上7頭しかいない、クラシックレース三冠を達成した歴史的名馬であり、フランスの凱旋門賞でも活躍するなど、世界でもトップクラスの実力をもっていた。名を体現するような輝く栗毛の馬体は非常に美しく、レースでもひと際目立っていて、キャッチコピーには「黄金色の芸術」と称えられるほどだった。

 

オルフェーヴルの魅力は、強さだけでなくキャラクターにもあった。天才的な競走能力とは裏腹に、人一倍臆病で繊細で、精神的に不安定で危うい面を抱えているという、物語の主人公にでもなりそうな馬なのである。幼い頃には牧場で他の馬たちにいじめられ、逃げ回っている内に脚が速くなったという、まるで『フォレスト・ガンプ』のようなエピソードがある。実力がずば抜けているのは間違いないのだけれど、同じ三冠馬シンボリルドルフディープインパクトのような完全無欠な感じはなく、デビュー当時はなかなか勝てなかったし、三冠達成後にも謎の惨敗をすることもあった。さらには、レース中にコース外のあらぬ方向へ走っていくという、普通の馬ですら滅多にしない「逸走」の椿事を巻き起こしたりもしている。強いには強いのだが、精神的な脆さゆえに、負ける時も極端な負け方をするのである。

 

きわめつけは、牝馬に弱いというところ。逸走や原因不明の惨敗を除くと、本気のオルフェを倒したことのある馬は世界で3頭しかない。凱旋門賞で対戦したフランスのソレミアとトレヴ、そして日本のジェンティルドンナの3頭だが、みな牝馬である。男馬相手には圧倒的なスピードでちぎってしまうのだけれど、どういうわけか、強い女馬を相手にすると競り負けてしまうのである。牡馬と牝馬とではどうしても体格差があるので、牝馬が牡馬を苦手とするケースはよくある。だが、オルフェのように逆に牡馬が牝馬に弱いというのは、珍しい。なんだか分からないけど、苦手だったんだろうな。

 

能力の優れた馬が単純に能力順に勝つ訳ではないのは、レースを見ていると常に感じること。天地人の条件や勝負運もあるし、何より馬は生き物だから、数字や論理に現れないことがたくさんある。オルフェの強さ、弱さを見てると、特にそれを思わされる。ある人のことを、妙な欠点があったり、意外な弱点があったりすると、それを「人間らしい」といって親しみを込めて表現することがあるが、同じことをオルフェーヴルにも言いたいと思う。この馬には、人間らしさがある。いや、むしろ、人間かどうかは関係なく、こういう個性に親しみを感じるのは、もっと広く「生き物らしさ」だからなのかも知れない。それは結局のところ、生き物同士、互いに弱点を補って生きていかなければならないという、本能に基づいているような気がする。

 

強い馬の中には、馬社会でも「厩舎のボス」みたいに幅を効かせるものがあると聞くが、オルフェにはそういう話がなく、むしろ大人しい方だったらしい。ただ、興奮すると抑えが効かず、大暴れしてしまう。本当に、競走能力だけに特化した、天才的なサラブレッドという感じだ。しかし、それゆえに、自身の気性に振り回されっぱなしで、速さの代償に多くのものを失っている感じがあって、見ていて堪らなくなる。サラブレッドに産まれたからには、競走能力に優れていることは本望にも見えるけれど、それは人間の都合だから、馬自身にとってどうなのかは分からない。美味いエサにありつけられるとか、そういう有難味はあるのかも知れないけれど。

 

オルフェーヴルの血を継承した子供たちは、どんな活躍をするのだろう。現役時代にいくら実績があっても、種牡馬として成功するかは分からないので、子供が走るのか走らないのか、そこの所は本当に未知数だ。オルフェーヴルの狂気の遺伝子は、今後の日本のサラブレッドの血脈となっていくのか、あるいは淘汰され、一代の徒花となってしまうのだろうか。結果はどうであれ、「父オルフェーヴル」の文字を見たら、その馬は応援してしまうだろうな。

 

言葉からの自由

先日、高校の部活の同窓会を断ったことについて、後から色々と考えた。断ったのは、会うのが気まずいからという単純な理由だったのだけれど、思い返せば、誘いを受けたはじめには色々と別の言葉が浮かんでいた。

 

まず、過去の人間関係に目を向けるなんて、醜いことだと思った。聞けば、部のメンバーで卒業後も定期的にあっているらしいけど、下らないことしてるなと思った。部員の仲が良いといったって、個々人で見たら好き嫌いはあるだろうに、何故わざわざそんなことするのだろう。組織のために個を殺すみたいな、保守的で閉鎖的な感じがするし、同じメンバーでつるんでばかりじゃ、成長なんかないと思う。

 

誘い方も気に入らなかった。せっかくだからとか、この先何かあるかも知れないからとか、まるで行かなかったら損するかのような誘い方だった。昔と違って、話の進め方もすっかり営業っぽくなってしまっていた。会いたいという感情でなく、何となくおためごかしな感じが嫌だった。

 

当初はこんな批判めいたことを考えていたけれど、一晩たったら虚しくなった。こんな言葉は、全て嘘だ。本音は、自分の方に地雷が多すぎるので、会って話なんかしたくないという、それだけのはなし。末長い人間関係があるのは恵まれたことだと思うし、苦楽を共にしたメンバー同士なら、たまに顔を合わせるぐらい普通のことだろう。誘い方が気に入らないなんて、言いがかりもいい所だし。取り立てて批判することなんて何もないのだ。

 

批判して、後から後悔や罪の意識に苛まれていると、ますます自分がやるせなくなるばかり。言葉は、煩わしいな。無意識に本音を覆う言葉の数々は、自分を守る盾にもなってくれるのだけれど、下手をすると人を傷つける武器にもなってしまう。言葉に乗っ取られ、操られてしまうのは、とても危ない。

 

最近、自由ということを良く考える。精神の自由、肉体の自由、色々な自由があるけれど、言葉からの自由というのが今一番大事な気がしている。言い訳を一言もしない人がいたとしたら、素晴らしいことだろう。上手くいかないことばかりの時、救いになってくれる言葉だってあるし、自分を保つためには、どうしても必要だった言葉というのもあるけれど、必要な時が過ぎると、それらはやがて呪いとなり、自分を縛り、嘘を吐かせるようになってしまう気がする。何れは、本音に立ち還らなければならない時が来るのだと思う。